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芦田愛菜現象を引き起こした、ドラマ「MOTHER」のスタッフによる、ドラマスペシャル。脚本は坂元祐二。あり余る才能を賞賛されながらも、「MOTHER」では、何か「作る」者の物怖じが感じられた。なぜだろう。キャスト達のずば抜けた演技でドラマは佳作に仕上がっていたが、 本当はもっと遠くに行けたと思っていたかもしれない。そこでくすぶらせていた「生のチカラ」を今回のドラマに託したという気がする。内容は、大人に内緒で遠くの病院に入院している幼稚園友達の見舞いに行くという物語であるが、こどもの神のような心の痛みを、自由にそして狡猾に存在証明していきながら、印象的な出来事でつづっている。それぞれ子役はみな素晴らしかった。ラスト、芦田愛菜が病気の友達とふたりきりの卒園式をする場面、友情を守りながら別れの儀式をするくだりまで、色のついた出来事がこども達に降り注ぎ続ける。この世の値うちを鳥瞰するようなこども達のそれらに対する視線。それがあるポイントでとどまり続けることがこのドラマの救いであり、さわやかな情感を生んでいる。一見、こどもへの効果が問題視されそうな非日常的な人物の登場は、実はその救いのためのドラマツールとして機能しており、夢から覚めてこども達はまた歩き出す。さて、大人の私はこれからどこへいったものか。やはり夕陽に向かって走るのか・・・うう。
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(メモ) 難しい表現が続く。迷ったときは基本的な記号を頼りに、そこから意味を、そして有り様を探る。内容はいたって既知の世界の記述であるから、流れるように訳せばいいだろうか。exhalationにefflorescenceだもの。 その言語感覚にはそうそうついていけるものでもなかろ。次ターンに雪辱をはかるべし。
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(メモ)
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「当たり前のこと」にあらためて気がつく時、体がふっと軽くなることがある。昔のおきまりのルーチンワークだとか、直観的にかきなぐっていたメモの余白だったりを振り返ってみると、感じることのできたこと、分かっていたことを、時間とともに置き去りにしていたのだなどと思う。それを恥ずかしげもなく追いかけていくことのできる若さを、決して無駄ではないと信じたい。そこで得られたいくつかのささいな気づきは、まだしまい込まれたまま証明を待っている。はじまりはエモーションだ。私たちは、デカルトに帰る時にだってそれを忘れることはない。
さて、20年くらい前はたいていの大きい本屋ならば見つけることのできたこの本である。シェーラーとハイデガーをはじめとする古今東西の思想家の人間観が、運動会の全員参加型リレーの如く登場してくる。人間とは何かに対する直球的解答の一覧、それだけでも読み応えがある。もちろん、現代の人間科学から見ればそれは堂々巡りの使い道のない風景のようなものなのかもしれない。しかし私は思う。こんなものへこそ大きなおまけが付いてくるものなのだと。真摯なもののとっかかりを決して涙の谷に流さない人間の形而上学。機会があればぜひ一読を薦めたい本なのである。
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予定調和的に理解できるものと、デューイの翻訳をはじめたのだが、単純な用語の多用や難解な表現に度々出くわし、視野を広げざるを得なくなった。そんな時に読んだこの本である。記号学の祖パースからデューイ、そしてモリスへと繋がる系譜が書かれており、記号学史全体からデューイの思想を抽出する助けになった。今までの理解を超えて新たにのびてくる地平があり、デューイの果たした重要な役割をより明確に位置付けることができた。 パースは記号の必然性・形式性を強調し、カントのカテゴリを発展させ、文の構造にあてはめることによるゆらぎを解釈項として比較対照した。また、記号過程において直観を排し、経験的に進化することで、ドライな力学がたちあらわれてくる。また、そこで起こる解釈項の問題がデューイの研究を促し、道具的・文化的記号選択、反射弧へと受け継がれ、状況による切り換え・選択を繰り返す人間の実生活に当てはめ直される。そして、その習慣論における「傾向」は、モリスの「解釈傾向」へ受け継がれる。モリスは、パースとの類似点が指摘されることもあるが、「解釈傾向」の同機という問題意識からとらえれば、その「価値的意味」の概念は、むしろ本源性への志向として跡づけられるだろう。
記号学の重要なキーワードが多数網羅されている本書は、初心者にとって非常に有用だと思われる。
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