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熱い抽象/冷たい抽象 抽象絵画の傾向を幾何学的抽象と表現的抽象とにわけ、前者を「冷たい」、後者を「熱い」と対照的に特徴づける美術史・批評上の表現。この語は第二次世界大戦後のヨーロッパ、とりわけフランスで1950年代前半に多く用いられた。戦後、米国を巻き込んで国際的に広まった抽象絵画運動に際し、フランスで純粋抽象の伝統と、新しく現われた表現的な抽象を整理する必要があった。そこで、モンドリアンに代表される幾何学的な形態と限定的な色彩で構成される純粋抽象を「冷たい(cool/froid)抽象」と呼び、デュビュッフェやヴォルスらのアンフォルメル絵画やポロックやデ・クーニングらの動的な構図、自由な色彩、身振りの激しい描き方などを伴った抽象絵画の傾向を、「熱い(hot/chaude)抽象」と呼んで区別した。また、この二分法によって抽象芸術を種別する枠組みも一般化した。すなわち、工業化や色彩・光学の発展を背景に現われたデ・ステイル、バウハウスやロシア構成主義の抽象の系譜と、感情や人間の内面性の問題を扱い、有機的な表現や色彩の効果も取り入れてきたカンディンスキーやドイツ表現主義の系譜である。しかしこの分類に当てはまらない、あるいは両方に当てはまる抽象的表現があることは言うまでもなく、この語は傾向を示すための便宜的な分類法でしかない。戦後の日本では、戦争で中断された幾何学的抽象やシュルレアリスムと、戦後のエコール・ド・パリの動向やアンフォルメルがほぼ同時に展開したため、「熱い・冷たい」の区別は批評家が傾向を分析するのにしばしば便利に使われた。
1960年代の前衛美術家とアニメーションの関係は深い。作品を制作することで収入を得るという理想と、作品を制作すること以外の労働に従事せざるを得ないという現実の乖離は、今も昔も、美術家にとって切実な問題だが、当時の前衛美術家たちもそうした問題の解消を求めて、アニメーション制作会社に向かったからだ。56年に発足した東映動画(現在の東映アニメーション)には、手塚治虫のほか宮崎駿や高畑勲、金田伊功ら、後に日本を代表する漫画家やアニメーション映画監督が在籍していたことが知られているが、その一方で佐々木耕成、小林七郎、小華和ためお(為雄)といった前衛美術家たちも関わっていた。いずれも「ジャックの会」という前衛美術グループで活動していたが、生活のために東映動画でアニメーションを制作していたのである。なかでも小林は、68年に独立して小林プロダクションを設立し、その後日本を代表するアニメーション美術監督となった。『ガンバの冒険』(1975)や宮崎駿のデビュー作『ルパン三世カリオストロの城』(1979)、押井守の出世作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)など、小林は数多くのアニメーション作品で美術監督を務めた。60年代の前衛美術家たちのなかには、後年になって純粋絵画に回帰した者が多かったが、小林のように大衆芸術へ展開した者も少なくなかったのである。
アプストラクシオン・クレアシオン 「抽象―創造」。A・エルバンを会長、G・ファントンゲルローを副会長として1931年2月15日にパリで結成。20世紀初頭のヨーロッパにおいてシュルレアリスムと双璧をなした抽象芸術運動を代表する芸術家集団。前年に結成されたM・スーポーとJ・T=ガルシアによる「セルクル・エ・カレ(円と正方形)」、およびT・V・ドゥースブルフ、J・エリオンらの「アール・コンクレ(具体美術)」から派生して生まれた集団で、グループ展を通じて抽象美術の国際的広がりを促した。禁欲的な抽象が基本的な傾向で、著名なメンバーはH・アルプ、W・カンディンスキー、L・モホイ=ナジ、P・モンドリアン、K・シュヴィッタースなど。日本からは岡本太郎が最年少メンバーとして33年頃に参加した。定期的に展覧会を開催し、年報を5冊刊行。グループとしてまとまった活動が認められるのは最後の年報が出された36年までだが、中心メンバーの活動は第二次大戦前夜の39年頃まで継続した。亡命などによる作家たちの拡散に伴って、スイス、イギリス、イタリア、スカンジナビア各国を始めとしてアメリカやブラジルにまで影響の波及が見られる。国際性もひとつの特徴で、メンバーは約400人に至ったとの説もあるが、これはほぼ名義のみの「会友」(P・ピカソやC・ブランクーシなど)を含めた数で、実際には50人前後で推移、総計およそ100人が関わったとされる。78年にドイツとフランスで回顧展が開催され、図録はこのグループを総括したほぼ唯一の資料となっている。
アヴァンギャルド 仏語で「前衛」。元々は「前衛部隊」を指す軍事用語であるが、先鋭的ないし実験的な表現、既存の価値基準を覆すような作品を名指すために19世紀頃から頻繁に用いられるようになった。「前衛(的)」という問題を主題化した美術史上の論考としては、C・グリーンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939)が有名。その際グリーンバーグが「アヴァンギャルド」と呼んだのは、卓越した歴史意識をもって既存のブルジョワ文化を批判し、芸術的な作品/行為を通じて文化の推進と絶対的なものの探求を試みる作家たちのことであった。その成立時期が示唆するように、アヴァンギャルドというカテゴリーは近代芸術の展開(モダニズム)と不可分のものであり、無数の主義(ism)や様式(style)が現われては交替していく近代芸術の歴史は、前衛芸術の歴史そのものであると言うこともできよう。とはいえ20世紀も後半になると、「アヴァンギャルド」というカテゴリーそのものが歴史化され、「反アヴァンギャルド」的な作品・言説もまた誕生することになる。加えて、「アヴァンギャルド(前衛)」という言葉の内実が使用者によって異なることもしばしばであり、今日用いられている「アヴァンギャルド」という言葉を理解するにあたっては、その政治的、様式的、歴史的な含意にたえず注意を払う必要があるだろう。
『アヴァンギャルド芸術』花田清輝 『アヴァンギャルド芸術』とは、評論家である花田清輝の第五評論集であり、1954年10月に刊行された。この評論集に代表される花田の言説は、花田の組織したグループに集った芸術家や評論家を中心として、50-60年代の芸術・文化において大きな影響を与えた(例えば、収録のエッセイ「林檎に関する一考察」は、針生一郎と武井昭夫の『美術批評』誌上での論争の発端となった)。花田は戦時中より「文化再出発の会」を結成し、その機関誌『文化組織』を刊行することで、戦後の復興期に繋がる新しい芸術・文化運動を進めていた。そして戦後新たに「綜合文化協会」を結成し、機関誌『綜合文化』を刊行する。それに並行して、岡本太郎らと「夜の会」を結成し、戦後アヴァンギャルド芸術の運動を組織してゆく。50年代の芸術・文化においては、現実を捉えるためにサークル詩やルポルタージュ絵画など、さまざまな領域で「記録」が重要な問題として取り上げられていた。そのような背景のなかで花田が掲げたアヴァンギャルド芸術の言説とは、狭義の芸術の範疇にとどまるものではなく、戦前のアヴァンギャルド芸術の国内受容が多くの場合、政治的な側面を欠落させていたことを踏まえ、社会主義リアリズムにアヴァンギャルド芸術の方法論を導入し、既存のリアリズムの硬直を乗り超える新しいリアリズムを追求するものであった。花田の言説とは大衆の組織されていない無形のエネルギーを汲み上げ、芸術・文化の変革運動への展開を目指すものであったといえる。花田の評論対象は大衆文化全般に向けられており、58年には映画を論じた評論集である『映画的思考』を出版している。
『イコノロジー研究 ルネサンス美術における人文主義の諸テーマ』E・パノフスキー 美術史家エルヴィン・パノフスキー(1892-1968)の主著のひとつ。パノフスキーがアメリカ合衆国に亡命後初めて刊行した著書でもある。同書の初版は1939年だが、62年に出版された同書の改訂版において、パノフスキーは「イコノロジー(図像解釈学)」を「イコノグラフィー(図像学)」という学問から区別すべく次のように述べている。すなわち、美術作品の分析には(1)自然的主題、(2)伝習的主題、(3)内的意味・内容という3つの水準が存在する。第一の水準は線と色からなる形およびその相互関係をある「対象」や「出来事」として認めることであり、これは美術史で言うところの「モチーフ」、すなわち「イコノグラフィー以前の」記述に相当する。第二の水準は、モチーフの組み合わせから「イメージ、物語、寓意」を認識することであり、これが「イコノグラフィー」に相当する。そして第三の水準が、上記のような純粋な形、モチーフ、イメージ、物語、寓意などを象徴的に解釈することに相当する。「象徴的に解釈する」とはつまり、以上のような作品の特質を、国家・時代・階級・宗教・哲学的信条などからなる基礎的態度の徴候として把握するということである。パノフスキーにおいては、ある美術作品からこのような「象徴的価値」(E・カッシーラー)を発見することこそが「イコノロジー」と呼ばれるのである。
イコノロジー 美術史家エルヴィン・パノフスキー(1892-1968)が著書『イコノロジー研究』(1939)において用いた言葉。しばしば「図像解釈学」と訳される。作品におけるモチーフの組み合わせからイメージ、物語、寓意などを認識する「イコノグラフィー」に対し、純粋な形、モチーフ、イメージ、物語、寓意などを象徴的に、すなわち以上のような作品の特質を、国家・時代・階級・宗教・哲学的信条などからなる基礎的な態度の徴候として解釈することが「イコノロジー」と呼ばれる。ただし、初版の時点では前者が「狭義のイコノグラフィー」、後者が「深い意味におけるイコノグラフィー」と呼ばれるにとどまっており、「イコノロジー」という言葉が同書のなかで前面化したのは1962年の改訂版においてである。絵画作品のあらゆる要素を「象徴的価値」として解釈するというイコノロジー的な方法論の背後には、美術史家A・ヴァールブルクや、パノフスキー自身も名前を挙げているE・カッシーラーからの影響が多分に見て取れる。
イコノグラフィー 「画像(eikon)」を「記述する(graphein)」というギリシャ語をその語源とし、日本語ではしばしば「図像学」と訳される。古くは絵画作品に描かれた象徴体系(アトリビュート)を読み解くための学問を意味した。「アトリビュート」とは、ゼウスには鷲、アテナには梟(フクロウ)を添えるといった西洋絵画における作法のことであり、それを集成したものとしてはC・リーパの『イコノロギア』(1593)が最も重要である。時代が近代に近づくと、美術作品における主題、意味、内容を系統立てて理解するための学問として、イコノグラフィーは美術史の側からより広く要請されることになる。具体的には、ある作品に何が描かれているかを同定し、そこからさらに深い意味内容を見出していくといったタイプの研究方法がイコノグラフィーとして体系化される。20世紀半ばには美術史家のE・パノフスキーが『イコノロジー研究』(1939/62改訂版)において、従来のイコノグラフィーを「狭義のイコノグラフィー」と呼び、それに対する「深いイコノグラフィー」を「イコノロジー」と呼んで両者を区別した。
イコン キリスト教において崇敬の対象とされる聖像。古典ギリシャ語の「エイコーン(eikon)」を語源とし、狭義には東方教会における平面像(≠立像)を意味する。聖像の使用がキリスト教の偶像崇拝の禁止に抵触するかどうかについては古来より多くの議論が交わされており、8世紀の聖像破壊運動(イコノクラスム)によって多くのイコンが破壊されるという出来事もあった。また、この言葉は現在では本来のキリスト教的な意味を離れ、「偶像」や「アイコン」(いずれも英語でicon)といった単語に引き継がれている。例えば前者の用例は、時代を象徴するミュージシャンやアイドルにしばしば適用される「ポップ・アイコン」という呼称に反映されており、また後者の用例は、コンピュータなどのインターフェイス記号を示す「アイコン」として流通している。哲学的な用語としての「イコン(アイコン)」は、「インデックス」「シンボル」とともに、Ch・S・パースの記号論における主要概念としても知られている。
意味作用 ある記号の表現と内容が結びつけられる過程で意味が生じるプロセスのこと。「記号学(Semiology)」の始祖であるソシュールにおいて、意味作用は「意味するもの/記号表現(シニフィアン)」と「意味されるもの/記号内容(シニフィエ)」とのあいだに生じるプロセスとして理解され、「記号論(Semiotics)」の始祖であるCh・S・パースにおいては「対象」「表象」「解釈者」のあいだに生じるプロセスとして理解される。いずれにおいても、そこで含意されているのが固定的な「意味(sense)」ではなく、動的な意味の獲得のプロセスであるという点が重要である。所与の事物や現象に対するこうした意味の付与と獲得のプロセスを文化研究の領域において展開したのがロラン・バルトであることはよく知られている。20世紀後半の記号学/記号論の成果によって切り開かれた意味作用の分析は、芸術作品のみならず、さまざまな文化的表象の背後にひそむ諸々の力学を分析するうえでの基本的かつ重要な方法となっている。
『インサイド/アウトサイド』 2000年以降、急激に複雑化したストリート・アート・シーンの内実に迫ったドキュメンタリー映画作品。05年公開。監督はデンマークのアンドレアス・ヨハンセンとニス・ボイ・モラー・ラスムッセン。出演しているストリート・アーティストはゼウス、スウーン、ケー・アール、オス・ジェメオス、ロン・イングリッシュ、アダムス・アンド・イッツォなど。07年に日本語版のDVDが発売されている。1970-80年代を通じてニューヨークを中心に形成されたサブカルチャーとしてのグラフィティ文化に対し、それを経由しながらもより多様な表現手段や文脈を取りこんだ、世界同時多発的なストリートの表現文化として2000年以降のストリート・アートを捉えるならば、『ワイルド・スタイル』や『スタイル・ウォーズ』といった1980年代冒頭のグラフィティ文化を扱った映画作品が前者に対応しており、 『インサイド/アウトサイド』は後者に対応していると言えるだろう。両者の差異のひとつとして、『ワイルド・スタイル』や『スタイル・ウォーズ』に出演しているグラフィティ・ライターたちはそれぞれに固有のスタイルを持っているものの、スプレー塗料やマーカーなどを用いて名前をかくというグラフィティの基本的なルールを踏みだすことはないが、 『インサイド/アウトサイド』に登場するストリート・アーティストたちは、それぞれまったくと言ってよいほど表現の手法や方向性が異なる。したがって映画が描きだすのも、ストリート・アートという文化の全体像ではなく、個々のストリート・アーティストの活動やその背後にある思考であり、そのこと自体がグラフィティ/ストリート・アートをめぐる状況の変化を示していると言えるだろう。
遠近法 三次元の空間と立体を、絵画などの二次元平面上で視覚的に再現する際の表現方法。時代・地域などによりさまざまなヴァリエーションがある。西洋では特に古代と近世に遠近法への関心が高まった。前後の対象を重ねて描く原始的な方法のほか、遠景を青灰色にぼかす空気遠近法、画面に対し垂直に配されたモチーフを縮めて描く短縮法などが行なわれたが、特に西洋近世に特徴的な方法とされるのは線遠近法(透視図法)である。線遠近法は、画面に直交すると想定される平行線を一点(消失点)に集束させて描く方法で、イタリア・ルネサンスで開発され、17-18世紀には数学・幾何学の進展とともに単純化・完成された。一方で東洋では、遠いものを上に、近いものを下に描く上下法や、前後の対象を重ねる方法が一般的に採用された。中国では、すでに唐代には山水画で遠近表現の定式化が進められ、北宋の画家・郭煕は、高遠・平遠・深遠からなる三遠法を理論化するとともに、視点を一点に定めた空間構成や、前のものを濃く、後のものを淡く描く方法、奥行を計量的に表現する方法などを駆使し、高度な遠近表現を実現した。日本では江戸時代中期以後、西洋の線遠近法への関心が深まり、眼鏡絵や浮絵に応用されたほか、洋風画や、浮世絵の風景版画に影響を与えた。なお遠近法は特定の文化圏における主体と世界との関係性を象徴する視覚形式として論じられることもある。
「大きな物語」の終焉 「大きな物語」とは、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(1924-98)が『ポストモダンの条件』(1979)において提唱した言葉であり、科学がみずからの依拠する規則を正当化する際に用いる「物語、語り口narrative」のことを意味する。上記のような含意から、同書のなかでは、同じ意味として「メタ(=上位)物語métarécit」という表現が使われることもある。 リオタールによれば、従来人々は科学の正当性を担保するために「大きな物語」としての哲学を必要としてきた。ここでいう「哲学」とは、真偽や善悪を問う際の「基礎づけ」を担う知の領域を指し示している。リオタールは、このような「大きな物語」に準拠していた時代を「モダン」、そしてそれに対する不信感が蔓延した時代を「ポストモダン」と呼んでいる。つまりポストモダンとは、この基礎づけとしての「哲学」が有効性を失った、言い換えれば「大きな物語」が終焉した時代だというのである。1980年代以降に「ポストモダン」という言葉が浸透するにつれて、「大きな物語の終焉」というキャッチフレーズは、それ以前の時代からの断絶を強調するための格好の用語として広く人口に膾炙した。しかし上記のように、そもそもこの言葉を広く知らしめた『ポストモダンの条件』において、「大きな物語」という言葉が科学の正当化をめぐる議論において用いられていたという事実は記憶にとどめておく必要がある。
解釈 未知のもの、難解なもの、一義的に説明しがたいものなど、そのままの状態では理解できないものを、理解可能なものに変換すること。翻訳。解釈行為の対象は、通常、何らかの意図のもとに構成された多義的な情報の集合体(テクスト)であり、物理現象や数式のようにひとつの解があらかじめ想定される場合は除外される。上記「未知のもの、難解なもの…理解可能なもの」といった設定はすべて「解釈者にとって」という条件を含むため、解釈にはその解釈者が既知と認識する前提が反映される。そして当然、解釈者によって解釈の内容は異なる。したがってひとつのテクストに対して無数の解釈がありえるが、それぞれの解釈にはそれぞれの解釈者にとっての正しさが志向されるがゆえに、解釈どうしは優劣関係あるいは対立関係になることがある。この場合、同一対象にかかわる複数の解釈は正当な解釈と不当な解釈(誤解)に分けられることになる。ただしすべての解釈が背反関係にあるとは限らず、対象となるテクストから読み取る文脈が衝突しなければ多様な解釈が共存することができる。いずれにせよ、対象により多く適合している解釈がより優れた解釈、または「客観的な」解釈とみなされる(内容に寄り添うことでテクストとの適合を図る解釈と批評を対置させるS・ソンタグの『反解釈』を参照のこと)。注意せねばならないのは、解釈内容の正しさはテクストの作者の意図と必ずしも関係せず、作者の意図を超えてテクストが求める解釈の地平がありうる点である。この点に立脚するのが受容美学である。
『関係性の美学』N・ブリオー フランス出身の理論家・キュレーターであるニコラ・ブリオー(1965-)が1998年に刊行した著作。2002年には英訳も刊行され、その後のブリオーのキュレーターとしての世界的な活躍を標しづける一冊となった。同書はブリオー自身がボルドー現代美術館やパレ・ド・トーキョーの企画展において評価した同時代の作家/作品を、「関係(relation)」の創出という観点から論じたものである。上記のような作品は「リレーショナル・アート」と呼ばれ、リクリット・ティラヴァーニャ、リアム・ギリック、フィリップ・パレーノ、ヴァネッサ・ビークロフトなどがその代表的な作家として挙げられる。『関係性の美学』という著作そのものは、ブリオーが編集に携わった90年代半ばの雑誌『芸術についての記録』における連載をまとめたものであり、必ずしも「関係性の美学」という主題に関する体系的な議論が構築されているわけではない。加えて、その後に刊行された『ポストプロダクション』(2001)や『ラディカント』(2009)といった著作に目を向けてみても、そこで『関係性の美学』に続く一貫した理論が提示されているとも言いがたい。しかし、同書に端を発する「リレーショナル・アート」や「関係性の美学」という基本コンセプトは、90年代から00年代にかけて急増したインスタレーションをはじめとする新たなタイプの作品、ひいては地域振興を旨とするコミュニティ・アートなどの理論的な後ろ盾としてしばしば援用されることになった。そのような意味において、同書は2000年代以降の美術の新たなパラダイムを切り拓いた著作であり、現在邦訳が最も待たれている一冊である。
幾何学 学問としての幾何学は、古代ギリシャ時代に学問として研究され、中世ヨーロッパではいわゆる自由七科の一科目として確立した。美術作品やデザインにおける幾何学の初期の例として、新石器時代に東方諸国、特に北部メソポタミア地域でつくられた陶器類に、幾何学模様として図形を使ったデザインが見られる。こうした多角形や円を要素として用いた造形の例は、歴史上多く見られる。例えばイスラム文化圏で見られるモスクのアラビア模様は、幾何学模様をパターン化したタイルで成立している。ギリシャ時代には黄金分割(率)でピラミッドや彫像がつくられた。中世から近代に描かれた絵画も、円や矩形をもとに画面構成が試みられた。モンドリアンの「コンポジション」は、画面をグリッド状に分割しただけである。それとほぼ同時代のキュビスムは、二次元である平面(絵画)で三次元の表現を試みたものである。現代においては、フラクタルと呼ばれる再帰的な概念が提唱されるようになり、それを具現化するCGを使うことで、これまでカオスと思われていた形をつくりだすことができるようになった。そして、幾何学はヴィジュアル・アートとして視覚化されるだけにはとどまらない。現代音楽やサウンド・アートにおいては、音のひとつひとつを図形や座標に配置して作曲した作品も少なくない。
幾何学的抽象 抽象を用いた芸術の一形式であり、幾何学な線・面・量塊などによって構成される表現形式のことを指す。その場合の線・面・量塊は線遠近法的なイリュージョンに寄与することはなく、もっぱら抽象的な画面構成のために用いられる。20世紀前半においてこの種の幾何学的抽象を用いた作家や動向は少なくなく、運動としてはキュビスム、デ・ステイル、シュプレマティスム、個別の作家としてはW・カンディンスキー、K・マレーヴィチ、P・モンドリアンらの作品が想起される。1920年代に国際的な展開を見せた幾何学的抽象は、30年代のパリで「セルクル・エ・カレ(円と正方形)」や「アプストラクション・クレアシオン(抽象・創造)」といったグループを生むものの、第二次世界大戦前や戦中のソ連やドイツでは反動的な時代の逆風にさらされることになった。また同時期、幾何学的抽象はA・E・ガラティンのコレクションやMoMAでの展示を通じてアメリカにも紹介されている。とりわけ、後者の初代館長アルフレッド・バーJrが「キュビズムと抽象芸術」展(1936)において「幾何学的抽象」と「非幾何学的抽象」を明確に区分したことは有名である。この様式は、後にアメリカで教鞭をとったモホイ=ナジ、ナウム・ガボ、ヨーゼフ・アルバースらによって次世代へと受け継がれる様式のひとつとなった。
キュビスム あらゆる対象を幾何学的図形に還元して描く、立体派とも呼ばれる美術運動のひとつ。20世紀初頭に起こったこの運動は、ポール・セザンヌの「形態」に対する主張に影響を受けたジョルジュ・ブラックやパブロ・ピカソをその創始とする。この名称は、1908年に発表されたブラックの作品において対象が幾何学的パターンないしは立方体(キューブ)に還元されていることに由来し、その命名者はアンリ・マティスとも、美術批評家ルイ・ヴォークセルとも言われている。キュビスム発祥の起因とされているセザンヌの主張とは、「自然の中の全ての事物は、幾何学的形式――円柱、球、円錐で構成されている」とするものであった。09年頃に始まったキュビスムの最初の動向は、対象を細分化することによって構築することから「分析的キュビスム」と呼ばれた。分析的キュビスムにおいては色彩よりもヴォリュームや空間構成が優先されたため、その多くは単色で描かれている。これに続いたのが、10-12年頃に始まった「総合的キュビスム」である。ここでは前者において細分化、つまり分析されていた対象の形態が再び統合されることとなった。この段階における大きな特徴は、ステンシルやレタリングによる「文字」が導入され、コラージュの使用、パピエ・コレの創始など表現の広がりにある。また、ブラックとピカソ以外のキュビストとして、彼らについでキュビスムの理論に忠実であったとされるフアン・グリスを挙げるべきだろう。キュビスムの一連の動向も、第一次世界大戦勃発とともに終焉を迎える。キュビスムの時代は短命であったが、同時代また後世の芸術に与えた影響の大きさは言うまでもない。
形而上絵画 1909年頃から10年代を通じて、ジョルジョ・デ・キリコとその影響を受けた画家たちが生み出した絵画様式。メタフィジカとも言う。ショーペンハウアー、ニーチェ、ヴァイニンガーの哲学や、ドイツ・ロマン主義の画家、A・ベックリン、M・クリンガーらの絵画がデ・キリコの思想に基盤を与え、09-10年頃には謎めいた雰囲気と不安感を醸し出す《神託の謎》《秋の午後の謎》を制作。目に見える事物の奥にある神秘の探究が始まる。11年から4年間に及ぶパリ時代には、奇妙な透視図法による都市空間あるいは室内空間に、マネキン、ギリシャ風の彫像、汽車、長く伸びた影などが出現する基本スタイルが確立。詩人G・アポリネールの称賛を受けたほか、パリのシュルレアリストたちの霊感の源となった。17年、フェラーラの軍事病院でデ・キリコと出会ったC・カッラ、F・デ・ピシスが流れに加わり、デ・キリコの実弟A・サヴィーニオも交えて芸術の問題を議論。しかし運動としてのまとまりは持たず、カッラはクワトロチェントの巨匠を現代的に再解釈しつつ、アルカイックなスタイルを独自に追求。形而上絵画についての文章を発表するも、「無能な剽窃者」としてデ・キリコの非難を浴び、両者のあいだに確執が生まれる。また雑誌の複製図版などを通じてデ・キリコやカッラを知ったG・モランディも17-19年頃に形而上絵画に接近したが、切り詰めた造形要素による静謐かつ詩的な画面は、先の二人の作風とは距離を置いたものだった。また、形而上絵画と関わりの深い雑誌『ヴァローリ・プラスティチ(Valori Plastici)』(1918-22)の存在も見逃せない。秩序回帰を謳った同誌にデ・キリコ、カッラ、サヴィーニオらが寄稿したことは、形而上絵画の理論的補強へと繋がった。
『啓蒙の弁証法』テオドール・アドルノ&マックス・ホルクハイマー ドイツの思想家テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーによって1939年から44年にかけて共同執筆され、戦後の47年に出版されたフランクフルト学派による批判理論の代表的著作。ナチス・ドイツがヨーロッパを席巻しつつあった時代に、彼らは亡命先のフランスとアメリカでこの書物を執筆した。本書のなかでは、ヨーロッパ的な理性が全体主義という野蛮へと退行したことが批判されるが、その批判の矛先はヒトラーのファシズムだけでなく、「リベラル」な大衆社会を達成しつつあったアメリカにも向けられている。特に「文化産業 大衆欺瞞としての啓蒙」の章は、メディアによって大衆が消費の自由を与えられることにより、見せかけの多様性や価値に振り回され、自ら欲して均質化し、制度の奴隷と化していくさまが、酷薄なまでに鋭い文体で批判されている。彼らの図式は、単なるマルクス主義的なイデオロギー論・疎外論・物象化論に収まらない。新しいメディア技術とともに、消費社会的楽観主義に充たされた大衆社会は、むしろネガティヴなかたちでの啓蒙の完成なのであり、そこは大衆が自ら進んで社会を全体主義化する、新しい「収容所」なのである。このようなメディア社会の批判は、のちのギー・ドゥボールによる「スペクタクルの社会」などさまざまな情報化社会批判の先取りであるが、それらに共通する重要な点は、いわゆる体制/反体制の二元論が無効化した社会を見据えていたということである。このことを理解しないで、単に「抑圧的な権力」対「受動的な消費者」といった安易な疎外論的な立場から、これらのメディア消費社会批判を読むことはできないだろう。そのような意味で、この書物を貫く社会批判のトーンが、まったく政治的立場を逆にするハイデガーの同時期の著作と呼応し合うことは意味深長である。
『芸術世界(ミール・イスクーストヴァ)』 1900年前後にロシアで興った前衛芸術運動、および同運動を紹介する目的でセルゲイ・ディアギレフによって発行された雑誌名。1890年代、ロシアのサンクトペテルブルクで「芸術世界(ミール・イスクーストヴァ)」と呼ばれる前衛芸術運動が起こった。当時のロシアでは、世紀末芸術が花盛りであった。こうした国内の文化・芸術について国民の関心を深めると同時に、ドイツ、イギリス、フランスといった西欧諸国の思想や芸術の動向を紹介することを目的に、1898年に創刊されたのが芸術総合誌『芸術世界(ミール・イスクーストヴァ)』であった。創刊号には発起人ディアギレフによる「芸術至上主義宣言」が掲載され、毎回、展覧会、バレエ・演劇、コンサートについての評が誌面をにぎわせた。また、創刊した翌年の99年には雑誌主催で展覧会が開催された。創刊に関わったメンバーは、ディアギレフのほかに、舞台美術家のアレクサンドル・ブノワや画家のレオン・バクストらがいる。手すき紙による豪華な装丁も話題であったが、1904年に休刊した。その後も組織として活動は続けられ、ディアギレフと入れ替わるようにリシツキーやタトリンが参加していった。こうした活動によって、ロシア芸術はヨーロッパへ広く知れわたることとなった。
「芸術と客体性」マイケル・フリード 1967年に『アートフォーラム』誌上で発表された、批評家マイケル・フリードの論考のタイトル。ドナルド・ジャッド、ロバート・モリス、トニー・スミスらのミニマリズムの作品が批判されており、ミニマリズムを論じる際に最も頻繁に参照される論考のひとつ。フリードはミニマリズムを「リテラリズム(直写主義)」と呼び、そこで展開される鑑賞者と客体(=作品)との関係のありようを、主にジャッドやモリスの言説を引用することで分析している。フリードによれば、ミニマリズムの作品では、客体そのものの自律的な現前ではなく、客体を焦点として観者が空間的に抱合される「状況全体」がつくりだされる。フリードはそのような主客の対応関係のもとに成立する作品の性質を「客体性(Objecthood)」と呼んだ。このような「状況」は、フリードにとって演劇空間になぞらえられるものであり、彼はその「演劇性」を芸術に敵対するものとして批判した。もっとも、現実的・日常的な時空間との連続性のなかで、主体と客体とが相互依存的に配置づけられる諸々の関係の構築=演劇性は、モリスらにとってあらかじめ明確に企図されていたものでもあったが、このような戦略を、フリードは観者を堕落させる反道徳的なものとして断罪したのである。そこにはフリードのモダニズム芸術に対する、ほとんど神学的な心情告白さえ看取することができるだろう。
『芸術と文化』クレメント・グリーンバーグ アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグが生前自らの手で編んだ唯一の批評集。ほとんどのエッセイは出版に際して加筆修正されている。その影響力がピークにあった1961年に出版され、主に『パルチザン・レビュー』誌や『ネーション』誌などの媒体に寄稿したものをもとに纏められた。初期の代表的論考「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939)などの文化論のほか、ヨーロッパとアメリカの作家論、若干の文学論などを収める。その構成からは、前衛芸術の政治的・社会的役割への関心を示したマルクス主義およびトロツキズムの影響下にあった初期の活動から、カントに倣った自己批判による還元主義を標榜したシステマティックな批評への移行を窺うことができる。無論その展開は、冷戦下のアメリカでの国家主義的な文化政策の推進や反共産主義などの諸状況とも無関係ではない。シカゴ大学出版局から刊行され、93年に完結した4巻の著作集では『芸術と文化』には収められることのなかった文献や、同書に収められた論考の初出時のヴァージョンも所収され、批評家の中心的な活動期間の全容に触れることができるようになった。日本では、ようやく2005年に入り代表的論考を収めた『グリーンバーグ批評選集』(勁草書房)が刊行された。
60年代後半の「非物質化」された芸術の傾向を分析した批評家ルーシー・R・リッパードの1968年の論考。今日では、コンセプチュアル・アートを理論的に補強した同時代の代表的なテキストのひとつに数えられる。リッパードはオブジェの概念を否定するような60年代美術の非物質的な観念性を指摘し、その過程で美術作品は、「非視覚的」で「超概念的」な傾向を強めると述べる。リッパードはその例証として多数の作家の名前を挙げているが、おおむねこのテキストのモチーフを与えたのは、彼女と友人関係にあったS・ルウィットの制作であったと考えられる。ルウィットの実践は、数学的定理への関心や幾何学的原理の徹底によってコンセプチュアル・アートとミニマリズムの双方を架橋した。それはリッパードが述べるように「観念」を扱う。マイケル・フリードは、ミニマリズムの芸術について、R・モリスやD・ジャッドの作品に見られる観念の実体化こそを批判したが、リッパードもまた、モリスのミニマリズムを定義するうえで、その形態的な単純さよりも、むしろデュシャンに通じるような観念性に注目している。つまり、リッパードの論考は、「非物質性/超概念性/観念性」という論点から、コンセプチュアル・アートとミニマリズムとの境界が曖昧に受容されていた68年当時の状況を生々しくドキュメントしているのである。
ゲシュタルト ドイツ語で「形」「形態」「形姿」などを意味する。心理学や美術の文脈ではしばしば「図」と「地」の関係における「図」に相当する。 ゲーテやマッハをはじめとして、「ゲシュタルトGestalt」をその類義語である「形式Form」や「形象Figur」から区別する議論は以前から存在していた。しかし、「ゲシュタルト」が専門用語として広く用いられはじめたのは、20世紀初頭にヴェルトハイマー(1880-1943)らによって創始されたゲシュタルト心理学以降のことである。ゲシュタルト心理学の立場によれば、人間の知覚は個別的な感覚刺激の総合からなるのではなく、個々の感覚を超えた全体的な枠組のもとに成立している。この際、まとまりをもった全体像として知覚されるのが「ゲシュタルト=図」であり、それ以外の周縁的な要素が「地」である。もちろん、有名な「ルビンの壺」に見られるように、これら「図」と「地」の関係は固定的なものではなく、「向かい合った顔」と「壺」がそれぞれ「図」と「地」の関係になることもあれば、その逆になることもある。上記のようなゲシュタルト心理学は、のちにアート・セラピーを含む心理療法などに応用されていくことになる。また、現代美術の文脈では、ミニマリズムやランドアートの作品にその理論的な影響が見られる。
『限界芸術論』鶴見俊輔 1956年に、哲学者の鶴見俊輔が提唱した芸術概念、および書名。鶴見は、専門家によってつくられ、専門家によって受け入れられる芸術を「純粋芸術」(Pure Art)、同じく専門家によってつくられるが、大衆に楽しまれる芸術を「大衆芸術」(Popular Art)としたうえで、非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される芸術を「限界芸術」(Marginal Art)と考えた。限界芸術の具体例として鶴見が挙げたのは、落書き、手紙、祭り、早口言葉、替え歌、鼻歌、デモなど、私たちの誰もが日常生活で繰り返している身ぶりや言葉である。それらは一見すると「芸術」とは隔たりがあるように思われるが、鶴見によれば芸術とは美的経験を直接的につくりだす記号であり、この観点に立てば、ふだんの暮らしの中での美的経験は、展覧会で絵画を鑑賞する美的経験などよりも、かなり幅広い拡がりをもっていることがわかる。こうした生活の様式であると同時に芸術の様式でもあるような領域を、言い換えれば生活と芸術が重なり合う「のりしろ」の部分を、鶴見は限界芸術であると考えたわけだ。こうした考え方は、たとえば国外ではジョン・ラスキンやウィリアム・モリスらによる「アーツ・アンド・クラフト運動」の流れや、国内では柳田国男、柳宗悦、そして宮沢賢治らによる表現文化と通底しているが、限界芸術はたんなる表現様式のひとつとしてではなく、むしろそうした様式の展開の根底を貫く共通地下道として構想されている。鶴見は限界芸術がアルタミラの壁画以来連綿と続いているというが、それは限界芸術が純粋芸術と大衆芸術を生み出す根源的なものであり、なおかつ私たちが人生ではじめて出会う原初的なものであるという二重の意味で原始的なものとして考えられているからだ。受動的・間接的に鑑賞する芸術ではなく、主体的・直接的に実践して楽しむ芸術。西洋近代芸術が唱えた普遍性とは異なる、もうひとつの普遍性への道を切り開く可能性に賭けているという点で、限界芸術はヨーゼフ・ボイスの思想や石子順造によるキッチュ論と近いといってもいい。誰もが表現文化の消費者であり、同時にその生産者でもある今日の時代にあって、限界芸術の重要性はますます高まっている。
「想像力」(英仏:imagination、独:Einbildungskraft)と同義。この単語はラテン系、ゲルマン系ともに「像(image、Bild)」という語を含んでいるため「想像力」と訳されるのが一般的だが、場合によっては「構想力」とも訳されてきた。 日本語の文献では三木清による未完の主著『構想力の論理』(1939)が有名であるが、三木を含め、哲学的な文脈で「構想力」という言葉が用いられる場合にはほぼ例外なくドイツの哲学者カント(1724-1804)の用法が念頭に置かれている。カントによる「構想力」の定義は、『純粋理性批判』の第1版(1781)、第2版(1787)のあいだで大きな相違があり、それをカント哲学の体系のなかにどのように位置づけるかという問題自体がしばしば論争の対象となっている。ひとつ特筆しておくべき事実としては、カントの「構想力」がいわゆる「空想」や「想像」とは区別されるという事実が挙げられる。カントは「構想力」を「再現的構想力」と「産出的構想力」に区別したが、単純化すれば前者は受動的、後者は能動的な構想力に対応する。「再現的構想力」は連想の法則にしたがって表象を結合し、「産出的構想力」は悟性の法則にしたがって表象を結合するという大きな相違こそあるが、両者はいずれも「対象が現前していなくとも、対象を直観のうちに表象する」能力として定義される。
「事ではなく物を描く」鶴岡政男 画家の鶴岡政男に由来する言葉。雑誌『美術批評』(1954年2月号)の「座談会『事』ではなく『物』を描くということ 国立近代美術館『抽象と幻想』展に際して」において発言された。その後さまざまに解釈され、日本の戦後美術の現場に大きな影響を与えた。この座談会は、1953年に東京国立近代美術館で催された「抽象と幻想」展をめぐって、美術家の小山田二郎、駒井哲郎、斎藤義重、杉全直、鶴岡政男によって行なわれたもの。ここでの議論は、本展の印象から西洋美術の影響と日本の現実の矛盾という論点を導き出すかたちで進められたが、鶴岡は日本の美術家たちが自分たちの現実に根ざすことないまま、西洋の前衛美術を取り入れる形式主義を批判しながら、次のように発言した。「日本の絵というものは、全体に物を描かないと思うのだよ。物を……。事を描いていると思うのだ。事は物でもっと表現されなければならないのに、物を忘れて事を描こうとしている。絵というものは、一番、物で表現しなければならないと思うのだ。カンバンの絵などは事です。絶体(ママ)に物が描かれていない。わかりやすくいえば、それと同じようなことですよ」。この発言は「大きな共鳴をよんで若い美術家の合言葉に」(針生一郎)なり、当時の読者に「状況を切り裂くような名言」(峯村敏明)として受け取られたといわれている。ところが鶴岡のいう「事」と「物」がそれぞれ何を示しているのか必ずしも明確でないことが、さまざまな解釈や憶測をもたらすことになった。たんなるマテリアリズムが賞揚されたり、「人間の部品化された状況の図解のような作品と、材質や既製品への新しい呪物崇拝の風潮が生じたのである」(針生一郎)。いずれにせよ、そうした誤解や混乱の要因のひとつとして「事ではなく物を描く」という、この座談会のタイトルがあるように思われる。なぜなら、鶴岡の真意は、その発言内容を吟味してみれば一目瞭然であるように、「事」の否定と「物」の肯定ではなく、後者によって前者を表現することにあるからだ。 PR |
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