忍者ブログ
  • 2025.03
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 2025.05
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2025/04/30 06:17 】 |
美術用語 4


『時のかたち ものの歴史についての覚え書き』ジョージ・クブラー
The Shape of Time: Remarks of the History of Things, George Kubler

美術作品だけではなく、人間によってつくられたあらゆる事物を対象とし、事物に内在する時間性の分析から美術史や考古学の方法論の再構築を図った美術史家ジョージ・クブラーの著作。刊行は1962年。クブラーは、事物にはそれぞれ固有の時間の連鎖があると見なすことで、従来の等質的な歴史観によっては捉えがたい時間の複数性や非同期的性質に注目した。クブラーによれば、異なる事物は異なる時間に属し、事物相互のつながりは「シークエンス」を形成し、それがそれ以上展開されえない状態になったとき、独立した「シリーズ」を形成する。このような立場から、従来の美術史(様式史)にはらまれていた単線的な展開――すなわち誕生、発展、衰退などの語彙によって語られる生物学的隠喩の予定調和が批判され、芸術作品とは、ある問題に対する「解」として現われるものであるとされる。また、一個の事物ですら、複数の異なる「系統年代(systematic age)」を備えた複合体であるとされ、クブラーは事物の各構成要素の多種多様な成り立ち=「時のかたち」の発見こそが歴史家の責務であると説いた。このようなクブラーの思考は、同時代のアメリカ美術にも波及した。たとえばR・スミッソンはクブラーを援用し、フォーマリズム批評の限界について指摘している。

 『動物化するポストモダン』東浩紀
Otaku: Japan’s Database Animals, Hiroki Azuma

作家・批評家の東浩紀(1971-)が2001年に刊行した著作。「データベース消費」や「動物化」といった概念を創出し、新書という体裁ながら後のオタク文化・サブカルチャー研究を切り拓く画期的な著作として広く受け入れられた。同書は大塚英志の『物語消費論』(1989)をはじめとする先行の国内言説の刷新を試みる一方、A・コジェーヴの「動物」「スノビズム」やS・ジジェクの「シニシズム」といった用語を援用しつつ、オタクという戦後日本に特有と思われた文化現象を広く世界史的に位置づけようとした二面的な戦略にその最大の特徴がある。現代美術ではひとり村上隆の作品が論じられるにとどまっているが、前述の「データベース消費」をはじめとする同書の作品受容や作品解釈の枠組みが、その後の制作や批評をめぐる動向に与えた影響は小さくない。2007年以降、同書は韓国語、仏語、英語などに翻訳されているほか、「動物化するポストモダン2」という副題を付された実質上の続編『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)も刊行されている。

ナイーヴ・アート/素朴派
Naïve Art

正式な美術教育を受けたことのない作家によって制作され、独学ゆえにかえって素朴さや独創性が際立つ作品をさす。ナイーヴ・アートの作家は、独学で手法や構成を学び、ほかの職業で生計を立てながら、個人的な楽しみとして制作している場合がほとんどである。近年では、75歳になってから農民や田園風景を描き始めたグランマ・モーゼス(アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス)が有名だが、それまで彼女は農業に従事していたという。ナイーヴ・アートの特徴としては、明るい色彩や具象的で緻密な描写、空間表現の平坦さなどが挙げられる。この動向は、20世紀初頭にピカソやルノアールをはじめするパリの芸術家が、税関に勤めながら展覧会に出品していたアンリ・ルソーの絵画を評価したところから始まった。そしてモダニズムの作家たちによる素朴な形態や様式の援用(プリミティヴィズム)や、抽象表現主義の発展とともに、ナイーヴ・アートは現代美術の動向のひとつとして認められるようになった。ほぼ同じ意の用語として「アウトサイダー・アート(英)」や「アール・ブリュ(仏)」がある。これは、狭義には精神病患者や囚人が生み出す作品を指す場合が多く、近年、ヘンリー・ダーガーが紹介されたことにより周知された。

ニューヨーク・ダダ
New York Dada

M・デュシャン、F・ピカビア、マン・レイを主要人物として1915年頃からニューヨークで展開した、ダダ的性格を持った活動。第一次大戦を逃れてニューヨークに渡ったデュシャンとピカビアが15年に再会し、同年にマン・レイがデュシャンと出会ったことに加え、デュシャンの作品のコレクターでもあったW・アレンズバーグが自邸のリヴィング・ルームを前衛芸術家や作家たちのためのサロンとして開放したことにより、さまざまな人物が交流を深めた。デュシャン、ピカビア、マン・レイはNYの近代的な都市空間のなかでオブジェクティヴかつ機械的な作用や連関を想起させる作風を加速させた。彼らの作品に触発され、アメリカの若い作家たちも機械的な絵画やオブジェを手がけた。「ダダ」としてのグループの形成はあくまで自然発生的なものであるが、ダダ的なユーモアや否定精神が、マス・プロダクションの原理や同時代的なテクノロジーの状況と結び付くことにより、独自の反芸術的傾向を醸成したのは確かである。その後デュシャン、マン・レイ、アレンズバーグがニューヨークを離れたことにより、21〜22年頃にグループの活動は終息へと向かった。

「人間と物質」展
“10th Tokyo Biennale: Between man and matter”

第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)。1970年5月から8月にかけて、東京都美術館を皮切りに京都市美術館、愛知県美術館、福岡市文化会館を巡回。ナショナリズムの競争舞台でもある国際展には当時、学生の反対運動で混乱した第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968)を契機に世界的な批判が高まっていた。これを背景に本展は開催年を本来の69年から1年延期し、企画構成のすべてをコミッショナー中原佑介に一任、国別参加制と受賞制度の廃止といった大幅な改革を断行した。1〜2作家に1部屋を与え、図録の構成も各作家に委ねるなど個人尊重の方式のもと、英タイトルが示す通り人間と物質の「関係」をテーマとした40作家による展示内容の大半は、もの派、アルテ・ポーヴェラ、コンセプチュアリズムの傾向で占められた。従来の「作品」観を裏切る素っ気ない様相は賛否の議論を呼び、赤字のため72年の国際展を休催する事態ともなったが、評価の定まっていない海外動向をいち早く紹介し、特にもの派の問題関心を明確化して国際的文脈に位置づけた展覧会として後年の評価が高い。国外作家の多くが来日して現場制作を行ない、その場に応じて作品を変化させるなど、美術館という場所や展覧会というメディアにも問いを投げかける実験性を帯びた展覧会でもあった。

 「ネット・ペインティング」草間彌生
“Net Painting”, Yayoi Kusama

現代美術家、草間彌生が1950年代末にニューヨークで発表した絵画のスタイル、および作品シリーズの呼称。「インフィニティ・ネット(Infinity Net)」あるいは「無限の網の目」とも呼ばれる。57年にシアトルを経由してニューヨークに移住した草間は、59年、抽象表現主義作家が集まったことで知られるマンハッタン10丁目のブラタ・ギャラリーで個展を行なう。このとき、黒を背景に、キャンヴァス全体に白い絵具で細かい弧を描き込み、白のウォッシュをかけた、5メートル近くになる大型絵画を5点発表する。反復される弧が網の目状に見えることから後に「ネット・ペインティング」と呼ばれるようになる。この作品はドナルド・ジャッドやドア・アシュトンら著名な評論家に注目され、草間はニューヨークでの活動の基盤を固めた。ただし「ネット・ペインティング」という呼称が最初に用いられるのは、草間の独自性が再評価されるようになった80年代末以降のことである。同じくよく知られる彼女の水玉(ポルカ・ドット)の絵画とは、ネガとポジの関係にあるとされ、両者とも草間の代表作となっている。作家によると、網の目のパターンは、彼女が幼少の頃より抱える精神障害や幻覚に由来し、そこには強迫的なくり返しの衝動をもたらす病理的な側面がある。だが他方で、同じ単位の均質なくり返しが同時代のポップ・アートやミニマリズムに見られる工業的な反復と比較されることもあり、美術史上の先見性や価値も認められてきた。さらに後年には渡米以前の日本画やシュルレアリスム要素の強い絵画の多くにも、網の目模様が見られることが指摘され、その起源や発展経緯は複合的だと考えられる。「ネット・ペインティング」に端を発する同じ形態の反復は、その後マカロニやステッカーといった既製品、布製のオブジェなどさまざまな要素で展開し、インスタレーションやパフォーマンスにも応用されるなど、これまで一貫して草間の制作の基本原理となっている。

ノイエ・ザッハリヒカイト/新即物主義(美術)
Neue Sachlichkeit(独)

1920年代から30年代初頭のドイツにおける、克明な形態描写と社会批判的なシニシズムを特徴とするリアリズム絵画の総称。23年にマンハイム美術館館長のG・F・ハルトラウプが執筆した展覧会の企画書でこの言葉が使用され、25年に開催される展覧会のタイトルとなった。グループとしてのまとまりはなく、それぞれの画家の個別的な活動に終始したが、人物の肖像をコミカルかつ醜悪にデフォルメして描いたG・グロッス、生々しい形態感の人物描写を行なったO・ディクス、頽廃的な都市生活をパノラマ的な群像表現で捉えたM・ベックマンなどの活動が知られる。その絵画様式は、ドイツ表現主義やベルリン・ダダが分かち持っていた社会批判的側面を受け継ぐように、第一次大戦後のドイツの政治体制・社会風俗への風刺性を持つ。だが、その厳密かつ冷徹な客観性を追求した表現には、同時代へのジャーナリスティックな眼差しともに、ドイツ表現主義の主観主義や抽象的傾向への反発が込められていた。しかし、ナチスの台頭によって新即物主義の作家たちのほとんどは公職を解かれ、ヴァイマル共和政の崩壊とともに活動の収縮を余儀なくされた。

ハプニング(美術)
Happening

主に1950年代後半から60年代を中心に行なわれた伝統的芸術形式や時間的秩序などを無視し、偶然性を尊重した演劇的出来事。この名称は59年、ニューヨークのルーベン画廊で開催されたアラン・カプローの《6つのパートからなる18のハプニング》に由来し、これはタイトルに「ハプニング」が使用された最初のイヴェントとなる。カプローは、間接的には未来派やダダイズムの影響を、直接的にはジャクソン・ポロックのアクション・ペインティング、作曲家ジョン・ケージの即興の概念などを背景としている。芸術家が行為者となって自然発生的な演技を行なう演劇的形式のため、非再現的で一回性が強い。あくまでもタイトルの一部であった「ハプニング」という言葉は、カプロー以降、そこにおいて繰り広げられたアクション(演技)そのものを指すようになり、芸術形式を表わす言葉として使用されるようになった。この芸術形式はアメリカ国内ではクレス・オルデンバーグ、ジム・ダイン、レッド・グルームズらに引き継がれ、またヨーロッパにおけるフルクサス、ドイツのヴォルフ・フォルステル、フランスのジャン=ジャック・ルベル、日本における具体美術協会(具体)などによってハプニングは新たな展開を提示することとなる。

「ハプニングとフルクサス」展
“Happening und Fluxus”(独)

ケルンのクンストフェラインにおいて1970年11月6日から翌年1月6日まで開催されたハプニングおよびフルクサスのイヴェントを中心とした展覧会。キュレーターはハラルド・ゼーマン。参加作家は、W・フォステル、A・ハンセン、R・ワッツ、G・ヘンドリックス、A・カプロー、H・ニッチなど。後年、ゼーマンは「パフォーマンスは展覧会に適さなかった」として同展の失敗を回顧したとも伝えられているが、ケルン当局からのクレームによる一部作品の撤去など物議を醸した展覧会ではあった。スキャンダラスなパフォーマンスのひとつには、たとえばウィーン・アクショニズムの作家O・ミュールが開催2日目に行なった全裸の男女数人によるパフォーマンス《マノサイコティック・バレエ》がある。もちろん過激さが前景化した作品ばかりではなく、スコアに基づき観客が参加する典型的なハプニング《木屑》(カプロー)などの作品も展覧会では体験できた。また、開催に際して出版された59年から70年までのハプニングおよびフルクサスに関する資料、印刷物、写真図版などが掲載された展覧会と同名のペーパーバック(ハンス・ゾームらの編集)は、同美術傾向の記録としても評価されている。近年の関連動向としては、同展のレトロスペクティヴ展「ハプニングとフルクサス ケルン・クンストフェライン1970」が映像系作家のM・オーデンバッハをキュレーターに招き入れ2007年にケルンで開催された。

反演劇性
Anti-Theatricality

批評家・美術史家マイケル・フリードが提示した批評概念。1967年に執筆された「芸術と客体性」で、フリードは、ミニマリズムの芸術を批判する目的で「演劇性」という概念を提示した。「反演劇性」とは、このテキストにおいて、「演劇性」の打破を目的とするモダニズム芸術の本質的な価値として登場するものである。ただし、フリードが「反演劇性」を本格的に取り上げるようになるのは、20世紀の美術を論じた美術批評ではなく、18世紀フランス絵画をそれと同時代のD・ディドロのテキストを通して考察した『没入と演劇性』(1980)、つまり美術史のフィールドにおいてであった。この研究でフリードは、これ見よがしに自らの姿態を観者に見せつける「演劇的」な絵画の克服に向けられる「反演劇的」な絵画的系譜を追究している。これらの「反演劇的」な絵画では、描かれた人々はその画面のなかで何かに没頭し、観者の存在が画中の人物によって意識されることはない。とはいえフリードは、この「演劇的/反演劇的」の対照関係はなんら確定的なものではなく、状況に応じて転回し変節するものであると断っている。後期ウィトゲンシュタインの影響から作品の置かれた歴史的文脈を重視するフリードは、C・グリーンバーグ流の本質主義を退け、演劇性と反演劇性の耐えざる係争のなかに近代絵画史を位置づけ直そうとするのである。2000年代に入りフリードは、現代美術や現代写真の本格的な批評的検証にも着手し、それらの作品にも繰り返し「反演劇」的伝統を見出している。

反芸術
Anti-Art

広義には20世紀前半に美術の伝統的価値の破壊を試みたダダの精神および方法を多かれ少なかれ継承し、1950年代半ばから60年代半ばにかけて各地で起きた美術の動向を指す。アメリカ合衆国のネオダダ、フランスのヌーヴォー・レアリスムに代表され、日用品、印刷物、がらくた、廃物を用いた制作など、既存の美術表現から逸脱しつつも非芸術ではない新たな芸術の創出が試みられた。日本においては、九州派、ゼロ次元、ネオ・ダダイズム・オルガナイザー、ハイレッド・センターなどが挙げられるが、彼/彼女らの多くにとっての活躍の場であった「読売アンデパンダン」展をきっかけとして「反芸術」という言葉が一般化した。すなわち、60年に開催された第12回の同展に対する批評のなかで東野芳明が工藤哲巳の作品を「ガラクタの反芸術」と名付けたことによる。そこで東野は「絵画とか彫刻の概念からすれば異質な素材をもってくることが、一種のヒステリックな反抗だったり、新しいものへの便乗だったりする意識が非常にあったわけだが、そのなかでやはりそれが自然的に、無理なく出てくる作家、たとえばいまの2、3人(工藤、篠原有司男、荒川修作)の中に出ているような気がするのだ」と反芸術を説明した。しかし、東野の意図を離れて、「反芸術=ヒステリックな反抗」といった負の意味で流布した側面もある。反芸術の展覧会という様相を呈していた「読売アンデパンダン」展も、63年には不快音、悪臭、腐敗をもたらす作品の禁止や展示方法の制限など規定を設け、翌64年には開催が中止された。同年には公開討論会「反芸術、是か非か」の開催や東野と宮川淳との間で「反芸術論争」も起きたが、それをもって「反芸術」の終焉と見なす向きもある。その解釈にもとづき、磯崎新は97年に「日本の夏1960-64 こうなったらやけくそだ!」(水戸芸術館)を企画監修した際、「反芸術」の時代をその5年に定めた。

反芸術論争
Debate on Anti-Art

1964年4~7月号の『美術手帖』において、宮川淳と東野芳明との間で交わされた「反芸術」を巡る誌上論争。まず宮川が、同年の公開討論会「反芸術、是か非か」を起点とし、その司会者であり、「反芸術」という言葉の生みの親でもある東野に問題提起した。宮川は、戦後抽象絵画の果てに反芸術が現われたとする東野の論は抽象/具象の二元論であり、また、反芸術の先駆としてのポップ・アートにおける「日常性の氾濫」についても単に外的環境の変化に伴う画題の変化という解釈に留まっていると批判した。そうではなく、ポップ・アートひいては反芸術における「日常性への下降が、『事実』の世界の復帰であるかに見えて、かえってレアリテの概念を空無化している」点が重要であり、そこにこそ「作家の唯一のアンガージュマンが賭けられるべき表現過程の自立」があると宮川は主張した。それに対して東野は、デ・クーニングとラウシェンバーグの間に抽象表現主義への単なる反動ではない弁証法的発展を指摘した事実は抽象/具象の二元論に陥っていないことを示しており、ポップ・アートの「逆説的なディスコミュニケーション」についても論じたはずだと反駁した。そして、むしろ《大ガラス》以降のデュシャンの「永遠の可能性」である沈黙と不制作のなかに「『反芸術』の根底的な姿」があると主張したが、宮川は、デュシャンの中に反芸術を永遠化するのではなく、デュシャンとの関係において反芸術を語るべきであり、ポップ・アートについても根本的な変化を捉えていないと異議を唱えた。また、デ・クーニングとラウシェンバーグの系譜学を抽象表現主義からの弁証法的発展に敷衍することも暴論だと東野の帰納的推論の脆弱性を指摘した。直接的には最後となる東野の応答では、宮川の個別的吟味の欠如が批判され、「まず個々の作家への具体的な思考のつみ重ねの末に普遍化が生まれ、また、その普遍的な概念の限界を、個々の作家の『特殊な』面がつきくずしてゆく」のが芸術あるいは反芸術の弁証法であるとして新旧の批評パラダイム間の論争は平行線のまま終焉した。

『反美学 ポストモダンの諸相』ハル・フォスター
The Anti-Aesthetic: Essays on Postmodern Culture, Hal Foster

批評家のハル・フォスターにより編まれた論文集。1983年出版。フォスターによる序文とポストモダン文化に関する全9編の論考を収録。各編で扱われている主題は建築、彫刻、絵画、写真、音楽、映画、文学、政治など多岐にわたり、あらゆる領域にまたがるモダニズムおよびポストモダニズムの諸問題を包括的かつ批判的に検証した評論集として広く読まれている。本書の主眼はポストモダン文化をさまざまな角度から考察することによって、その複雑性を提示することに置かれている。フォスターは資本主義社会下の文化を短絡的に肯定するためにモダニズムを闇雲に拒絶する立場を「反動(reacition)のポストモダニズム」として批判。それに対するものとして、閉塞的な状況の打開を目的としてモダニズムを積極的に脱構築していく「抵抗(resistance)のポストモダニズム」の実践を提唱する。序文に続くユルゲン・ハーバーマス「近代――未完のプロジェクト」では失効したかに思われたモダニズムの更なる可能性が再考されるが、後に連なる論考はいずれも各領域における「抵抗」の実践例を示したものだ。近代建築におけるユートピア主義の破局を取り上げたケネス・フランプトンや、近代的男性支配への批判としてフェミニズムを捉えたクレイグ・オーウェンスは、絶えざる進歩を前提とした近代の失墜を明らかにする。美術界ではモダニズムの断絶が起こり、その影響は、ロザリンド・クラウスが論じた彫刻理論の解体や、ダグラス・クリンプが言及した美術館という近代的制度の崩壊に現われている。文化批評を扱ったものには、グレゴリー・L・ウルマーとエドワード・W・サイードの論考がある。また、フレドリック・ジェイムソンはポストモダン文化に共通する特徴をパスティーシュや分裂症といった概念を用いて論じ、ジャン・ボードリヤールは資本主義社会下の新たな時間と空間の様態を描き出している。

反復
Repetition

同一パターンの繰り返しは、デザインの分野では装飾への応用として長い歴史をもつが、芸術においては20世紀以降、印刷技術や工業技術の発達に伴い、ポップ・アートのシルクスクリーンによる複製作品や、ミニマル・アートの単一の構成要素が反復される構造をもつ立体などに認められる。特に反復については、構造主義以後のポストモダンにおける芸術作品の置かれた状況を分析するための有効なキー概念として認識されることとなった。アンディ・ウォーホルによるキャンベル・スープ缶の作品に代表される日常的なイメージの過剰な反復は、マーシャル・マクルーハンのメディア論との共犯関係にありながら、思想家のジャン・ボードリヤールが提示したシミュラークルのごとく、記号的操作によってイメージそのものを匿名的かつオリジナリティを喪失したコピーへと変質させている。また、ロザリンド・クラウスは1985年に出版された論文集『オリジナリティと反復』で、美術作品の条件をフォーマリズム的な価値判断から作品の構造の解明へと転換させる目的のもと、美術史において神話化された作者や作品のオリジナリティに、作品の複数性、反復の概念を導入することで、それらの二重化した関係を分析している。そこでは、絵画の平面性における「グリッド」の形象に、オリジナリティと反復との二重化を見出し、クレメント・グリーンバーグの還元主義的なモダニズムを、神話的なカテゴリーを崩壊させることで批判している。

『パフォーマンス:未来派から現在まで』ローズリー・ゴールドバーグ
Performance: Live Art 1909 to the present, RoseLee Goldberg

未来派の活動を源泉として現在までのパフォーマンスの系譜を概観した、美術史家・批評家のローズリー・ゴールドバーグの1979年の著書。2度の改訂を経て、2001年版では最新の動向の記述が盛り込まれた。本書は、狭義の舞台美術であるダンスや演劇に限らず、ハプニング、イヴェントなどのすべての身体表現を「パフォーマンス」として総括するものであり、戦後アート・シーンの身体表現における芸術(美術)概念の拡張を受け、インターメディア的な現象を未来派やダダ、シュルレアリスムなどの前衛芸術に遡って検証したものといえる。20世紀初頭から30年代における芸術活動は、パフォーマンスから開始されたという主張がゴールドバーグに一貫する論旨であり、最新版の序文においても、パフォーマンスこそが既存の表現形態の区分を破壊し、新たな方向性を指し示す「前-前衛(avant avant garde)」的活動であったと述べられている。むろんこのような見解はやや極論であるというべきだが、文学や美術など、ジャンルの複合性を兼ね備えた前衛芸術運動が、パフォーマンスという無形の表現によって初めて実態のある活動へと媒介されたという視点は重要だろう。中原佑介による邦訳がある。

表現主義(美術)
Expressionismus(独), Expressionism(英)

広義には、グリューネバルト、アルトドルファー、デューラーなどのドイツ・ルネサンス絵画、あるいはゴッホやムンクらの近代絵画に至るまで、非自然主義的な描写によって、内面的な感情表出や主観的な意識過程を外的な世界観の歪みによって強調するような芸術の傾向のこと。もちろん、「内面」や「意識」が外的形式へと表出可能になるような近代的体制が表現主義の概念を準備したとも言える(20世紀初頭には、北方ルネサンスの再評価が美術史家H・ヴェルフリンらによって進められた)。20世紀半ば以降には、「抽象表現主義」や「新表現主義」などと呼ばれる潮流も生まれた。表現主義の語は建築、音楽、舞踊、文学などの領域でも使用されるが、狭義には、20世紀初頭のヨーロッパで生じたフォーヴィズムから「ブリュッケ(橋)」や「青騎士(ブラウエ・ライター)」の活動へと至る一連の流れを指すことが多い。デア・シュトゥルム画廊が発刊した同名の雑誌で、1911年に表現主義の概念がより限定的にドイツを中心とした当時の芸術動向を表わすものとして使用されたのが初期の使用例である。そのため、時代的には、それ以前の印象派やポスト印象派とは逆の語義(Impressionismに対するExpressionism)を持つことが意識されていたことになる。05年には、固有色を無視した強烈な色彩と筆触によって後の抽象絵画の展開に繋がる絵画的実験を行なったブリュッケがドイツのドレスデンで結成された。ブリュッケの中心的画家E・L・キルヒナーは、ベルリンの街を遊歩する人々を対象として、都市社会の神経的な刺激作用を表現主義的な様式で描き出したが、彼らはほかにもパラオ諸島の彫刻、中世ドイツの木版画、アフリカ・オセアニア美術、エトルスク美術などの土俗的・原始的な文化様式を「発見」し、それらを現代生活の感情的・精神的形式と通底させようとした。このように、原始性において来るべき民衆の姿を(再)発見するという過程は、エジプトや東洋の芸術、民俗芸術、児童画を年刊誌『青騎士』で紹介した「青騎士」(1911年結成)にも通じるものである。ところで、青騎士で活動したW・カンディンスキー、P・クレー、L・ファイニンガーは後にバウハウスの講師に迎えられており、またクレーやファイニンガーの描き出すプリズム状に色調が変化する画面はドイツの建築家B・タウトの「ガラス建築」のヴィジョンに通じるものだった。加えて、バウハウスの初代校長であるW・グロピウスは、初期にはタウトの影響下に表現主義建築を手がけていたことから、合理的主義的・機能主義的方法によって開かれた文化的実践の拠点となったバウハウスの根底には、表現主義の潮流が深い影を落としていたと考えられる。

表現主義論争
Expressionismus-Diskussion(独)

1937年から38年にかけて、モスクワで発行されていた亡命知識人たちの文化誌『ダス・ヴォルト』を中心として起こった論争。ナチス・ドイツに対する国際的なファシズム闘争のさなかに、ヨーロッパとロシアの各地で亡命生活を送る多数のドイツの文学者・芸術家を巻き込む論争に発展した。この論争は、表現主義文学の代表的詩人ゴットフリート・ベンが公然とヒトラー・ファシズムを支持するに至り、ベンを批判するクラウス・マンらによる文章が『ダス・ヴォルト』に掲載されたことを発端とする。その後、表現主義を擁護する論陣と、表現主義にはらまれていた政治性がファシズムを準備したとして批判する論陣とに分裂し、熾烈な論争が展開された。この論争に参加した主要人物にはエルンスト・ブロッホやジョルジ・ルカーチらがいる。民衆的リアリズムの立場から、表現主義の無媒介的な直接性と形式主義を批判したルカーチに対し、ブロッホは、F・マルクやA・マッケらの「青騎士」では、土俗的・民衆的な文化の再発見が行なわれ、民衆性が前衛芸術との接触において回復されたのだとする文脈から表現主義を擁護した。結局この論争は、反ファシズム闘争を内部から二分しかねないことを憂慮した同誌の編集委員で劇作家のベルトルト・ブレヒトが論争に関わる文章の掲載の打ち切りを決定したことにより終着を迎えた。

ビオトープ
Biotope

生物の生息環境のこと。ギリシャ語の「bios(生)」と「topos(場)」の合成から生まれたドイツ語の単語「Biotop」に由来し、英語でも「biotope」という同系統の単語が広く用いられている。生物学における「ビオトープ」の概念は、動物地理学者フリードリヒ・ダールの論文「生物群集研究の諸原則と基本概念」(1908)および著書『生態学的動物地理学の基礎』(1921/23)に由来する(「ビオトープ」概念がドイツの生物学者E・ヘッケルの『有機体の一般形態学』[1866]に起源を有するという説が一般に流布しているが、これは2008年の佐藤恵子[東海大学教授、生物学史]の論文によって否定されている)。多くの動植物が共存する複雑な環境の総体を指すのがいわゆる「生態系(ecosystem)」だとすれば、「ビオトープ」とはある生物が持続的に生息できる最小単位に相当するものであると言えよう。ここから転じて、現在では自然にあらかじめ存在する種々の生物の生息環境のみならず、人工的に作られた生物環境もしばしば同じく「ビオトープ」と呼ばれる。とりわけ20世紀後半に顕著になった環境保全に対する意識の高まりによって、ビオトープは狭義の「生物の生息環境」という意味を遥かに越えて、ホタルやトンボの生息環境の保護や回復を訴える環境倫理および市民運動へと広がっている。また、「生物が持続的に生息可能な環境」というビオトープの拡張的な用例は、人間の経験や行動様式を周囲環境との関わりにおいて考察するメディア研究やアフォーダンス研究にしばしば見られるものでもある。

ファウンド・オブジェ
Found-object

「見出された対象」。端的に言えば、いちど何らかの目的のもとに使用された「物」のことであり、より限定的に言えば、そのなかでも芸術作品を構成する要素として流用・転用された「物」を意味する。「ファウンド」という英語と「オブジェ」という仏語の奇妙な接合が示唆するように、この言葉はダダやシュルレアリスムにおける「オブジェ(物、対象)」を用いた制作実践と深く結びついている。実際、ファウンド・オブジェの典型的な例としてしばしば挙げられるのは、シュルレアリスムのコラージュや、クルト・シュヴィッタースの「メルツ」シリーズにおける日用品や廃棄物である。同時に、先の定義上、一般的なコラージュ作品における素材(新聞や雑誌の切り抜き)、M・デュシャンのレディ・メイド作品(《泉》における便器)、もの派において使用される物体(石や木材)も、広義のファウンド・オブジェに含めることが可能だろう。後者の定義をとれば、川俣正や大竹伸朗の作品をはじめとして、ファウンド・オブジェによって構成される作品は今日枚挙に暇がない。冒頭で記したように、本来ファウンド・オブジェという言葉は、特定の機能(使用価値)を持った物体が芸術としての機能(美的価値)を付与されたときに用いられるものであった。しかし、1960年代以降の流用、転用、シミュレーションをはじめとする新たな制作原理が明らかにしたように、そもそも「使用価値」と「美的価値」という分類自体が実は極めて曖昧なものである。したがって今日この概念について問われるべきは、当初のダダ、シュルレアリスムの含意を超えて、「見出された(found)」「対象(object)」という言葉の外縁をいかに定めるかという問題であると言えるだろう。

ファクトゥーラ
Faktura

絵画やレリーフの表面処理または表面効果のこと。特にロシア・アヴァンギャルドやロシア構成主義の段階的な発展のなかで、芸術作品の構成要素である素材固有の特性や基本的な諸ファクターが重視されはじめ、ガラスや鉄などのモダンな素材への関心の高まりなどとともに、絵画における色彩/テクスチャー/平面性などの構成要素を「現実」の対象として扱おうとする美学的な議論が、ファクトゥーラの概念形成に働きかけることになった。早くとも1912年にD・ブルリュークが「ファクトゥーラ」というテキストを発表し、13年にはM・ラリオーノフが「光線主義者宣言」で「絵画の本質」を形成するものとして色彩の相互関係などとともにファクトゥーラを挙げ、自身も絵画表面の物質性を強調した作品を手がけた。さらに14年にはV・マルコフが小冊子『造形芸術における創造原理―ファクトゥーラ』において幅広い立場からこの概念の理論的考察を行なったほか、マレーヴィチも自身の文章のなかで、セザンヌを新たなファクトゥーラを開発した画家として取り上げるなど、1910年代のロシア・アヴァンギャルドの芸術的/技術的革新を支えた概念のひとつである。

フォーマリズム
Formalism

作品の形式的諸要素(線、形態、色彩など)を重視する美学的な方法のこと。美術作品独自の物質的な条件に関わり、その視覚的特性へと偏向することで、他ジャンルからの弁別と美術作品の史的展開の自律性・連続性がしばしば強調される。古くはK・フィードラーの純粋可視性の議論やH・ヴェルフリンらの美術様式論、ブルームズベリー・グループのC・ベルとR・フライの批評理論などがあり、ニューヨーク近代美術館の館長を務めたアルフレッド・バーJrの自律的な抽象芸術の系統的・発展史的理解やC・グリーンバーグによるメディウムの純化と戦後アメリカ美術の擁護、M・フリードのメディウム・スペシフィックな議論などが登場し、美術史のみならず、現代美術の批評と実作の双方にも大きな影響力を及ぼした。フォーマリズムに関しては、誕生、発展、衰退などの擬生物学的なメタファーから美術の線的かつ統一的な展開を暗黙裡に前提とする様式史的立場や、内容に対して形式を重視する側面、政治的、社会的、倫理的コンテクストの排除などが問題視される。また、80年代以降は、記号論的な作品分析などによって反形式主義的なメディウム・スペシフィシティを開拓しようとするR・E・クラウスや、構造主義的な方法論の導入によるフォーマリズムの刷新を目論むY・A・ボワの登場によって、その方法論自体が批判的な検討の対象になった。フォーマリズムを乗り超えようとする彼らの批評的企図は、美術批評の新たな理論的展開に寄与している。

フォーヴィスム
Fauvisme(仏)

「フォーヴィスム(野獣派)」は20世紀初頭の絵画運動のひとつである。1905年、パリで開催されたサロン・ドートンヌの一室は、若い画家たちによる激しい色彩表現が特徴的な絵画で埋め尽くされた。「フォーヴィスム」という名は、これを見た美術批評家のルイ・ヴォークセルが「野獣(フォーヴ、fauve)の檻の中にいるようだ」と発したことに由来する。主要メンバーは、エコール・デ・ボザールでギュスターヴ・モローに学んだアンリ・マティス、アルベール・マルケ、ジョルジュ・ルオー、そしてセーヌ河畔に共同アトリエを構えていたアンドレ・ドランとモーリス・ド・ヴラマンクなどであった。後には、ラウル・デュフィやジョルジュ・ブラック、そしてオランダ出身のキース・ヴァン・ドンゲンなどが加わった。彼らは、ポスト印象主義や新印象主義の画家たちから影響を受けたが、主に激しい色彩表現や原色の使用については、ポール・ゴーギャンとヴィンセント・ヴァン・ゴッホから学び、色彩理論についてはジョルジュ・スーラやポール・シニャックから学んだ。その結果、色彩がもつ表現力を重視するようになり、絵画の再現的、写実的役割に従属するものとしてではなく、感覚に直接的に働きかける表現手段として色彩を用いた。しかし、このような色彩主義の時代は長くは続かず、マティスこそ明快で豊かな色彩を生かした独自の表現を貫いたが、08年頃から次第にブラックはキュビスムへ、ドランとヴラマンクはセザンヌの影響から構成の世界へとそれぞれ関心が移行した。

フルクサス
Fluxus

1960年代前半にリトアニア系アメリカ人の美術家ジョージ・マチューナスが主導し、世界的な展開をみせた芸術運動、またグループを指す。日本では靉嘔、一柳慧、オノ・ヨーコ、小杉武久、塩見允枝子、刀根靖尚らが参加。63年のマチューナスによるマニフェストでは、ヨーロッパを中心とした伝統的な芸術に対抗する前衛的性質を掲げながらも、フルクサスの語源がラテン語で「流れる、なびく、変化する、下剤をかける」など多様な意味をもつように、流動、変化という点において厳密な定義が避けられた。
マチューナスが61年にニューヨークのマディソン・アヴェニューにオープンしたA/Gギャラリーでのイヴェントや、62-63年に西ドイツのヴィースバーデン市立美術館で企画された「フルクサス国際現代音楽祭」(その後、ヨーロッパ各地に巡回)が、フルクサスの初期の活動とされている。63年以降は、ニューヨークでのマチューナスによる名簿の作成といったグループの組織化、また新聞の発行やマルティプルの「フルックス・キット」の制作など、共同体としてのフルクサスを目指すプロデューサーとしての「具体主義」、「機能主義」的な活動が顕著となり、その活動は78年の死去まで継続された。フルクサスには、50年代のニュー・スクールでのJ・ケージの音楽や理論の影響が見られる。また美術家、音楽家、作家、舞踏家によるインターメディアという特徴を持ち、ケージやA・カプローらによって展開された非再現的で一回性の強い「ハプニング」とは異なる、スコアに基づいた日常的行為が「イヴェント」として実践された。

拍手[0回]

PR
【2012/10/10 11:08 】 | data | 有り難いご意見(0)
美術用語 3
瞬時性と持続 Instantaneousness and Duration 美術批評家マイケル・フリードが論文「芸術と客体性」(1967)で提起した対概念であり、モダニズム美術とミニマル・アートを比較し、前者の優位を主張する文脈のなかで導入された。フリードの批判対象としてのミニマル・アートは、しばしば同じ構成単位が反復的に配置され、鑑賞者がそのあいだを動き回りながら経験する点で、見られることの持続性によって作品が成立する。このように作品の効果が鑑賞者の時間的な経験に依存する限りにおいて、ミニマル・アートは作品としての自律性を持ちえず、対してモダニズム美術は、独特の仕方でそうした持続する時間を克服しており、それを可能にするのが瞬時性である、とする。しばしば誤解されがちだが、ここでの瞬時性とは、作品が一瞬のうちに見られる性質、というような単純なものではない。フリードはアンソニー・カロの彫刻作品において、各々の部分が別の部分との相互作用のなかにありながら並列される点に、シンタクス(統語法)的な関係を見出す。諸要素の関係性のうちに作品が成立し、それによってさまざまな視点から鑑賞しうる。にもかかわらず、文章の意味作用が一瞬で明示されるかのように、作品が一瞬のうちに鑑賞者によって経験される、という逆説において瞬時性は提起される。こうした観点は、ソシュール言語学を通じて得られたことがフリード自身によって強調されているが、ロザリンド・クラウスは、同じくソシュールをふまえ複製の問題へと着目しながら、作品のもつ反復的な時間性を評価する、フリードとは真逆の議論を展開している。この意味で瞬時性/持続の一対は、モダニズムに対する批判的な文脈の起点になったと考えることもできる。 『象徴交換と死』ジャン・ボードリヤール L'Échange symbolique et la mort(仏), Jean Baudrillard フランスの思想家・批評家であり、ポストモダンの代表的な論客であるジャン・ボードリヤールの5冊目の著作。出版は1976年。序盤では前作『生産の鏡(Le Miroir de la production)』の議論を引き継いでいるが、全体としてはより広範な議論を含む。多くの批評家は本書を十分にアカデミックな形式で書かれたボードリヤールの最後の著作とみなしている。ボードリヤールに影響を受けたポストモダニティの議論では「準拠枠(les référentiels)」「意味・方向(sens)」を欠いた記号である「シミュラークル(simulacre)」が盛んに論じられるが、ボードリヤールがこうした術語系を本格的に導入し、詳細な議論を始めたのは本書からである。構成は「生産の終わり」、「シミュラークルの領域」、「モードまたはコードの夢幻劇」、「肉体または記号の死体置き場」、「経済学と死」、「神の名の根絶」の6部構成。本来、互酬性の規則にしたがって交換されるべきであった象徴的な「死」を禁じ「延期された死」を生きることを強要する資本主義に対して、「返礼できない贈与」としての「挑戦的な死」をもってシステムを撹乱することを説いた本書は、『物の体系(Le Système des objets)』、『消費社会の神話と構造(La Société de consommation)』、『記号の経済学批判(Pour une critique de l’économie du signe)』などで展開された消費社会論の極限を示している。 シンボル Symbol 象徴のこと。最も一般的な定義を与えるならば、「シンボル」は「記号(sign)」の一種である。しかしそこに含まれる意味内容は、時代や文化によってかなりの振れ幅がある。そこで以下では、その代表的な議論のみを挙げることにする。(1)第一に、シンボルはC・リーパによって体系化された西洋の図像学における重要な要素である。たとえば鷲によってゼウスを、梟(フクロウ)によってアテナを表現する手法は「アトリビュート(属性)」と呼ばれるが、これは図像としてのシンボルの典型的な使用例である。また、国家や王家を国旗や紋章によって代理表象することも、同じく図像としてのシンボルの用例に含まれる。(2)第二に、18世紀以降のドイツにおいて、シンボルは重要な哲学的概念として位置づけられる。例えばカントは、非感性的なものである理念を間接的な仕方で表示する像として「シンボル(独:Symbol)」を定義している。ドイツにおけるこの種の議論は、カントとほぼ同時代のヘーゲル、ヘルダー、シェリングから、カッシーラーの『シンボル形式の哲学』にまで受け継がれている。(3)第三に、記号論の始祖であるCh・S・パースの分類に従えば、類似記号である「イコン」、指標記号である「インデックス」に対し、指示対象との直接的な結びつきを持たず、その送り手と受け手とのあいだで共有される規約によって流通する記号が「シンボル」に相当する。以上のパースの分類によれば、シンボルの典型例は言語である。(4)精神分析家のJ・ラカンは、人間の言語活動の水準を「象徴界(仏:le symbolique)」と名づけ、これを「現実界」「想像界」から区別した。以上を踏まえて再度定義を試みるならば、「シンボル」とは人為的な規約に基づく記号の典型であり、抽象的な概念・理念・思想などを感性的(ないし言語的)に伝達するものであると言うことができるだろう。 崇高 Sublime 伝統的な美学的カテゴリー(美的範疇)のひとつ。一般的には、巨大な対象、恐ろしい対象、曖昧な対象などを目にした際の人間の感情に結びつけられる。 18世紀以降、この「崇高」という美的範疇はしばしば「美」の対概念と見なされてきた。エドマンド・バークによる『崇高と美の観念の起源』(1757)は、「美」を喚起する属性として対象の小ささ、柔和さ、明瞭さなどを挙げる一方、「崇高」を特徴づけるものは対象の巨大さ、恐ろしさ、曖昧さなどであるとした。バークの議論に影響を受けたカントもまた、『判断力批判』(1790)において「崇高」を「美」と対照的かつその付随的なものとみなしている。バークやカント、ひいてはそのはるか遠い起源に当たる偽ロンギノスの崇高論は、20世紀後半に哲学や批評理論の分野でふたたび脚光を浴びることになり、美学や美術批評の周辺でも大いに流行した。その代表例として、ロバート・ローゼンブラムの「抽象的崇高」(1961)やジャン=フランソワ・リオタールの「崇高と前衛」「瞬間、ニューマン」(1985)などを挙げることができる。上記の例に顕著なように、18世紀のロマン主義的な「崇高」が主に自然をその対象としていたのに対し、20世紀後半の「崇高」は主にアメリカの抽象表現主義の作品を賞賛するに当たって用いられていた。また、アーティストのなかでも「崇高」という言葉に特別なこだわりをもった者は少なくなく、バーネット・ニューマン、ロバート・スミッソン、マイク・ケリーらが著作や展覧会タイトルなどにおいてこの言葉を用いている。 「崇高はいま」バーネット・ニューマン “Sublime Is Now”, Barnett Newman 20世紀アメリカの画家であるバーネット・ニューマン(1905-70)が1948年に雑誌『タイガーズ・アイ』に寄稿したエッセイ。このエッセイは、生前ニューマンが発表したテクストのなかでもとりわけ有名なものである。ただし、「崇高はいま」の議論の対象となっているのは、(しばしば「崇高」と形容される)ニューマン自身の絵画ではない。ニューマンはここで、19世紀以降の近代絵画の展開に言及しており、それらが従来の造形性、形式性からの逃避のみに力を注いできたことを批判している。ニューマンによれば、古代ギリシャ以来、西洋の芸術は「美しい」造形性と「崇高な」精神性との葛藤のうちに置かれてきた。近代絵画の歴史は、ルネサンスにおいて隆盛を極める前者の「美」から「崇高」へと移行せんとするものだったが、それらはあくまでも造形の次元における試みにとどまっていたという点で誤りだったとニューマンは言う。彼の言う「崇高」とは、ある絶対的なものを志向する作家の精神性のことなのである。そのうえでニューマンは、同時代(1940年代当時)のアメリカの一部の画家たちが、そうした西洋の絵画的伝統から解放されつつあるという点を積極的に評価している。 「世界像の時代」マルティン・ハイデガー “Die Zeit des Weltbildes”(独), Martin Heidegger ドイツの思想家マルティン・ハイデガーによる、1938年6月9日にフライブルクで行なわれた講演をもとにした論文。『Holzwege(杣径)』(1950)などに収められている。メディアと技術による支配が顕わになる表象の時代として現代を認識するその考察は、現在までで最も優れたメディア社会についての批判的思考のひとつということができるだろう。このなかでハイデガーは、人間が主体化すると同時に、他のものすべてを表象として捉えるようになるプロセスとして近代を捉え、そのように表象としてくくられた世界を「世界像」と呼んだ。そして、近代的主観性がメディアを通じた共同性を持つにいたって、ついには「惑星的帝国主義」として完成するという。その結果人類には画一性がもたらされ、技術とメディアによって世界全体が表象として主観主義の支配の対象となり、全体性において主観は客観に没入することになる。このように主観と客観が没入的に一致した全体主義的世界では、すべては統合された表象へと一元化することになる。そこでは、例えば単なるヒューマニズムや進歩主義は、それを根源から思考し批判することができず、より表象的な世界の完成に寄与するだけである。同時期の書物としてアドルノとホルクハイマーによる『啓蒙の弁証法』(1947)があるが、これらの思想家が政治的な対立を超えて、ともに似たような観点から情報化社会・消費社会への批判を展開した事実に留意すべきである。 ゼツェッション(分離派) Sezession(独), Secession(英) ゼツェッションとは、19世紀末のドイツ語圏における芸術革新運動である(英語読みではセセッション)。1892年フランツ・フォン・シュトックやヴィルヘルム・トリュブナーは、伝統にとらわれない芸術表現を求めて閉鎖的な美術機構であるミュンヘン芸術家協会から分離した。彼らミュンヘン分離派は外国人作家を招待し毎年展覧会を開催するなど精力的に活動、世界大戦による一時休止を経て復活、現在も活動を続けている。また、97年のウィーンでは保守化した展示制度に不満を抱くグスタフ・クリムトを筆頭に若い芸術家が協会から分離、造形美術協会を結成した。ウィーン分離派と呼ばれた彼らは総合的な芸術運動を目指しヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ設計の分離派会館で展覧会を開催した。その活動は批評家ヘルマン・バールが雑誌『Versacrum(ヴェールサクルム)』で擁護し隆盛を極めたが、1903年コロマン・モーザーらがウィーン工房を結成すると分裂、ウィーン分離派としての活動は終息した。二都市に続きベルリンで起きた分離派運動はマックス・リーバーマン主導によるもので、98年、ベルリン芸術家協会によるブリュッケのメンバーの出品作品拒否に反発した65人の若手芸術家が彼のもとに集結した。1910年に分裂、36年に終焉を迎えるまでにキルヒナー、ムンク、ノルデなど20世紀を代表する芸術家が在籍している。これら各分離派に共通しているのは、保守化、形骸化した古い美術機構からの分離という形で発足し、過去の様式にとらわれない、自由で国際的な芸術表現を目指した点にある。また、アーツ&クラフツ運動、アールヌーヴォーに影響を受け、美術、デザイン、工芸、建築を総合芸術として昇華した点も挙げられよう。大胆な構図や斬新なタイポグラフィーを取り入れた平面作品や効果的な色彩とフォルムを採用した建築など、数々の革新的な表現は20世紀のモダンデザインへと引き継がれている。 ゼロ次元 Zero Jigen 1963年から72年まで「人間の行為をゼロに導く」をコンセプトに過激でナンセンスなパフォーマンスで活躍したグループがゼロ次元である。加藤好弘、岩田信市を中心に名古屋で結成されたゼロ次元は、63年に名古屋国際ホテル前でメンバーが道路に腹這いになって行進するパフォーマンスで観衆の前に現われた。「儀式」と称した彼らの活動は、新宿で全裸に防毒マスクという姿で歩き回る、貸し切りにした都電内に紐で縛った全裸の男女を乗せて走らせるなど、都市空間で突如、裸体を露出した集団が行動することを特徴とした。大阪万博の前年、他の芸術家とともに万博破壊共闘派を発足、学園紛争まっただ中の京都大学講堂屋上にて全裸パフォーマンスを行ない、メンバーが逮捕される事件が起きる。これにより全国に300人以上も存在したと言われるゼロ次元の活動は息をひそめ、72年休止した。ゼロ次元は肉体の露出、宗教儀式や前近代の祝祭のような聖と俗の両極性、既成の表現の全否定、モダニズム歴史観に対する拒否などあまりにも過激でセンセーショナルなものだったため、60年代の政治闘争の時代にシャーマニスムか芸術テロかと騒がれ週刊誌に大々的に取り上げられたものの、欧米美術の歴史や理論を参照してきた当時の日本の現代美術業界において、批評家の針生一郎を除き評価する者はいなかった。過激さゆえ美術史の中で抜け落ちている彼らの活動であるが、近年椹木野衣や黒ダライ児らによって研究が進み評価が高まっている。 全体性 Wholeness 芸術作品の構造が、部分の集積によって全体を形成しながら、複数の部分の単なる集合に留まらず、各部分が全体との関係を強固に有した統一体の状態であること。抽象表現主義におけるオールオーヴァーの概念は、絵画の画面全体が均質に処理され、部分と全体の連関や階層を喪失することで、統一的性質を獲得したが、ミニマル・アートではそのような性質が全体性の問題へと接続された。1960年まで絵画を制作していたドナルド・ジャッドは、65年の『アート・イヤーブック8』に掲載されたテクスト「Specific Objects」の中で、ジャクソン・ポロックら抽象表現主義の絵画に統一性を見出しつつ、一方でそこにイリュージョンが不可避的に存在することを論じている。さらにジャッドは、新しい三次元の作品においてこそ、そのような絵画が内包する問題、つまりイリュージョンやリテラルな空間が取り除かれることを主張した。工業的技術を用いるジャッドの作品では、形態の決定に数値や数列が用いられ、その構成単位が幾何学的に反復される配列によって、部分と全体の同質性や作品の全体性が保証されているといえる。また、テキサス州マーファのシナティ・ファンデーションでの恒久的な作品設置に見られるように、ジャッドによる全体性は作品の外部である展示空間の構造とも強い関連性をもちえている。なお、ミニマル・アートにおいて全体性が重要な意義をもつことは、マイケル・フリードが論文「芸術と客体性」(1968)のなかで、ジャッドを引用していることからも明らかである。そこでは、作品に対する「興味」の持続を、作品がもつ全体性と、「新しい素材」である工業材の直接的提示としての「特殊性」に見出したジャッドの芸術観が参照されている。そして、この形態の全体性の経験と素材の経験は「客観性」へと敷衍されることで、それらリテラルな経験の持続こそが「演劇」的であることがフリードによって指摘された。 タブラ・ラサ Tabula rasa ラテン語で「何も刻まれていない石板」「白紙」の意。経験主義の立場をとるジョン・ロックによって提起された。『人間悟性論』(1689)においてロックは、デカルトによる生得観念の存在を否定し、生まれたばかりの人間の心は白紙の状態であり、外的な感覚と内的な反省という経験によって、あらゆる観念が獲得されると主張した。観念が複合的かつ後天的に獲得されるこのような経験論は、ヒュームの懐疑論やカントによる批判哲学といった近代認識論へと接続されていくこととなる。なお、「タブラ・ラサ」という語について、『人間悟性論』では「white paper」という間接的な表現が用いられていたが、ロックが1664年にラテン語で執筆した『自然法論』(未完)において、すでにその使用が認められている。この白紙還元的な作用の芸術への応用は、既存の芸術観を否定したマルセル・デュシャンのレディメイドや、1910年代中頃に世界的規模で拡大したダダイズム、また50年代頃のダダイズムの復興であるネオダダ、日本においては60年代に展開した前衛的な「反芸術」に認められる。ウィレム・デ・クーニングのドローイングを消した作品であるロバート・ラウシェンバーグによる《消去されたデ・クーニングのドローイング》(1953)や、ハイレッド・センターが64年に銀座の並木通りで実施した「首都圏清掃整理促進運動」はその好例と言える。ただし、それら白紙還元としての前衛的な芸術運動は、制度批判や既成概念の破壊を目的とした制作行為であったがゆえに、作品経験においてはむしろ重層的な時間や空間が生起していることは、見逃してはならないだろう。なお、タブラ・ラサの美学的接近として、ジョルジョ・アガンベンの仕事が挙げられる。アガンベンは、アリストテレスの『霊魂論』にある「書板(grammateion)」までタブラ・ラサの起源を遡り、そこから「潜勢力」という概念を導出する。この潜勢力は文学や音楽などさまざまな芸術に援用され、例えばハーマン・メルヴィルの短編小説「バートルビー」(1856)に登場した、書生バートルビーが語る「しないほうがいいのですが」という言葉から精緻に分析された現勢力/潜勢力の関係性は、制作行為や作品に関する重要な問題を提示している。 『知覚の現象学』M・メルロ=ポンティ Phénoménologie de la perception, M. Merleau-Ponty フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)の主著。『知覚の現象学』(1945)は『行動の構造』(1942)につづく彼の2冊目の著作であり、その後のフランス現象学の展開に決定的な影響を及ぼした。メルロ=ポンティが同書を発表したのは、いまだフランスにフッサールの現象学が十分に紹介されていなかった時代のことである。そのようななか、メルロ=ポンティはフッサールの未刊草稿を精査するとともに、そこに登場する諸概念を独創的な仕方で練り上げることで、フランス独自の現象学の展開に大いに貢献した。なかでも本書の最大の特徴は、われわれの「身体」および「知覚」に焦点を合わせることで、主観/客観、意識/物体といった伝統的な二項対立を疑い、身体的経験の両義的構造を主張した点にある。このようなメルロ=ポンティの思想が、従来の単純な「鑑賞」(見る主体/見られる対象)のモデルに準じるのではなく、むしろ鑑賞者の「身体」の位相を重視しつつあった戦後美術に影響を及ぼすことになったのはごく当然の成り行きだった。『知覚の現象学』が英訳されたのは1962年のことだが、同書はアメリカ西海岸を中心とするミニマル・アートの理論の形成に少なからぬ影響を与えたとされている。 『抽象と感情移入』ヴィルヘルム・ヴォリンガー Abstraktion und Einfühlung(独), Wilhelm Worringer ドイツの美術史家ヴィルヘルム・ヴォリンガーの代表的著作。「抽象と感情移入 様式心理学への一つの寄与」というタイトルで1907年に学位論文として申請され、08年に出版された(邦訳=『抽象と感情移入 東洋芸術と西洋芸術』)。この著作でヴォリンガーは、テオドール・リップスの心理学的美学において提唱されていた「感情移入」型の古典主義的歴史観に対し、「抽象」衝動を対置させた。同書は、歴史がこの二つの精神的態度を交換・変遷する過程を、古代エジプトから中世ゴシック、ギリシャ・ローマなどの広範な美術作品に見出し、従来のヨーロッパ中心主義的歴史観の相対化を目指したものである。「感情移入」衝動には主体と客体とのあいだに有機的な生命観が見出され、古典主義などが相当するとされる。逆に「抽象」衝動とは、世界との無限の混沌状態に直面した人間が平静を得るために求める「抽象」的な法則性や幾何学性のことを指す。ヴォリンガーは「抽象」衝動を「古代人」の様式に帰属させ、エジプトのピラミッドなどがそれに対応するとした。また、彼はミュンヘン分離派や青騎士などの表現主義の動向にも関心を持ち、同時代美術の「抽象」性の根源を解明しようとした。P・クレーやF・マルクは、彼らの作品の幾何学的な抽象性を歴史的・理論的に支えるものとしてヴォリンガーの言説に注目していたことで知られる。 抽象表現主義 Abstract Expressionism 抽象表現主義とは、1940年代後半から50年代にかけてアメリカ、特にニューヨークを中心に隆盛した芸術様式で、46年に美術批評家のロバート・コーツによって命名された。バウハウスや未来派、キュビスムの流れを汲む非具象とドイツ表現主義などの激しい感情表現を基本とする。第二次世界大戦の戦禍を避けてヨーロッパの前衛芸術家たちがアメリカに多数亡命したことが直接の契機となり、抽象表現主義以降、芸術の発信地が従来のパリからニューヨークへとシフトしていくこととなる。50年代には批評家クレメント・グリーンバーグによるフォーマリズム理論の擁護を受けて大いに隆盛し、それ以降のアメリカ主導の美術という確固たる地位を築く礎となった。次第にキャンヴァスが巨大化、焦点を失い画面全体を均質に色や線が支配、キャンヴァスがイメージを再現することから逸脱し、ついには芸術家の描画行為のフィールドと認識されるに至る。ジャクソン・ポロックをはじめとするアクション・ペインティングやバーネット・ニューマンらのカラーフィールド・ペインティングも抽象表現主義に含まれる。しかしイリュージョンが徹底的に排除された結果、60年代には堅苦しく単調なものとなり影響力を失い始め、対極的な具体的、大衆的イメージのポップ・アートやネオダダがアメリカ美術シーンの主流となっていく。 中心と周縁 Center and Periphery 文化人類学者の山口昌男による文化研究の主要な分析概念。著書『文化と両義性』において山口は、社会の中心性及び周縁性に関して先行する論考を整理し、その上で「中心/周縁」という、より二項対立的思考の枠組みと、特に積極的な意味を十分に論じられてこなかった「周縁」の側にあらためて意義を見出す視点を独自に提示した。社会は「中心」と「周縁」の有機的な組織化の上に成り立っており、すべての政治的宇宙は「中心」を持つと同時に「周縁」を持つという。それまで否定的な側面を担わされ、排除されるべきものと考えられていた「周縁」という概念は、山口によって他者性をはらむことで多義的な豊穣性を再生産し続けるという一面が意味付けられ、先行的な論考よりも大きな比重を置いて語られている。この発想は国内外の文化人類学に留まらず、大江健三郎が『叢書文化の現在4 中心と周縁』(岩波書店、1981)を編集し、その中で「周縁」の概念に基づいて小説家としてのあり方を自問しているように、20世紀後半の人文世界や各芸術にも強い影響を与えている。 『中心の喪失』ハンス・ゼードルマイア Verlust der Mitte(独), Hans Sedlmayr ウィーン学派の影響下に中世美術・建築を専門とした美術史家ハンス・ゼードルマイアによる1948年の著書名であり、また芸術を通して無神論的近代の病を指摘する、大戦前後にわたる一連の文明批評的言説をも指す。同書は自然を目的とした純粋庭園、芸術や産業を目的とした建築、また純粋視覚や無意識を強調する絵画、台座ばかりか首や手足もない彫刻などを徴候に、大聖堂に象徴される総合芸術や共感覚、イコノロジー(芸術の意味作用)などの死を宣言する。これが近代の人間精神における、純粋性の極端な追求、対立の発生、非有機的なものへの愛着、地盤からの遊離、無意識など下方向の傾向性、上下の無化など、神なき〈自律的〉人間が抱える病の指摘に繋がる。すなわち19世紀以降、西欧ヒューマニズムの伝統が喪失したという指摘であるが、これは近代芸術批判というよりむしろ、時代を診断する材料としての芸術の役割を認めた上での議論である。事実、彼は近代芸術の「業績」を61年の論文「デミウルゴス時代の芸術」で列挙した(『光の死』1964所収)。また同書中でも先行世代による様式史的方法による美術史学の限界に言及しながら(『芸術と真実』1956に発展)、最終章「予後と決意」で、絶望のうちに積極性を見出す態度から、単なる復古ではないかたちで文化や精神性の回復を促す。ただし同書は当時から、宗教偏重の立場から近代芸術を全否定したものと理解され、同時代芸術への賛否論争を誘発した。この経緯の反映か、英訳書タイトルが“Art in Crisis”となったことは、著者には不本意だったという※1。 転換子 Shifter 言語学で用いられる「shifter」の訳語。言語学者のR・ヤーコブソンによって広く知れ渡った概念であり、それ自体としては空虚で、文脈によってその意味内容を変化させる言語記号が「転換子(シフター)」と呼ばれる。例えば「この」椅子、「あの」テーブルといった代名詞(this, that)や、「わたし」や「あなた」のような人称代名詞(I, you)など、発話者の立場や文脈によってその指示対象を変える言葉が「転換子」に相当する。この議論に関しては、ヤーコブソンと同じ言語学者であるE・バンヴェニストの「代名詞の性質」(『一般言語学の諸問題』に収録)などが有名だが、美術批評にこの「転換子」という概念を導入したのはロザリンド・クラウスである。クラウスは、1976年初出の「指標論:パート1」においてこの「転換子」という概念に言及している。クラウスは同テクストの冒頭で、ヴィト・アコンチのヴィデオ作品《エアータイム》への言及に際して「転換子」という概念を導入し、それをラカンの「象徴界」やパースの「指標(インデックス)」に接続しつつ論じていく。そこでの議論の核心は次のようなものである。すなわち、this, that, I, youのような転換子は、それが言語記号であるという性質上、第一には象徴記号(シンボル)である。ただしそれらは、その指示対象(「この」椅子、「あの」テーブル)との対応関係を保持しているかぎりにおいて、同時に指標記号(インデックス)でもある。以上のような軸に沿ってデュシャン以降の作品を論じていくクラウスは、70年代の芸術作品を、空虚な記号としての転換子(=指標)的性格を保持したものとして論じるという大胆な企てに着手する。言うなればそれは、しばしば統一的な様式の不在が指摘されていたこの時代の絵画・写真作品に、一定の解読格子を与える試みだったと言うことができる。

拍手[2回]

【2012/10/10 11:07 】 | data | 有り難いご意見(0)
美術用語 2


 『これはパイプではない』M・フーコー
Ceci n’est pas une pipe, Michel Foucault

フランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926-84)が1973年に刊行した著書。ルネ・マグリットのシリーズ作品《これはパイプではない》が主題的に論じられ、それをもとに15世紀以降の西洋絵画を支配してきた二つの原理の存在が指摘される。その第一の原理とは「言語記号と造形的要素を分離する原理」であり、第二の原理とは「類似と肯定(=断言)との等価性を定立する原理」である。フーコーによれば、マグリットはそうした西洋絵画の二つの原理を逆手に取ることで、「同質性という前提を確保することなしに」「言語記号と造形的要素を結びあわせている」。以上のように、ここでフーコーはマグリットの作品分析から西洋における「表象」システムの分析へと移行しているのだが、このような手つきはベラスケスの《ラス・メニーナス》を仔細に分析した主著『言葉と物』(1966)を想起させる。したがって同書は、マグリッドの作品や絵画一般についての詳細な分析の書であるとともに、フーコーの主要な仕事との関わりにおいても読みうる一冊となっている。

コンセプチュアル・アート
Conceptual Art

アイデアやコンセプトを作品の中心的な構成要素とする動向のこと。1961年にヘンリー・フリントにより、「コンセプト・アート」という名称が初めて使用された。その概念を確定的なものにしたのは、『アートフォーラム』誌に掲載されたS・ルウィットのエッセイ「コンセプチャル・アートに関する断章」(1967)である。「概念芸術」とも和訳されるように、作品の概念や観念的側面を重視するため、言語はもっとも重要な媒体になりうるものであり、批評家のL・リパードはこの傾向を「芸術作品の非物質化」とも定義している。従来の芸術ジャンルの物理的属性に依拠しないという意味では、芸術作品の唯一性や一回性、商業化などへの否定的見解を伴うものであり、特に複製可能で容易かつ迅速に流通しうる印刷媒体などの活用によって意図されていたのは、物質と流通の双方から従来の美術(制度)の改革を行なうことだった。そのため、60年代後半から70年代を中心に展開したコンセプチュアル・アートでは、写真、郵便、ファックス、電話などの流通・情報メディアが頻繁に用いられた。

『今日の芸術』岡本太郎
Kon'nichi no Geijutsu, Taro Okamoto

美術家の岡本太郎の主著。1954年に刊行されるやたちまちベストセラーとなり、その後現在まで長く読まれ続けている。岡本が芸術の根本条件として挙げた「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」は、99年の文庫版に序文を寄せた横尾忠則が証言しているように、当時はおろか現在のアートシーンにも大きな影響を与えている。岡本は本書において、絵はうまく、美しく、快いものであるという価値基準を転倒しようとしたが、そのとき手がかりとしたのが「いやったらしい」である。それは「否応なしに、ぐんぐんと迫って、こちらを圧倒してくるようなもの」であり、「一種の不快感」のことで、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》や古代エジプトの《ツタンカーメン》に認められるものだという。岡本が肯定的に評価したこの「いやったらしい」という暴力性が、たとえば読売アンデパンダン展における「反芸術」に見られるように、戦後の日本美術に与えた影響は計り知れない。文庫版の解説で赤瀬川原平は、57年に来日したジョルジュ・マチュウが日本橋の白木屋で公開制作をした際、荒川修作や篠原有司男、吉村益信ら、後にネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成することになる美術家たちが野次馬となっていたが、彼らの大半が本書を熟読していたという。ただその一方で、とりわけ「うまくあってはならない」という条件が、結果的に技術を相対的に軽視する風潮をもたらしたことも否定できない。

コンポジション
Composition

「構造、組立」を意味する言葉であるが、美術用語としては「構図」とされる。語源はラテン語の「構造(Compositio)」。コンポジションという言葉自体、絵画はもちろん文学、建築、音楽などさまざまな芸術で使用されるが、「構図」という意味でコンポジションを捉える場合、主に絵画などの平面的造形芸術における画面構成を意味する。美術におけるコンポジションの意味を遡ると、基本的に古代から「組立、組み合わせ」というような意味で認識され、中世以降もさして変化がないが、17世紀頃になると次のように「配置」との同意化がうかがえる。例えばフランシスクス・ユニウスは、1638年に物した『古代人の絵画』において、絵画の五大要素に「色彩」「運動」「着想」「均衡」「配置」を挙げ、その「配置」、「作品全体を秩序づけること」は、古代の絵画におけるコンポシティオ(構造)とほぼ同意で用いられている。このように長い間、コンポジションは、比例や均衡、調和などの美的形式原理に基づくものであり、作品の統一性を支えるものとされてきた。また現代においては抽象絵画においてカンディンスキーなどによって音楽の影響からコンポジションが使用されているが、これは既述の美的形式原理による伝統的なコンポジションの意味合いを含むものではない。

「サイボーグ宣言」ダナ・J・ハラウェイ
“A Cyborg Manifesto”, Donna J. Haraway

ダナ・ハラウェイ(1944-)が85年に雑誌『社会主義評論』に発表した論文。後に単行本『猿と女とサイボーグ』(1991)に収録される。ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』に代表されるサイバーパンクの黎明期に発表されたこの論文は、「すでに現代人はキメラ(=サイボーグ)になってしまった」といった大胆かつ刺激的な命題によって、その後の「サイボーグ・フェミニズム」と呼ばれる動向に決定的な指針を与えた。ハラウェイの「サイボーグ宣言」がフェミニズムと接続しえた第一の理由は、「機械と生物の混合体(=サイボーグ)としての人間」という非自然主義的な人間観が、男女の性差を前提とした生殖=再生産のモデルに対する批判として機能するからである。「サイボーグは、脱性差時代の世界の産物である」という強力な断定を各所に散りばめたハラウェイの議論は、狭義のフェミニズムやポストモダンの議論にはとどまらず広く人口に膾炙しており、アーティストのなかにもハラウェイからの影響を明言する者は少なくない。直接的な交流としては、画家のリン・ランドルフが彼女の著作に挿画を多数提供している。

サンボリスム(象徴主義)
Symbolisme(仏)

19世紀末のフランスで興った芸術運動のひとつであり、その範囲は詩、文学、音楽、絵画など広範囲に及ぶ。文学の概念としての「サンボリスム」は、『フィガロ・リテレール』に掲載されたJ・モレアスの「文学宣言」(1886)に由来する。詩においてはボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌ、音楽においてはドビュッシーやヴァーグナーが代表的な人物として挙げられるが、ここでは主に絵画におけるサンボリスムについて記述する。他のジャンルと同じく、絵画におけるサンボリスムには19世紀末の科学や機械万能主義に対する反発が色濃く反映されている。シャヴァンヌ、モロー、ルドンらサンボリスムの画家たちに共通しているのは、人間の内面的な苦悩や夢想を絵画によって象徴的に表現しようとした点にある。様式的に見れば、それはレアリスム(写実主義/自然主義)に対する反発であったと言えるが、その背後には同時代の実利的な価値観の下での芸術の卑俗化に対する懸念があったと言えよう。同様の傾向はフランス国内にとどまらず、世紀転換期のベルギーやオーストリアなどヨーロッパ各国に飛び火した。また、19世紀半ばのイギリスで興ったラファエル前派(ロセッティ、ハント、ミレイ)は、その態度や様式上の類似からサンボリスムの先駆と見なされている。

視覚性(純粋可視性)
Opticality

美術作品における視覚的効果のこと。または美術作品の表象が、視覚のみの純粋な生起において把握されるとする芸術批評の概念。彫刻家A・ヒルデブラントの理論に触発されたドイツの美学者K・フィードラーが『芸術活動の根源』(1887)などの著作で展開した。フィードラーは、芸術作品の知覚的把握を個々の感覚器官の活動に準じて生起するものと捉え、絵画や彫刻においては、視覚の活動だけが、その顕われを保証するものとした。カント美学に即して、フィードラーは芸術作品の存在論的把握からそれらを記述するのではなく、逆に、見えること(可視性)の主観主義的立場から芸術経験の可能性を探究する。さらに、ある特定の感覚が他の感覚から分離される芸術経験は、諸感覚の多様な結合のもとに営まれる精神生活や慣習的活動とは区別されるとした。このように芸術作品の経験を、ある特定の知覚=視覚に収斂させるフィードラーの姿勢は、『美術史の基礎概念』(1915)を著わしたH・ヴェルフリンに継承された。ヴェルフリンは、フィードラーの議論を踏まえ、個々の時代にはそれぞれ限定的な視覚形式があり、美術作品の様式は、時代に内在する視知覚を表象するとする「様式史」の立場を採った。

視覚性(ヴィジュアリティ)
Visuality

作品または認識などの視覚的な性質を指す。1988年、ニューヨークにて「視覚と視覚性」と題したシンポジウムが美術史家ハル・フォスターによって組織された。その記録が同タイトルの論集として出版され、『視覚論』という邦題で翻訳されている。ここで「視覚性(visuality)」は、身体的なメカニズムとしての「視覚(vision)」と区別され、社会的・歴史的に構成されるものとして定義された。そもそも作品様式を区分する上での「視覚的(optic)/触覚的(haptic)」という対概念は、美術史家アロイス・リーグルによって提起され、 美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンもまた、これを美術史の様式区分において対比的に扱った。このような議論の延長上で、クレメント・グリーンバーグは、線やマチエールといった触覚的な要素を排除することによって作品にもたらされる純粋な視覚性(opticality)を価値基準のひとつに据え、1950-60年代前半にかけて抽象表現主義を擁護する強い批評的枠組みを形成した。先のシンポジウムでは、こうした近代における視覚の特権性を批判の俎上に載せるため、新歴史主義や精神分析、セクシュアリティなど、多角的な方法論を通じた議論が展開されている。とりわけ主体と客体とを対立的に位置づけるデカルト主義や、その認識論的モデルとしての遠近法などが、共通する検討対象として浮かび上がっている。

『視覚的無意識』ロザリンド・E・クラウス
The Optical Unconscious, Rosalind E. Krauss

もともとはヴァルター・ベンヤミンが「写真少史」(1931)で使用した語だが、ロザリンド・E・クラウスは1993年の著作『視覚的無意識(The Optical Unconscious)』のなかで、ベンヤミンのこの概念を援用し、視覚芸術の基盤をなす「視覚」と主体との安定した関係を解体する「無形(アンフォルム)」なものの産出を試みた。ベンヤミンは、意識には上らない隠された細部が写真や映像に撮影されることで解明されることを「視覚における無意識なもの」と呼び、それを精神分析における無意識の作用と同様のものであると指摘した。フロイトによれば無意識とは、言い間違いや書き間違いなどによって、人の意識の統制を逃れて徴候的に露呈するものである。クラウスはこの視覚的無意識を、知覚の座標軸が解体され、人間の視覚が、自らが眺めるものの支配者となることなく、見るものに対して侵され滅却される――図と地や空間の内と外の区別が崩壊するような――主体の地面=足元への脱固定化であると論じた。クラウスはバタイユの「低級唯物論」に言及しながら、このような低級さ=低さへと吸収されることが「高貴/卑俗」「形相/質量」などの伝統的二項対立に対して第三の審級を打ち立てる(その意味でデリダ的な)脱構築をもたらすという。したがってこの「低さ」は、視覚的=近代的主体の領野に「別の」批評基準を滑り込ませるものであった。

拍手[0回]

【2012/10/10 11:07 】 | data | 有り難いご意見(0)
美術用語 1

熱い抽象/冷たい抽象
Abstraction Chaud/Abstraction Froid(仏), Hot Abstraction/Cool Abstraction(英)

抽象絵画の傾向を幾何学的抽象と表現的抽象とにわけ、前者を「冷たい」、後者を「熱い」と対照的に特徴づける美術史・批評上の表現。この語は第二次世界大戦後のヨーロッパ、とりわけフランスで1950年代前半に多く用いられた。戦後、米国を巻き込んで国際的に広まった抽象絵画運動に際し、フランスで純粋抽象の伝統と、新しく現われた表現的な抽象を整理する必要があった。そこで、モンドリアンに代表される幾何学的な形態と限定的な色彩で構成される純粋抽象を「冷たい(cool/froid)抽象」と呼び、デュビュッフェやヴォルスらのアンフォルメル絵画やポロックやデ・クーニングらの動的な構図、自由な色彩、身振りの激しい描き方などを伴った抽象絵画の傾向を、「熱い(hot/chaude)抽象」と呼んで区別した。また、この二分法によって抽象芸術を種別する枠組みも一般化した。すなわち、工業化や色彩・光学の発展を背景に現われたデ・ステイル、バウハウスやロシア構成主義の抽象の系譜と、感情や人間の内面性の問題を扱い、有機的な表現や色彩の効果も取り入れてきたカンディンスキーやドイツ表現主義の系譜である。しかしこの分類に当てはまらない、あるいは両方に当てはまる抽象的表現があることは言うまでもなく、この語は傾向を示すための便宜的な分類法でしかない。戦後の日本では、戦争で中断された幾何学的抽象やシュルレアリスムと、戦後のエコール・ド・パリの動向やアンフォルメルがほぼ同時に展開したため、「熱い・冷たい」の区別は批評家が傾向を分析するのにしばしば便利に使われた。


アニメーションと前衛美術家
Annimation and Artists in 1960s

1960年代の前衛美術家とアニメーションの関係は深い。作品を制作することで収入を得るという理想と、作品を制作すること以外の労働に従事せざるを得ないという現実の乖離は、今も昔も、美術家にとって切実な問題だが、当時の前衛美術家たちもそうした問題の解消を求めて、アニメーション制作会社に向かったからだ。56年に発足した東映動画(現在の東映アニメーション)には、手塚治虫のほか宮崎駿や高畑勲、金田伊功ら、後に日本を代表する漫画家やアニメーション映画監督が在籍していたことが知られているが、その一方で佐々木耕成、小林七郎、小華和ためお(為雄)といった前衛美術家たちも関わっていた。いずれも「ジャックの会」という前衛美術グループで活動していたが、生活のために東映動画でアニメーションを制作していたのである。なかでも小林は、68年に独立して小林プロダクションを設立し、その後日本を代表するアニメーション美術監督となった。『ガンバの冒険』(1975)や宮崎駿のデビュー作『ルパン三世カリオストロの城』(1979)、押井守の出世作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)など、小林は数多くのアニメーション作品で美術監督を務めた。60年代の前衛美術家たちのなかには、後年になって純粋絵画に回帰した者が多かったが、小林のように大衆芸術へ展開した者も少なくなかったのである。

 アプストラクシオン・クレアシオン
Abstraction-Création

「抽象―創造」。A・エルバンを会長、G・ファントンゲルローを副会長として1931年2月15日にパリで結成。20世紀初頭のヨーロッパにおいてシュルレアリスムと双璧をなした抽象芸術運動を代表する芸術家集団。前年に結成されたM・スーポーとJ・T=ガルシアによる「セルクル・エ・カレ(円と正方形)」、およびT・V・ドゥースブルフ、J・エリオンらの「アール・コンクレ(具体美術)」から派生して生まれた集団で、グループ展を通じて抽象美術の国際的広がりを促した。禁欲的な抽象が基本的な傾向で、著名なメンバーはH・アルプ、W・カンディンスキー、L・モホイ=ナジ、P・モンドリアン、K・シュヴィッタースなど。日本からは岡本太郎が最年少メンバーとして33年頃に参加した。定期的に展覧会を開催し、年報を5冊刊行。グループとしてまとまった活動が認められるのは最後の年報が出された36年までだが、中心メンバーの活動は第二次大戦前夜の39年頃まで継続した。亡命などによる作家たちの拡散に伴って、スイス、イギリス、イタリア、スカンジナビア各国を始めとしてアメリカやブラジルにまで影響の波及が見られる。国際性もひとつの特徴で、メンバーは約400人に至ったとの説もあるが、これはほぼ名義のみの「会友」(P・ピカソやC・ブランクーシなど)を含めた数で、実際には50人前後で推移、総計およそ100人が関わったとされる。78年にドイツとフランスで回顧展が開催され、図録はこのグループを総括したほぼ唯一の資料となっている。

アヴァンギャルド
Avant-garde(仏)

仏語で「前衛」。元々は「前衛部隊」を指す軍事用語であるが、先鋭的ないし実験的な表現、既存の価値基準を覆すような作品を名指すために19世紀頃から頻繁に用いられるようになった。「前衛(的)」という問題を主題化した美術史上の論考としては、C・グリーンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939)が有名。その際グリーンバーグが「アヴァンギャルド」と呼んだのは、卓越した歴史意識をもって既存のブルジョワ文化を批判し、芸術的な作品/行為を通じて文化の推進と絶対的なものの探求を試みる作家たちのことであった。その成立時期が示唆するように、アヴァンギャルドというカテゴリーは近代芸術の展開(モダニズム)と不可分のものであり、無数の主義(ism)や様式(style)が現われては交替していく近代芸術の歴史は、前衛芸術の歴史そのものであると言うこともできよう。とはいえ20世紀も後半になると、「アヴァンギャルド」というカテゴリーそのものが歴史化され、「反アヴァンギャルド」的な作品・言説もまた誕生することになる。加えて、「アヴァンギャルド(前衛)」という言葉の内実が使用者によって異なることもしばしばであり、今日用いられている「アヴァンギャルド」という言葉を理解するにあたっては、その政治的、様式的、歴史的な含意にたえず注意を払う必要があるだろう。

『アヴァンギャルド芸術』花田清輝
Abangyarudo(Avant-garde) Geijutsu, Kiyoteru Hanada

『アヴァンギャルド芸術』とは、評論家である花田清輝の第五評論集であり、1954年10月に刊行された。この評論集に代表される花田の言説は、花田の組織したグループに集った芸術家や評論家を中心として、50-60年代の芸術・文化において大きな影響を与えた(例えば、収録のエッセイ「林檎に関する一考察」は、針生一郎と武井昭夫の『美術批評』誌上での論争の発端となった)。花田は戦時中より「文化再出発の会」を結成し、その機関誌『文化組織』を刊行することで、戦後の復興期に繋がる新しい芸術・文化運動を進めていた。そして戦後新たに「綜合文化協会」を結成し、機関誌『綜合文化』を刊行する。それに並行して、岡本太郎らと「夜の会」を結成し、戦後アヴァンギャルド芸術の運動を組織してゆく。50年代の芸術・文化においては、現実を捉えるためにサークル詩やルポルタージュ絵画など、さまざまな領域で「記録」が重要な問題として取り上げられていた。そのような背景のなかで花田が掲げたアヴァンギャルド芸術の言説とは、狭義の芸術の範疇にとどまるものではなく、戦前のアヴァンギャルド芸術の国内受容が多くの場合、政治的な側面を欠落させていたことを踏まえ、社会主義リアリズムにアヴァンギャルド芸術の方法論を導入し、既存のリアリズムの硬直を乗り超える新しいリアリズムを追求するものであった。花田の言説とは大衆の組織されていない無形のエネルギーを汲み上げ、芸術・文化の変革運動への展開を目指すものであったといえる。花田の評論対象は大衆文化全般に向けられており、58年には映画を論じた評論集である『映画的思考』を出版している。

『イコノロジー研究 ルネサンス美術における人文主義の諸テーマ』E・パノフスキー
Studies in Iconology: Humanistic Themes in the Art of the Renaissance, Erwin Panofsky

美術史家エルヴィン・パノフスキー(1892-1968)の主著のひとつ。パノフスキーがアメリカ合衆国に亡命後初めて刊行した著書でもある。同書の初版は1939年だが、62年に出版された同書の改訂版において、パノフスキーは「イコノロジー(図像解釈学)」を「イコノグラフィー(図像学)」という学問から区別すべく次のように述べている。すなわち、美術作品の分析には(1)自然的主題、(2)伝習的主題、(3)内的意味・内容という3つの水準が存在する。第一の水準は線と色からなる形およびその相互関係をある「対象」や「出来事」として認めることであり、これは美術史で言うところの「モチーフ」、すなわち「イコノグラフィー以前の」記述に相当する。第二の水準は、モチーフの組み合わせから「イメージ、物語、寓意」を認識することであり、これが「イコノグラフィー」に相当する。そして第三の水準が、上記のような純粋な形、モチーフ、イメージ、物語、寓意などを象徴的に解釈することに相当する。「象徴的に解釈する」とはつまり、以上のような作品の特質を、国家・時代・階級・宗教・哲学的信条などからなる基礎的態度の徴候として把握するということである。パノフスキーにおいては、ある美術作品からこのような「象徴的価値」(E・カッシーラー)を発見することこそが「イコノロジー」と呼ばれるのである。

イコノロジー
Iconology

美術史家エルヴィン・パノフスキー(1892-1968)が著書『イコノロジー研究』(1939)において用いた言葉。しばしば「図像解釈学」と訳される。作品におけるモチーフの組み合わせからイメージ、物語、寓意などを認識する「イコノグラフィー」に対し、純粋な形、モチーフ、イメージ、物語、寓意などを象徴的に、すなわち以上のような作品の特質を、国家・時代・階級・宗教・哲学的信条などからなる基礎的な態度の徴候として解釈することが「イコノロジー」と呼ばれる。ただし、初版の時点では前者が「狭義のイコノグラフィー」、後者が「深い意味におけるイコノグラフィー」と呼ばれるにとどまっており、「イコノロジー」という言葉が同書のなかで前面化したのは1962年の改訂版においてである。絵画作品のあらゆる要素を「象徴的価値」として解釈するというイコノロジー的な方法論の背後には、美術史家A・ヴァールブルクや、パノフスキー自身も名前を挙げているE・カッシーラーからの影響が多分に見て取れる。

 イコノグラフィー
Iconography

「画像(eikon)」を「記述する(graphein)」というギリシャ語をその語源とし、日本語ではしばしば「図像学」と訳される。古くは絵画作品に描かれた象徴体系(アトリビュート)を読み解くための学問を意味した。「アトリビュート」とは、ゼウスには鷲、アテナには梟(フクロウ)を添えるといった西洋絵画における作法のことであり、それを集成したものとしてはC・リーパの『イコノロギア』(1593)が最も重要である。時代が近代に近づくと、美術作品における主題、意味、内容を系統立てて理解するための学問として、イコノグラフィーは美術史の側からより広く要請されることになる。具体的には、ある作品に何が描かれているかを同定し、そこからさらに深い意味内容を見出していくといったタイプの研究方法がイコノグラフィーとして体系化される。20世紀半ばには美術史家のE・パノフスキーが『イコノロジー研究』(1939/62改訂版)において、従来のイコノグラフィーを「狭義のイコノグラフィー」と呼び、それに対する「深いイコノグラフィー」を「イコノロジー」と呼んで両者を区別した。

 イコン
Icon

キリスト教において崇敬の対象とされる聖像。古典ギリシャ語の「エイコーン(eikon)」を語源とし、狭義には東方教会における平面像(≠立像)を意味する。聖像の使用がキリスト教の偶像崇拝の禁止に抵触するかどうかについては古来より多くの議論が交わされており、8世紀の聖像破壊運動(イコノクラスム)によって多くのイコンが破壊されるという出来事もあった。また、この言葉は現在では本来のキリスト教的な意味を離れ、「偶像」や「アイコン」(いずれも英語でicon)といった単語に引き継がれている。例えば前者の用例は、時代を象徴するミュージシャンやアイドルにしばしば適用される「ポップ・アイコン」という呼称に反映されており、また後者の用例は、コンピュータなどのインターフェイス記号を示す「アイコン」として流通している。哲学的な用語としての「イコン(アイコン)」は、「インデックス」「シンボル」とともに、Ch・S・パースの記号論における主要概念としても知られている。

意味作用
Signification

ある記号の表現と内容が結びつけられる過程で意味が生じるプロセスのこと。「記号学(Semiology)」の始祖であるソシュールにおいて、意味作用は「意味するもの/記号表現(シニフィアン)」と「意味されるもの/記号内容(シニフィエ)」とのあいだに生じるプロセスとして理解され、「記号論(Semiotics)」の始祖であるCh・S・パースにおいては「対象」「表象」「解釈者」のあいだに生じるプロセスとして理解される。いずれにおいても、そこで含意されているのが固定的な「意味(sense)」ではなく、動的な意味の獲得のプロセスであるという点が重要である。所与の事物や現象に対するこうした意味の付与と獲得のプロセスを文化研究の領域において展開したのがロラン・バルトであることはよく知られている。20世紀後半の記号学/記号論の成果によって切り開かれた意味作用の分析は、芸術作品のみならず、さまざまな文化的表象の背後にひそむ諸々の力学を分析するうえでの基本的かつ重要な方法となっている。

『インサイド/アウトサイド』
Inside Outside

2000年以降、急激に複雑化したストリート・アート・シーンの内実に迫ったドキュメンタリー映画作品。05年公開。監督はデンマークのアンドレアス・ヨハンセンとニス・ボイ・モラー・ラスムッセン。出演しているストリート・アーティストはゼウス、スウーン、ケー・アール、オス・ジェメオス、ロン・イングリッシュ、アダムス・アンド・イッツォなど。07年に日本語版のDVDが発売されている。1970-80年代を通じてニューヨークを中心に形成されたサブカルチャーとしてのグラフィティ文化に対し、それを経由しながらもより多様な表現手段や文脈を取りこんだ、世界同時多発的なストリートの表現文化として2000年以降のストリート・アートを捉えるならば、『ワイルド・スタイル』や『スタイル・ウォーズ』といった1980年代冒頭のグラフィティ文化を扱った映画作品が前者に対応しており、 『インサイド/アウトサイド』は後者に対応していると言えるだろう。両者の差異のひとつとして、『ワイルド・スタイル』や『スタイル・ウォーズ』に出演しているグラフィティ・ライターたちはそれぞれに固有のスタイルを持っているものの、スプレー塗料やマーカーなどを用いて名前をかくというグラフィティの基本的なルールを踏みだすことはないが、 『インサイド/アウトサイド』に登場するストリート・アーティストたちは、それぞれまったくと言ってよいほど表現の手法や方向性が異なる。したがって映画が描きだすのも、ストリート・アートという文化の全体像ではなく、個々のストリート・アーティストの活動やその背後にある思考であり、そのこと自体がグラフィティ/ストリート・アートをめぐる状況の変化を示していると言えるだろう。

 遠近法
Perspective(英), Prospettiva(伊)

三次元の空間と立体を、絵画などの二次元平面上で視覚的に再現する際の表現方法。時代・地域などによりさまざまなヴァリエーションがある。西洋では特に古代と近世に遠近法への関心が高まった。前後の対象を重ねて描く原始的な方法のほか、遠景を青灰色にぼかす空気遠近法、画面に対し垂直に配されたモチーフを縮めて描く短縮法などが行なわれたが、特に西洋近世に特徴的な方法とされるのは線遠近法(透視図法)である。線遠近法は、画面に直交すると想定される平行線を一点(消失点)に集束させて描く方法で、イタリア・ルネサンスで開発され、17-18世紀には数学・幾何学の進展とともに単純化・完成された。一方で東洋では、遠いものを上に、近いものを下に描く上下法や、前後の対象を重ねる方法が一般的に採用された。中国では、すでに唐代には山水画で遠近表現の定式化が進められ、北宋の画家・郭煕は、高遠・平遠・深遠からなる三遠法を理論化するとともに、視点を一点に定めた空間構成や、前のものを濃く、後のものを淡く描く方法、奥行を計量的に表現する方法などを駆使し、高度な遠近表現を実現した。日本では江戸時代中期以後、西洋の線遠近法への関心が深まり、眼鏡絵や浮絵に応用されたほか、洋風画や、浮世絵の風景版画に影響を与えた。なお遠近法は特定の文化圏における主体と世界との関係性を象徴する視覚形式として論じられることもある。

「大きな物語」の終焉
Fin des “grands récits”

「大きな物語」とは、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(1924-98)が『ポストモダンの条件』(1979)において提唱した言葉であり、科学がみずからの依拠する規則を正当化する際に用いる「物語、語り口narrative」のことを意味する。上記のような含意から、同書のなかでは、同じ意味として「メタ(=上位)物語métarécit」という表現が使われることもある。

リオタールによれば、従来人々は科学の正当性を担保するために「大きな物語」としての哲学を必要としてきた。ここでいう「哲学」とは、真偽や善悪を問う際の「基礎づけ」を担う知の領域を指し示している。リオタールは、このような「大きな物語」に準拠していた時代を「モダン」、そしてそれに対する不信感が蔓延した時代を「ポストモダン」と呼んでいる。つまりポストモダンとは、この基礎づけとしての「哲学」が有効性を失った、言い換えれば「大きな物語」が終焉した時代だというのである。1980年代以降に「ポストモダン」という言葉が浸透するにつれて、「大きな物語の終焉」というキャッチフレーズは、それ以前の時代からの断絶を強調するための格好の用語として広く人口に膾炙した。しかし上記のように、そもそもこの言葉を広く知らしめた『ポストモダンの条件』において、「大きな物語」という言葉が科学の正当化をめぐる議論において用いられていたという事実は記憶にとどめておく必要がある。

 解釈
Interpretation

未知のもの、難解なもの、一義的に説明しがたいものなど、そのままの状態では理解できないものを、理解可能なものに変換すること。翻訳。解釈行為の対象は、通常、何らかの意図のもとに構成された多義的な情報の集合体(テクスト)であり、物理現象や数式のようにひとつの解があらかじめ想定される場合は除外される。上記「未知のもの、難解なもの…理解可能なもの」といった設定はすべて「解釈者にとって」という条件を含むため、解釈にはその解釈者が既知と認識する前提が反映される。そして当然、解釈者によって解釈の内容は異なる。したがってひとつのテクストに対して無数の解釈がありえるが、それぞれの解釈にはそれぞれの解釈者にとっての正しさが志向されるがゆえに、解釈どうしは優劣関係あるいは対立関係になることがある。この場合、同一対象にかかわる複数の解釈は正当な解釈と不当な解釈(誤解)に分けられることになる。ただしすべての解釈が背反関係にあるとは限らず、対象となるテクストから読み取る文脈が衝突しなければ多様な解釈が共存することができる。いずれにせよ、対象により多く適合している解釈がより優れた解釈、または「客観的な」解釈とみなされる(内容に寄り添うことでテクストとの適合を図る解釈と批評を対置させるS・ソンタグの『反解釈』を参照のこと)。注意せねばならないのは、解釈内容の正しさはテクストの作者の意図と必ずしも関係せず、作者の意図を超えてテクストが求める解釈の地平がありうる点である。この点に立脚するのが受容美学である。

『関係性の美学』N・ブリオー
L’esthétique relationnelle, Nicolas Bourriaud

フランス出身の理論家・キュレーターであるニコラ・ブリオー(1965-)が1998年に刊行した著作。2002年には英訳も刊行され、その後のブリオーのキュレーターとしての世界的な活躍を標しづける一冊となった。同書はブリオー自身がボルドー現代美術館やパレ・ド・トーキョーの企画展において評価した同時代の作家/作品を、「関係(relation)」の創出という観点から論じたものである。上記のような作品は「リレーショナル・アート」と呼ばれ、リクリット・ティラヴァーニャ、リアム・ギリック、フィリップ・パレーノ、ヴァネッサ・ビークロフトなどがその代表的な作家として挙げられる。『関係性の美学』という著作そのものは、ブリオーが編集に携わった90年代半ばの雑誌『芸術についての記録』における連載をまとめたものであり、必ずしも「関係性の美学」という主題に関する体系的な議論が構築されているわけではない。加えて、その後に刊行された『ポストプロダクション』(2001)や『ラディカント』(2009)といった著作に目を向けてみても、そこで『関係性の美学』に続く一貫した理論が提示されているとも言いがたい。しかし、同書に端を発する「リレーショナル・アート」や「関係性の美学」という基本コンセプトは、90年代から00年代にかけて急増したインスタレーションをはじめとする新たなタイプの作品、ひいては地域振興を旨とするコミュニティ・アートなどの理論的な後ろ盾としてしばしば援用されることになった。そのような意味において、同書は2000年代以降の美術の新たなパラダイムを切り拓いた著作であり、現在邦訳が最も待たれている一冊である。

幾何学
Geometry

学問としての幾何学は、古代ギリシャ時代に学問として研究され、中世ヨーロッパではいわゆる自由七科の一科目として確立した。美術作品やデザインにおける幾何学の初期の例として、新石器時代に東方諸国、特に北部メソポタミア地域でつくられた陶器類に、幾何学模様として図形を使ったデザインが見られる。こうした多角形や円を要素として用いた造形の例は、歴史上多く見られる。例えばイスラム文化圏で見られるモスクのアラビア模様は、幾何学模様をパターン化したタイルで成立している。ギリシャ時代には黄金分割(率)でピラミッドや彫像がつくられた。中世から近代に描かれた絵画も、円や矩形をもとに画面構成が試みられた。モンドリアンの「コンポジション」は、画面をグリッド状に分割しただけである。それとほぼ同時代のキュビスムは、二次元である平面(絵画)で三次元の表現を試みたものである。現代においては、フラクタルと呼ばれる再帰的な概念が提唱されるようになり、それを具現化するCGを使うことで、これまでカオスと思われていた形をつくりだすことができるようになった。そして、幾何学はヴィジュアル・アートとして視覚化されるだけにはとどまらない。現代音楽やサウンド・アートにおいては、音のひとつひとつを図形や座標に配置して作曲した作品も少なくない。

幾何学的抽象
Geometric Abstraction

抽象を用いた芸術の一形式であり、幾何学な線・面・量塊などによって構成される表現形式のことを指す。その場合の線・面・量塊は線遠近法的なイリュージョンに寄与することはなく、もっぱら抽象的な画面構成のために用いられる。20世紀前半においてこの種の幾何学的抽象を用いた作家や動向は少なくなく、運動としてはキュビスム、デ・ステイル、シュプレマティスム、個別の作家としてはW・カンディンスキー、K・マレーヴィチ、P・モンドリアンらの作品が想起される。1920年代に国際的な展開を見せた幾何学的抽象は、30年代のパリで「セルクル・エ・カレ(円と正方形)」や「アプストラクション・クレアシオン(抽象・創造)」といったグループを生むものの、第二次世界大戦前や戦中のソ連やドイツでは反動的な時代の逆風にさらされることになった。また同時期、幾何学的抽象はA・E・ガラティンのコレクションやMoMAでの展示を通じてアメリカにも紹介されている。とりわけ、後者の初代館長アルフレッド・バーJrが「キュビズムと抽象芸術」展(1936)において「幾何学的抽象」と「非幾何学的抽象」を明確に区分したことは有名である。この様式は、後にアメリカで教鞭をとったモホイ=ナジ、ナウム・ガボ、ヨーゼフ・アルバースらによって次世代へと受け継がれる様式のひとつとなった。

キュビスム
Cubisme(仏)

あらゆる対象を幾何学的図形に還元して描く、立体派とも呼ばれる美術運動のひとつ。20世紀初頭に起こったこの運動は、ポール・セザンヌの「形態」に対する主張に影響を受けたジョルジュ・ブラックやパブロ・ピカソをその創始とする。この名称は、1908年に発表されたブラックの作品において対象が幾何学的パターンないしは立方体(キューブ)に還元されていることに由来し、その命名者はアンリ・マティスとも、美術批評家ルイ・ヴォークセルとも言われている。キュビスム発祥の起因とされているセザンヌの主張とは、「自然の中の全ての事物は、幾何学的形式――円柱、球、円錐で構成されている」とするものであった。09年頃に始まったキュビスムの最初の動向は、対象を細分化することによって構築することから「分析的キュビスム」と呼ばれた。分析的キュビスムにおいては色彩よりもヴォリュームや空間構成が優先されたため、その多くは単色で描かれている。これに続いたのが、10-12年頃に始まった「総合的キュビスム」である。ここでは前者において細分化、つまり分析されていた対象の形態が再び統合されることとなった。この段階における大きな特徴は、ステンシルやレタリングによる「文字」が導入され、コラージュの使用、パピエ・コレの創始など表現の広がりにある。また、ブラックとピカソ以外のキュビストとして、彼らについでキュビスムの理論に忠実であったとされるフアン・グリスを挙げるべきだろう。キュビスムの一連の動向も、第一次世界大戦勃発とともに終焉を迎える。キュビスムの時代は短命であったが、同時代また後世の芸術に与えた影響の大きさは言うまでもない。

形而上絵画
Pittura Metafisica(伊)

1909年頃から10年代を通じて、ジョルジョ・デ・キリコとその影響を受けた画家たちが生み出した絵画様式。メタフィジカとも言う。ショーペンハウアー、ニーチェ、ヴァイニンガーの哲学や、ドイツ・ロマン主義の画家、A・ベックリン、M・クリンガーらの絵画がデ・キリコの思想に基盤を与え、09-10年頃には謎めいた雰囲気と不安感を醸し出す《神託の謎》《秋の午後の謎》を制作。目に見える事物の奥にある神秘の探究が始まる。11年から4年間に及ぶパリ時代には、奇妙な透視図法による都市空間あるいは室内空間に、マネキン、ギリシャ風の彫像、汽車、長く伸びた影などが出現する基本スタイルが確立。詩人G・アポリネールの称賛を受けたほか、パリのシュルレアリストたちの霊感の源となった。17年、フェラーラの軍事病院でデ・キリコと出会ったC・カッラ、F・デ・ピシスが流れに加わり、デ・キリコの実弟A・サヴィーニオも交えて芸術の問題を議論。しかし運動としてのまとまりは持たず、カッラはクワトロチェントの巨匠を現代的に再解釈しつつ、アルカイックなスタイルを独自に追求。形而上絵画についての文章を発表するも、「無能な剽窃者」としてデ・キリコの非難を浴び、両者のあいだに確執が生まれる。また雑誌の複製図版などを通じてデ・キリコやカッラを知ったG・モランディも17-19年頃に形而上絵画に接近したが、切り詰めた造形要素による静謐かつ詩的な画面は、先の二人の作風とは距離を置いたものだった。また、形而上絵画と関わりの深い雑誌『ヴァローリ・プラスティチ(Valori Plastici)』(1918-22)の存在も見逃せない。秩序回帰を謳った同誌にデ・キリコ、カッラ、サヴィーニオらが寄稿したことは、形而上絵画の理論的補強へと繋がった。

『啓蒙の弁証法』テオドール・アドルノ&マックス・ホルクハイマー
Dialektik der Aufklarung: Philosophische Fragmente(独), Theodor W. Adorno & Max Horkheimer

ドイツの思想家テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーによって1939年から44年にかけて共同執筆され、戦後の47年に出版されたフランクフルト学派による批判理論の代表的著作。ナチス・ドイツがヨーロッパを席巻しつつあった時代に、彼らは亡命先のフランスとアメリカでこの書物を執筆した。本書のなかでは、ヨーロッパ的な理性が全体主義という野蛮へと退行したことが批判されるが、その批判の矛先はヒトラーのファシズムだけでなく、「リベラル」な大衆社会を達成しつつあったアメリカにも向けられている。特に「文化産業 大衆欺瞞としての啓蒙」の章は、メディアによって大衆が消費の自由を与えられることにより、見せかけの多様性や価値に振り回され、自ら欲して均質化し、制度の奴隷と化していくさまが、酷薄なまでに鋭い文体で批判されている。彼らの図式は、単なるマルクス主義的なイデオロギー論・疎外論・物象化論に収まらない。新しいメディア技術とともに、消費社会的楽観主義に充たされた大衆社会は、むしろネガティヴなかたちでの啓蒙の完成なのであり、そこは大衆が自ら進んで社会を全体主義化する、新しい「収容所」なのである。このようなメディア社会の批判は、のちのギー・ドゥボールによる「スペクタクルの社会」などさまざまな情報化社会批判の先取りであるが、それらに共通する重要な点は、いわゆる体制/反体制の二元論が無効化した社会を見据えていたということである。このことを理解しないで、単に「抑圧的な権力」対「受動的な消費者」といった安易な疎外論的な立場から、これらのメディア消費社会批判を読むことはできないだろう。そのような意味で、この書物を貫く社会批判のトーンが、まったく政治的立場を逆にするハイデガーの同時期の著作と呼応し合うことは意味深長である。

『芸術世界(ミール・イスクーストヴァ)』
Мир иску́сства(露)

1900年前後にロシアで興った前衛芸術運動、および同運動を紹介する目的でセルゲイ・ディアギレフによって発行された雑誌名。1890年代、ロシアのサンクトペテルブルクで「芸術世界(ミール・イスクーストヴァ)」と呼ばれる前衛芸術運動が起こった。当時のロシアでは、世紀末芸術が花盛りであった。こうした国内の文化・芸術について国民の関心を深めると同時に、ドイツ、イギリス、フランスといった西欧諸国の思想や芸術の動向を紹介することを目的に、1898年に創刊されたのが芸術総合誌『芸術世界(ミール・イスクーストヴァ)』であった。創刊号には発起人ディアギレフによる「芸術至上主義宣言」が掲載され、毎回、展覧会、バレエ・演劇、コンサートについての評が誌面をにぎわせた。また、創刊した翌年の99年には雑誌主催で展覧会が開催された。創刊に関わったメンバーは、ディアギレフのほかに、舞台美術家のアレクサンドル・ブノワや画家のレオン・バクストらがいる。手すき紙による豪華な装丁も話題であったが、1904年に休刊した。その後も組織として活動は続けられ、ディアギレフと入れ替わるようにリシツキーやタトリンが参加していった。こうした活動によって、ロシア芸術はヨーロッパへ広く知れわたることとなった。

「芸術と客体性」マイケル・フリード
“Art and Objecthood”, Michael Fried

1967年に『アートフォーラム』誌上で発表された、批評家マイケル・フリードの論考のタイトル。ドナルド・ジャッド、ロバート・モリス、トニー・スミスらのミニマリズムの作品が批判されており、ミニマリズムを論じる際に最も頻繁に参照される論考のひとつ。フリードはミニマリズムを「リテラリズム(直写主義)」と呼び、そこで展開される鑑賞者と客体(=作品)との関係のありようを、主にジャッドやモリスの言説を引用することで分析している。フリードによれば、ミニマリズムの作品では、客体そのものの自律的な現前ではなく、客体を焦点として観者が空間的に抱合される「状況全体」がつくりだされる。フリードはそのような主客の対応関係のもとに成立する作品の性質を「客体性(Objecthood)」と呼んだ。このような「状況」は、フリードにとって演劇空間になぞらえられるものであり、彼はその「演劇性」を芸術に敵対するものとして批判した。もっとも、現実的・日常的な時空間との連続性のなかで、主体と客体とが相互依存的に配置づけられる諸々の関係の構築=演劇性は、モリスらにとってあらかじめ明確に企図されていたものでもあったが、このような戦略を、フリードは観者を堕落させる反道徳的なものとして断罪したのである。そこにはフリードのモダニズム芸術に対する、ほとんど神学的な心情告白さえ看取することができるだろう。

『芸術と文化』クレメント・グリーンバーグ
Art and Culture, Clement Greenberg

アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグが生前自らの手で編んだ唯一の批評集。ほとんどのエッセイは出版に際して加筆修正されている。その影響力がピークにあった1961年に出版され、主に『パルチザン・レビュー』誌や『ネーション』誌などの媒体に寄稿したものをもとに纏められた。初期の代表的論考「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939)などの文化論のほか、ヨーロッパとアメリカの作家論、若干の文学論などを収める。その構成からは、前衛芸術の政治的・社会的役割への関心を示したマルクス主義およびトロツキズムの影響下にあった初期の活動から、カントに倣った自己批判による還元主義を標榜したシステマティックな批評への移行を窺うことができる。無論その展開は、冷戦下のアメリカでの国家主義的な文化政策の推進や反共産主義などの諸状況とも無関係ではない。シカゴ大学出版局から刊行され、93年に完結した4巻の著作集では『芸術と文化』には収められることのなかった文献や、同書に収められた論考の初出時のヴァージョンも所収され、批評家の中心的な活動期間の全容に触れることができるようになった。日本では、ようやく2005年に入り代表的論考を収めた『グリーンバーグ批評選集』(勁草書房)が刊行された。


「芸術の非物質化」ルーシー・R・リッパード
“Dematerialization of Art”, Lucy R. Lippard

60年代後半の「非物質化」された芸術の傾向を分析した批評家ルーシー・R・リッパードの1968年の論考。今日では、コンセプチュアル・アートを理論的に補強した同時代の代表的なテキストのひとつに数えられる。リッパードはオブジェの概念を否定するような60年代美術の非物質的な観念性を指摘し、その過程で美術作品は、「非視覚的」で「超概念的」な傾向を強めると述べる。リッパードはその例証として多数の作家の名前を挙げているが、おおむねこのテキストのモチーフを与えたのは、彼女と友人関係にあったS・ルウィットの制作であったと考えられる。ルウィットの実践は、数学的定理への関心や幾何学的原理の徹底によってコンセプチュアル・アートとミニマリズムの双方を架橋した。それはリッパードが述べるように「観念」を扱う。マイケル・フリードは、ミニマリズムの芸術について、R・モリスやD・ジャッドの作品に見られる観念の実体化こそを批判したが、リッパードもまた、モリスのミニマリズムを定義するうえで、その形態的な単純さよりも、むしろデュシャンに通じるような観念性に注目している。つまり、リッパードの論考は、「非物質性/超概念性/観念性」という論点から、コンセプチュアル・アートとミニマリズムとの境界が曖昧に受容されていた68年当時の状況を生々しくドキュメントしているのである。

ゲシュタルト
Gestalt

ドイツ語で「形」「形態」「形姿」などを意味する。心理学や美術の文脈ではしばしば「図」と「地」の関係における「図」に相当する。

ゲーテやマッハをはじめとして、「ゲシュタルトGestalt」をその類義語である「形式Form」や「形象Figur」から区別する議論は以前から存在していた。しかし、「ゲシュタルト」が専門用語として広く用いられはじめたのは、20世紀初頭にヴェルトハイマー(1880-1943)らによって創始されたゲシュタルト心理学以降のことである。ゲシュタルト心理学の立場によれば、人間の知覚は個別的な感覚刺激の総合からなるのではなく、個々の感覚を超えた全体的な枠組のもとに成立している。この際、まとまりをもった全体像として知覚されるのが「ゲシュタルト=図」であり、それ以外の周縁的な要素が「地」である。もちろん、有名な「ルビンの壺」に見られるように、これら「図」と「地」の関係は固定的なものではなく、「向かい合った顔」と「壺」がそれぞれ「図」と「地」の関係になることもあれば、その逆になることもある。上記のようなゲシュタルト心理学は、のちにアート・セラピーを含む心理療法などに応用されていくことになる。また、現代美術の文脈では、ミニマリズムやランドアートの作品にその理論的な影響が見られる。

『限界芸術論』鶴見俊輔
Genkai Geijutu-ron,Shunsuke Tsurumi

1956年に、哲学者の鶴見俊輔が提唱した芸術概念、および書名。鶴見は、専門家によってつくられ、専門家によって受け入れられる芸術を「純粋芸術」(Pure Art)、同じく専門家によってつくられるが、大衆に楽しまれる芸術を「大衆芸術」(Popular Art)としたうえで、非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される芸術を「限界芸術」(Marginal Art)と考えた。限界芸術の具体例として鶴見が挙げたのは、落書き、手紙、祭り、早口言葉、替え歌、鼻歌、デモなど、私たちの誰もが日常生活で繰り返している身ぶりや言葉である。それらは一見すると「芸術」とは隔たりがあるように思われるが、鶴見によれば芸術とは美的経験を直接的につくりだす記号であり、この観点に立てば、ふだんの暮らしの中での美的経験は、展覧会で絵画を鑑賞する美的経験などよりも、かなり幅広い拡がりをもっていることがわかる。こうした生活の様式であると同時に芸術の様式でもあるような領域を、言い換えれば生活と芸術が重なり合う「のりしろ」の部分を、鶴見は限界芸術であると考えたわけだ。こうした考え方は、たとえば国外ではジョン・ラスキンやウィリアム・モリスらによる「アーツ・アンド・クラフト運動」の流れや、国内では柳田国男、柳宗悦、そして宮沢賢治らによる表現文化と通底しているが、限界芸術はたんなる表現様式のひとつとしてではなく、むしろそうした様式の展開の根底を貫く共通地下道として構想されている。鶴見は限界芸術がアルタミラの壁画以来連綿と続いているというが、それは限界芸術が純粋芸術と大衆芸術を生み出す根源的なものであり、なおかつ私たちが人生ではじめて出会う原初的なものであるという二重の意味で原始的なものとして考えられているからだ。受動的・間接的に鑑賞する芸術ではなく、主体的・直接的に実践して楽しむ芸術。西洋近代芸術が唱えた普遍性とは異なる、もうひとつの普遍性への道を切り開く可能性に賭けているという点で、限界芸術はヨーゼフ・ボイスの思想や石子順造によるキッチュ論と近いといってもいい。誰もが表現文化の消費者であり、同時にその生産者でもある今日の時代にあって、限界芸術の重要性はますます高まっている。


構想力
Imagination

「想像力」(英仏:imagination、独:Einbildungskraft)と同義。この単語はラテン系、ゲルマン系ともに「像(image、Bild)」という語を含んでいるため「想像力」と訳されるのが一般的だが、場合によっては「構想力」とも訳されてきた。

日本語の文献では三木清による未完の主著『構想力の論理』(1939)が有名であるが、三木を含め、哲学的な文脈で「構想力」という言葉が用いられる場合にはほぼ例外なくドイツの哲学者カント(1724-1804)の用法が念頭に置かれている。カントによる「構想力」の定義は、『純粋理性批判』の第1版(1781)、第2版(1787)のあいだで大きな相違があり、それをカント哲学の体系のなかにどのように位置づけるかという問題自体がしばしば論争の対象となっている。ひとつ特筆しておくべき事実としては、カントの「構想力」がいわゆる「空想」や「想像」とは区別されるという事実が挙げられる。カントは「構想力」を「再現的構想力」と「産出的構想力」に区別したが、単純化すれば前者は受動的、後者は能動的な構想力に対応する。「再現的構想力」は連想の法則にしたがって表象を結合し、「産出的構想力」は悟性の法則にしたがって表象を結合するという大きな相違こそあるが、両者はいずれも「対象が現前していなくとも、対象を直観のうちに表象する」能力として定義される。

「事ではなく物を描く」鶴岡政男
“Koto dehanaku Mono wo Egaku”, Masao Tsurukawa

画家の鶴岡政男に由来する言葉。雑誌『美術批評』(1954年2月号)の「座談会『事』ではなく『物』を描くということ 国立近代美術館『抽象と幻想』展に際して」において発言された。その後さまざまに解釈され、日本の戦後美術の現場に大きな影響を与えた。この座談会は、1953年に東京国立近代美術館で催された「抽象と幻想」展をめぐって、美術家の小山田二郎、駒井哲郎、斎藤義重、杉全直、鶴岡政男によって行なわれたもの。ここでの議論は、本展の印象から西洋美術の影響と日本の現実の矛盾という論点を導き出すかたちで進められたが、鶴岡は日本の美術家たちが自分たちの現実に根ざすことないまま、西洋の前衛美術を取り入れる形式主義を批判しながら、次のように発言した。「日本の絵というものは、全体に物を描かないと思うのだよ。物を……。事を描いていると思うのだ。事は物でもっと表現されなければならないのに、物を忘れて事を描こうとしている。絵というものは、一番、物で表現しなければならないと思うのだ。カンバンの絵などは事です。絶体(ママ)に物が描かれていない。わかりやすくいえば、それと同じようなことですよ」。この発言は「大きな共鳴をよんで若い美術家の合言葉に」(針生一郎)なり、当時の読者に「状況を切り裂くような名言」(峯村敏明)として受け取られたといわれている。ところが鶴岡のいう「事」と「物」がそれぞれ何を示しているのか必ずしも明確でないことが、さまざまな解釈や憶測をもたらすことになった。たんなるマテリアリズムが賞揚されたり、「人間の部品化された状況の図解のような作品と、材質や既製品への新しい呪物崇拝の風潮が生じたのである」(針生一郎)。いずれにせよ、そうした誤解や混乱の要因のひとつとして「事ではなく物を描く」という、この座談会のタイトルがあるように思われる。なぜなら、鶴岡の真意は、その発言内容を吟味してみれば一目瞭然であるように、「事」の否定と「物」の肯定ではなく、後者によって前者を表現することにあるからだ。

拍手[1回]

【2012/10/10 11:06 】 | data | 有り難いご意見(0)
The Need for a Recovery of Philosophy  JOHN DEWEY  その15



Anticipation is therefore more primary than recollection; projection than summoning of the past; the prospective than the retrospective. Given a world like that in which we live, a world in which environing changes are partly favorable and partly callously indifferent, and experience is bound to be prospective in import; for any control attainable by the living creature depends upon what is done to alter the state of things. Success and failure are the primary "categories" of life; achieving of good and averting of ill are its supreme interests; hope and anxiety (which are not self-enclosed states of feeling, but active attitudes of welcome and wariness) are dominant qualities of experience. Imaginative forecast of the future is this forerunning quality of behavior rendered available for guidance in the present. Day-dreaming and castle-building and esthetic realization of what is not practically achieved are offshoots of this practical trait, or else practical intelligence is a chastened fantasy. It makes little difference. Imaginative recovery of the bygone is indispensable to successful invasion of the future, but its status is that of an instrument. To ignore its import is the sign of an undisciplined agent; but to isolate the past, dwelling upon it for its own sake and giving it the eulogistic name of knowledge, is to substitute the reminiscence of old-age for effective intelligence. The movement of the agent-patient to meet the future is partial and passionate; yet detached and impartial study of the past is the only alternative to luck in assuring success to passion.

 

予測はそれゆえ追憶よりも重要であり、未来への投影は過去の呼び起こしに、また予期は回顧に先立って重要である。われわれの生きている世界みたいに、つまり環境の変化がある部分で好ましくなったり、またはある部分で非情にして無関係になったりといったふうに世界がつくられていたとしたら、経験は移入される際に、未来に投影されるようになるはずだ。というのは、生物によって達成されうるどんな環境形成力も、物事の状態を変化を加えるためになされたことに依存するからである。成功と失敗は人生における第一の「カテゴリー」である。善を成し悪から逃れることは最上の関心事である。そして希望と不安は(感情の自己閉鎖ではなく、受容性と深慮深さをもった行動態度において)経験の主要な性質である。想像的な未来予知は現在のいざないによってひらかれうる行動の先行的性質である。白昼夢、牙城の構築、実践不可能な美的実現、いずれもがこの実践的特質の副産物である。または、そのほかの実践的な知性は押さえつけられたファンタジーなのである。それはたいした違いではない。過去における想像力の回復は未来を成功で満たすためには欠かせないことである。しかしその地位はあくまで手段としてのそれである。想像力の移入を無視することは、動作主が訓練されていないということを示している。しかし、過去を切り離すこと、つまりそれ自身のために考えをめぐらせ、誉れある知の名を与えることは 実践的な知性にとっては、古い時代の回顧の代用品になる。未来に向けての動作主ー被動者の行動は、偏向性があり、情熱的でもある。けれども過去に対して客観的で公平な研究をすることは、情熱に見合った成功を約束する幸運を掴むためには、唯一の選択肢である。

(メモ)
未来肯定から、「未来学の祖」たるべく意欲までのぞかれている。さまざまな表現を俎上に載せて展開しながら、自己確認のようにして第一章が終わる。







 
 

拍手[0回]

【2011/11/10 23:29 】 | 翻訳 | 有り難いご意見(0)
<<前ページ | ホーム | 次ページ>>