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瞬時性と持続 Instantaneousness and Duration 美術批評家マイケル・フリードが論文「芸術と客体性」(1967)で提起した対概念であり、モダニズム美術とミニマル・アートを比較し、前者の優位を主張する文脈のなかで導入された。フリードの批判対象としてのミニマル・アートは、しばしば同じ構成単位が反復的に配置され、鑑賞者がそのあいだを動き回りながら経験する点で、見られることの持続性によって作品が成立する。このように作品の効果が鑑賞者の時間的な経験に依存する限りにおいて、ミニマル・アートは作品としての自律性を持ちえず、対してモダニズム美術は、独特の仕方でそうした持続する時間を克服しており、それを可能にするのが瞬時性である、とする。しばしば誤解されがちだが、ここでの瞬時性とは、作品が一瞬のうちに見られる性質、というような単純なものではない。フリードはアンソニー・カロの彫刻作品において、各々の部分が別の部分との相互作用のなかにありながら並列される点に、シンタクス(統語法)的な関係を見出す。諸要素の関係性のうちに作品が成立し、それによってさまざまな視点から鑑賞しうる。にもかかわらず、文章の意味作用が一瞬で明示されるかのように、作品が一瞬のうちに鑑賞者によって経験される、という逆説において瞬時性は提起される。こうした観点は、ソシュール言語学を通じて得られたことがフリード自身によって強調されているが、ロザリンド・クラウスは、同じくソシュールをふまえ複製の問題へと着目しながら、作品のもつ反復的な時間性を評価する、フリードとは真逆の議論を展開している。この意味で瞬時性/持続の一対は、モダニズムに対する批判的な文脈の起点になったと考えることもできる。 『象徴交換と死』ジャン・ボードリヤール L'Échange symbolique et la mort(仏), Jean Baudrillard フランスの思想家・批評家であり、ポストモダンの代表的な論客であるジャン・ボードリヤールの5冊目の著作。出版は1976年。序盤では前作『生産の鏡(Le Miroir de la production)』の議論を引き継いでいるが、全体としてはより広範な議論を含む。多くの批評家は本書を十分にアカデミックな形式で書かれたボードリヤールの最後の著作とみなしている。ボードリヤールに影響を受けたポストモダニティの議論では「準拠枠(les référentiels)」「意味・方向(sens)」を欠いた記号である「シミュラークル(simulacre)」が盛んに論じられるが、ボードリヤールがこうした術語系を本格的に導入し、詳細な議論を始めたのは本書からである。構成は「生産の終わり」、「シミュラークルの領域」、「モードまたはコードの夢幻劇」、「肉体または記号の死体置き場」、「経済学と死」、「神の名の根絶」の6部構成。本来、互酬性の規則にしたがって交換されるべきであった象徴的な「死」を禁じ「延期された死」を生きることを強要する資本主義に対して、「返礼できない贈与」としての「挑戦的な死」をもってシステムを撹乱することを説いた本書は、『物の体系(Le Système des objets)』、『消費社会の神話と構造(La Société de consommation)』、『記号の経済学批判(Pour une critique de l’économie du signe)』などで展開された消費社会論の極限を示している。 シンボル Symbol 象徴のこと。最も一般的な定義を与えるならば、「シンボル」は「記号(sign)」の一種である。しかしそこに含まれる意味内容は、時代や文化によってかなりの振れ幅がある。そこで以下では、その代表的な議論のみを挙げることにする。(1)第一に、シンボルはC・リーパによって体系化された西洋の図像学における重要な要素である。たとえば鷲によってゼウスを、梟(フクロウ)によってアテナを表現する手法は「アトリビュート(属性)」と呼ばれるが、これは図像としてのシンボルの典型的な使用例である。また、国家や王家を国旗や紋章によって代理表象することも、同じく図像としてのシンボルの用例に含まれる。(2)第二に、18世紀以降のドイツにおいて、シンボルは重要な哲学的概念として位置づけられる。例えばカントは、非感性的なものである理念を間接的な仕方で表示する像として「シンボル(独:Symbol)」を定義している。ドイツにおけるこの種の議論は、カントとほぼ同時代のヘーゲル、ヘルダー、シェリングから、カッシーラーの『シンボル形式の哲学』にまで受け継がれている。(3)第三に、記号論の始祖であるCh・S・パースの分類に従えば、類似記号である「イコン」、指標記号である「インデックス」に対し、指示対象との直接的な結びつきを持たず、その送り手と受け手とのあいだで共有される規約によって流通する記号が「シンボル」に相当する。以上のパースの分類によれば、シンボルの典型例は言語である。(4)精神分析家のJ・ラカンは、人間の言語活動の水準を「象徴界(仏:le symbolique)」と名づけ、これを「現実界」「想像界」から区別した。以上を踏まえて再度定義を試みるならば、「シンボル」とは人為的な規約に基づく記号の典型であり、抽象的な概念・理念・思想などを感性的(ないし言語的)に伝達するものであると言うことができるだろう。 崇高 Sublime 伝統的な美学的カテゴリー(美的範疇)のひとつ。一般的には、巨大な対象、恐ろしい対象、曖昧な対象などを目にした際の人間の感情に結びつけられる。 18世紀以降、この「崇高」という美的範疇はしばしば「美」の対概念と見なされてきた。エドマンド・バークによる『崇高と美の観念の起源』(1757)は、「美」を喚起する属性として対象の小ささ、柔和さ、明瞭さなどを挙げる一方、「崇高」を特徴づけるものは対象の巨大さ、恐ろしさ、曖昧さなどであるとした。バークの議論に影響を受けたカントもまた、『判断力批判』(1790)において「崇高」を「美」と対照的かつその付随的なものとみなしている。バークやカント、ひいてはそのはるか遠い起源に当たる偽ロンギノスの崇高論は、20世紀後半に哲学や批評理論の分野でふたたび脚光を浴びることになり、美学や美術批評の周辺でも大いに流行した。その代表例として、ロバート・ローゼンブラムの「抽象的崇高」(1961)やジャン=フランソワ・リオタールの「崇高と前衛」「瞬間、ニューマン」(1985)などを挙げることができる。上記の例に顕著なように、18世紀のロマン主義的な「崇高」が主に自然をその対象としていたのに対し、20世紀後半の「崇高」は主にアメリカの抽象表現主義の作品を賞賛するに当たって用いられていた。また、アーティストのなかでも「崇高」という言葉に特別なこだわりをもった者は少なくなく、バーネット・ニューマン、ロバート・スミッソン、マイク・ケリーらが著作や展覧会タイトルなどにおいてこの言葉を用いている。 「崇高はいま」バーネット・ニューマン “Sublime Is Now”, Barnett Newman 20世紀アメリカの画家であるバーネット・ニューマン(1905-70)が1948年に雑誌『タイガーズ・アイ』に寄稿したエッセイ。このエッセイは、生前ニューマンが発表したテクストのなかでもとりわけ有名なものである。ただし、「崇高はいま」の議論の対象となっているのは、(しばしば「崇高」と形容される)ニューマン自身の絵画ではない。ニューマンはここで、19世紀以降の近代絵画の展開に言及しており、それらが従来の造形性、形式性からの逃避のみに力を注いできたことを批判している。ニューマンによれば、古代ギリシャ以来、西洋の芸術は「美しい」造形性と「崇高な」精神性との葛藤のうちに置かれてきた。近代絵画の歴史は、ルネサンスにおいて隆盛を極める前者の「美」から「崇高」へと移行せんとするものだったが、それらはあくまでも造形の次元における試みにとどまっていたという点で誤りだったとニューマンは言う。彼の言う「崇高」とは、ある絶対的なものを志向する作家の精神性のことなのである。そのうえでニューマンは、同時代(1940年代当時)のアメリカの一部の画家たちが、そうした西洋の絵画的伝統から解放されつつあるという点を積極的に評価している。 「世界像の時代」マルティン・ハイデガー “Die Zeit des Weltbildes”(独), Martin Heidegger ドイツの思想家マルティン・ハイデガーによる、1938年6月9日にフライブルクで行なわれた講演をもとにした論文。『Holzwege(杣径)』(1950)などに収められている。メディアと技術による支配が顕わになる表象の時代として現代を認識するその考察は、現在までで最も優れたメディア社会についての批判的思考のひとつということができるだろう。このなかでハイデガーは、人間が主体化すると同時に、他のものすべてを表象として捉えるようになるプロセスとして近代を捉え、そのように表象としてくくられた世界を「世界像」と呼んだ。そして、近代的主観性がメディアを通じた共同性を持つにいたって、ついには「惑星的帝国主義」として完成するという。その結果人類には画一性がもたらされ、技術とメディアによって世界全体が表象として主観主義の支配の対象となり、全体性において主観は客観に没入することになる。このように主観と客観が没入的に一致した全体主義的世界では、すべては統合された表象へと一元化することになる。そこでは、例えば単なるヒューマニズムや進歩主義は、それを根源から思考し批判することができず、より表象的な世界の完成に寄与するだけである。同時期の書物としてアドルノとホルクハイマーによる『啓蒙の弁証法』(1947)があるが、これらの思想家が政治的な対立を超えて、ともに似たような観点から情報化社会・消費社会への批判を展開した事実に留意すべきである。 ゼツェッション(分離派) Sezession(独), Secession(英) ゼツェッションとは、19世紀末のドイツ語圏における芸術革新運動である(英語読みではセセッション)。1892年フランツ・フォン・シュトックやヴィルヘルム・トリュブナーは、伝統にとらわれない芸術表現を求めて閉鎖的な美術機構であるミュンヘン芸術家協会から分離した。彼らミュンヘン分離派は外国人作家を招待し毎年展覧会を開催するなど精力的に活動、世界大戦による一時休止を経て復活、現在も活動を続けている。また、97年のウィーンでは保守化した展示制度に不満を抱くグスタフ・クリムトを筆頭に若い芸術家が協会から分離、造形美術協会を結成した。ウィーン分離派と呼ばれた彼らは総合的な芸術運動を目指しヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ設計の分離派会館で展覧会を開催した。その活動は批評家ヘルマン・バールが雑誌『Versacrum(ヴェールサクルム)』で擁護し隆盛を極めたが、1903年コロマン・モーザーらがウィーン工房を結成すると分裂、ウィーン分離派としての活動は終息した。二都市に続きベルリンで起きた分離派運動はマックス・リーバーマン主導によるもので、98年、ベルリン芸術家協会によるブリュッケのメンバーの出品作品拒否に反発した65人の若手芸術家が彼のもとに集結した。1910年に分裂、36年に終焉を迎えるまでにキルヒナー、ムンク、ノルデなど20世紀を代表する芸術家が在籍している。これら各分離派に共通しているのは、保守化、形骸化した古い美術機構からの分離という形で発足し、過去の様式にとらわれない、自由で国際的な芸術表現を目指した点にある。また、アーツ&クラフツ運動、アールヌーヴォーに影響を受け、美術、デザイン、工芸、建築を総合芸術として昇華した点も挙げられよう。大胆な構図や斬新なタイポグラフィーを取り入れた平面作品や効果的な色彩とフォルムを採用した建築など、数々の革新的な表現は20世紀のモダンデザインへと引き継がれている。 ゼロ次元 Zero Jigen 1963年から72年まで「人間の行為をゼロに導く」をコンセプトに過激でナンセンスなパフォーマンスで活躍したグループがゼロ次元である。加藤好弘、岩田信市を中心に名古屋で結成されたゼロ次元は、63年に名古屋国際ホテル前でメンバーが道路に腹這いになって行進するパフォーマンスで観衆の前に現われた。「儀式」と称した彼らの活動は、新宿で全裸に防毒マスクという姿で歩き回る、貸し切りにした都電内に紐で縛った全裸の男女を乗せて走らせるなど、都市空間で突如、裸体を露出した集団が行動することを特徴とした。大阪万博の前年、他の芸術家とともに万博破壊共闘派を発足、学園紛争まっただ中の京都大学講堂屋上にて全裸パフォーマンスを行ない、メンバーが逮捕される事件が起きる。これにより全国に300人以上も存在したと言われるゼロ次元の活動は息をひそめ、72年休止した。ゼロ次元は肉体の露出、宗教儀式や前近代の祝祭のような聖と俗の両極性、既成の表現の全否定、モダニズム歴史観に対する拒否などあまりにも過激でセンセーショナルなものだったため、60年代の政治闘争の時代にシャーマニスムか芸術テロかと騒がれ週刊誌に大々的に取り上げられたものの、欧米美術の歴史や理論を参照してきた当時の日本の現代美術業界において、批評家の針生一郎を除き評価する者はいなかった。過激さゆえ美術史の中で抜け落ちている彼らの活動であるが、近年椹木野衣や黒ダライ児らによって研究が進み評価が高まっている。 全体性 Wholeness 芸術作品の構造が、部分の集積によって全体を形成しながら、複数の部分の単なる集合に留まらず、各部分が全体との関係を強固に有した統一体の状態であること。抽象表現主義におけるオールオーヴァーの概念は、絵画の画面全体が均質に処理され、部分と全体の連関や階層を喪失することで、統一的性質を獲得したが、ミニマル・アートではそのような性質が全体性の問題へと接続された。1960年まで絵画を制作していたドナルド・ジャッドは、65年の『アート・イヤーブック8』に掲載されたテクスト「Specific Objects」の中で、ジャクソン・ポロックら抽象表現主義の絵画に統一性を見出しつつ、一方でそこにイリュージョンが不可避的に存在することを論じている。さらにジャッドは、新しい三次元の作品においてこそ、そのような絵画が内包する問題、つまりイリュージョンやリテラルな空間が取り除かれることを主張した。工業的技術を用いるジャッドの作品では、形態の決定に数値や数列が用いられ、その構成単位が幾何学的に反復される配列によって、部分と全体の同質性や作品の全体性が保証されているといえる。また、テキサス州マーファのシナティ・ファンデーションでの恒久的な作品設置に見られるように、ジャッドによる全体性は作品の外部である展示空間の構造とも強い関連性をもちえている。なお、ミニマル・アートにおいて全体性が重要な意義をもつことは、マイケル・フリードが論文「芸術と客体性」(1968)のなかで、ジャッドを引用していることからも明らかである。そこでは、作品に対する「興味」の持続を、作品がもつ全体性と、「新しい素材」である工業材の直接的提示としての「特殊性」に見出したジャッドの芸術観が参照されている。そして、この形態の全体性の経験と素材の経験は「客観性」へと敷衍されることで、それらリテラルな経験の持続こそが「演劇」的であることがフリードによって指摘された。 タブラ・ラサ Tabula rasa ラテン語で「何も刻まれていない石板」「白紙」の意。経験主義の立場をとるジョン・ロックによって提起された。『人間悟性論』(1689)においてロックは、デカルトによる生得観念の存在を否定し、生まれたばかりの人間の心は白紙の状態であり、外的な感覚と内的な反省という経験によって、あらゆる観念が獲得されると主張した。観念が複合的かつ後天的に獲得されるこのような経験論は、ヒュームの懐疑論やカントによる批判哲学といった近代認識論へと接続されていくこととなる。なお、「タブラ・ラサ」という語について、『人間悟性論』では「white paper」という間接的な表現が用いられていたが、ロックが1664年にラテン語で執筆した『自然法論』(未完)において、すでにその使用が認められている。この白紙還元的な作用の芸術への応用は、既存の芸術観を否定したマルセル・デュシャンのレディメイドや、1910年代中頃に世界的規模で拡大したダダイズム、また50年代頃のダダイズムの復興であるネオダダ、日本においては60年代に展開した前衛的な「反芸術」に認められる。ウィレム・デ・クーニングのドローイングを消した作品であるロバート・ラウシェンバーグによる《消去されたデ・クーニングのドローイング》(1953)や、ハイレッド・センターが64年に銀座の並木通りで実施した「首都圏清掃整理促進運動」はその好例と言える。ただし、それら白紙還元としての前衛的な芸術運動は、制度批判や既成概念の破壊を目的とした制作行為であったがゆえに、作品経験においてはむしろ重層的な時間や空間が生起していることは、見逃してはならないだろう。なお、タブラ・ラサの美学的接近として、ジョルジョ・アガンベンの仕事が挙げられる。アガンベンは、アリストテレスの『霊魂論』にある「書板(grammateion)」までタブラ・ラサの起源を遡り、そこから「潜勢力」という概念を導出する。この潜勢力は文学や音楽などさまざまな芸術に援用され、例えばハーマン・メルヴィルの短編小説「バートルビー」(1856)に登場した、書生バートルビーが語る「しないほうがいいのですが」という言葉から精緻に分析された現勢力/潜勢力の関係性は、制作行為や作品に関する重要な問題を提示している。 『知覚の現象学』M・メルロ=ポンティ Phénoménologie de la perception, M. Merleau-Ponty フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)の主著。『知覚の現象学』(1945)は『行動の構造』(1942)につづく彼の2冊目の著作であり、その後のフランス現象学の展開に決定的な影響を及ぼした。メルロ=ポンティが同書を発表したのは、いまだフランスにフッサールの現象学が十分に紹介されていなかった時代のことである。そのようななか、メルロ=ポンティはフッサールの未刊草稿を精査するとともに、そこに登場する諸概念を独創的な仕方で練り上げることで、フランス独自の現象学の展開に大いに貢献した。なかでも本書の最大の特徴は、われわれの「身体」および「知覚」に焦点を合わせることで、主観/客観、意識/物体といった伝統的な二項対立を疑い、身体的経験の両義的構造を主張した点にある。このようなメルロ=ポンティの思想が、従来の単純な「鑑賞」(見る主体/見られる対象)のモデルに準じるのではなく、むしろ鑑賞者の「身体」の位相を重視しつつあった戦後美術に影響を及ぼすことになったのはごく当然の成り行きだった。『知覚の現象学』が英訳されたのは1962年のことだが、同書はアメリカ西海岸を中心とするミニマル・アートの理論の形成に少なからぬ影響を与えたとされている。 『抽象と感情移入』ヴィルヘルム・ヴォリンガー Abstraktion und Einfühlung(独), Wilhelm Worringer ドイツの美術史家ヴィルヘルム・ヴォリンガーの代表的著作。「抽象と感情移入 様式心理学への一つの寄与」というタイトルで1907年に学位論文として申請され、08年に出版された(邦訳=『抽象と感情移入 東洋芸術と西洋芸術』)。この著作でヴォリンガーは、テオドール・リップスの心理学的美学において提唱されていた「感情移入」型の古典主義的歴史観に対し、「抽象」衝動を対置させた。同書は、歴史がこの二つの精神的態度を交換・変遷する過程を、古代エジプトから中世ゴシック、ギリシャ・ローマなどの広範な美術作品に見出し、従来のヨーロッパ中心主義的歴史観の相対化を目指したものである。「感情移入」衝動には主体と客体とのあいだに有機的な生命観が見出され、古典主義などが相当するとされる。逆に「抽象」衝動とは、世界との無限の混沌状態に直面した人間が平静を得るために求める「抽象」的な法則性や幾何学性のことを指す。ヴォリンガーは「抽象」衝動を「古代人」の様式に帰属させ、エジプトのピラミッドなどがそれに対応するとした。また、彼はミュンヘン分離派や青騎士などの表現主義の動向にも関心を持ち、同時代美術の「抽象」性の根源を解明しようとした。P・クレーやF・マルクは、彼らの作品の幾何学的な抽象性を歴史的・理論的に支えるものとしてヴォリンガーの言説に注目していたことで知られる。 抽象表現主義 Abstract Expressionism 抽象表現主義とは、1940年代後半から50年代にかけてアメリカ、特にニューヨークを中心に隆盛した芸術様式で、46年に美術批評家のロバート・コーツによって命名された。バウハウスや未来派、キュビスムの流れを汲む非具象とドイツ表現主義などの激しい感情表現を基本とする。第二次世界大戦の戦禍を避けてヨーロッパの前衛芸術家たちがアメリカに多数亡命したことが直接の契機となり、抽象表現主義以降、芸術の発信地が従来のパリからニューヨークへとシフトしていくこととなる。50年代には批評家クレメント・グリーンバーグによるフォーマリズム理論の擁護を受けて大いに隆盛し、それ以降のアメリカ主導の美術という確固たる地位を築く礎となった。次第にキャンヴァスが巨大化、焦点を失い画面全体を均質に色や線が支配、キャンヴァスがイメージを再現することから逸脱し、ついには芸術家の描画行為のフィールドと認識されるに至る。ジャクソン・ポロックをはじめとするアクション・ペインティングやバーネット・ニューマンらのカラーフィールド・ペインティングも抽象表現主義に含まれる。しかしイリュージョンが徹底的に排除された結果、60年代には堅苦しく単調なものとなり影響力を失い始め、対極的な具体的、大衆的イメージのポップ・アートやネオダダがアメリカ美術シーンの主流となっていく。 中心と周縁 Center and Periphery 文化人類学者の山口昌男による文化研究の主要な分析概念。著書『文化と両義性』において山口は、社会の中心性及び周縁性に関して先行する論考を整理し、その上で「中心/周縁」という、より二項対立的思考の枠組みと、特に積極的な意味を十分に論じられてこなかった「周縁」の側にあらためて意義を見出す視点を独自に提示した。社会は「中心」と「周縁」の有機的な組織化の上に成り立っており、すべての政治的宇宙は「中心」を持つと同時に「周縁」を持つという。それまで否定的な側面を担わされ、排除されるべきものと考えられていた「周縁」という概念は、山口によって他者性をはらむことで多義的な豊穣性を再生産し続けるという一面が意味付けられ、先行的な論考よりも大きな比重を置いて語られている。この発想は国内外の文化人類学に留まらず、大江健三郎が『叢書文化の現在4 中心と周縁』(岩波書店、1981)を編集し、その中で「周縁」の概念に基づいて小説家としてのあり方を自問しているように、20世紀後半の人文世界や各芸術にも強い影響を与えている。 『中心の喪失』ハンス・ゼードルマイア Verlust der Mitte(独), Hans Sedlmayr ウィーン学派の影響下に中世美術・建築を専門とした美術史家ハンス・ゼードルマイアによる1948年の著書名であり、また芸術を通して無神論的近代の病を指摘する、大戦前後にわたる一連の文明批評的言説をも指す。同書は自然を目的とした純粋庭園、芸術や産業を目的とした建築、また純粋視覚や無意識を強調する絵画、台座ばかりか首や手足もない彫刻などを徴候に、大聖堂に象徴される総合芸術や共感覚、イコノロジー(芸術の意味作用)などの死を宣言する。これが近代の人間精神における、純粋性の極端な追求、対立の発生、非有機的なものへの愛着、地盤からの遊離、無意識など下方向の傾向性、上下の無化など、神なき〈自律的〉人間が抱える病の指摘に繋がる。すなわち19世紀以降、西欧ヒューマニズムの伝統が喪失したという指摘であるが、これは近代芸術批判というよりむしろ、時代を診断する材料としての芸術の役割を認めた上での議論である。事実、彼は近代芸術の「業績」を61年の論文「デミウルゴス時代の芸術」で列挙した(『光の死』1964所収)。また同書中でも先行世代による様式史的方法による美術史学の限界に言及しながら(『芸術と真実』1956に発展)、最終章「予後と決意」で、絶望のうちに積極性を見出す態度から、単なる復古ではないかたちで文化や精神性の回復を促す。ただし同書は当時から、宗教偏重の立場から近代芸術を全否定したものと理解され、同時代芸術への賛否論争を誘発した。この経緯の反映か、英訳書タイトルが“Art in Crisis”となったことは、著者には不本意だったという※1。 転換子 Shifter 言語学で用いられる「shifter」の訳語。言語学者のR・ヤーコブソンによって広く知れ渡った概念であり、それ自体としては空虚で、文脈によってその意味内容を変化させる言語記号が「転換子(シフター)」と呼ばれる。例えば「この」椅子、「あの」テーブルといった代名詞(this, that)や、「わたし」や「あなた」のような人称代名詞(I, you)など、発話者の立場や文脈によってその指示対象を変える言葉が「転換子」に相当する。この議論に関しては、ヤーコブソンと同じ言語学者であるE・バンヴェニストの「代名詞の性質」(『一般言語学の諸問題』に収録)などが有名だが、美術批評にこの「転換子」という概念を導入したのはロザリンド・クラウスである。クラウスは、1976年初出の「指標論:パート1」においてこの「転換子」という概念に言及している。クラウスは同テクストの冒頭で、ヴィト・アコンチのヴィデオ作品《エアータイム》への言及に際して「転換子」という概念を導入し、それをラカンの「象徴界」やパースの「指標(インデックス)」に接続しつつ論じていく。そこでの議論の核心は次のようなものである。すなわち、this, that, I, youのような転換子は、それが言語記号であるという性質上、第一には象徴記号(シンボル)である。ただしそれらは、その指示対象(「この」椅子、「あの」テーブル)との対応関係を保持しているかぎりにおいて、同時に指標記号(インデックス)でもある。以上のような軸に沿ってデュシャン以降の作品を論じていくクラウスは、70年代の芸術作品を、空虚な記号としての転換子(=指標)的性格を保持したものとして論じるという大胆な企てに着手する。言うなればそれは、しばしば統一的な様式の不在が指摘されていたこの時代の絵画・写真作品に、一定の解読格子を与える試みだったと言うことができる。
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