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【2025/04/29 13:39 】 |
美術用語 4


『時のかたち ものの歴史についての覚え書き』ジョージ・クブラー
The Shape of Time: Remarks of the History of Things, George Kubler

美術作品だけではなく、人間によってつくられたあらゆる事物を対象とし、事物に内在する時間性の分析から美術史や考古学の方法論の再構築を図った美術史家ジョージ・クブラーの著作。刊行は1962年。クブラーは、事物にはそれぞれ固有の時間の連鎖があると見なすことで、従来の等質的な歴史観によっては捉えがたい時間の複数性や非同期的性質に注目した。クブラーによれば、異なる事物は異なる時間に属し、事物相互のつながりは「シークエンス」を形成し、それがそれ以上展開されえない状態になったとき、独立した「シリーズ」を形成する。このような立場から、従来の美術史(様式史)にはらまれていた単線的な展開――すなわち誕生、発展、衰退などの語彙によって語られる生物学的隠喩の予定調和が批判され、芸術作品とは、ある問題に対する「解」として現われるものであるとされる。また、一個の事物ですら、複数の異なる「系統年代(systematic age)」を備えた複合体であるとされ、クブラーは事物の各構成要素の多種多様な成り立ち=「時のかたち」の発見こそが歴史家の責務であると説いた。このようなクブラーの思考は、同時代のアメリカ美術にも波及した。たとえばR・スミッソンはクブラーを援用し、フォーマリズム批評の限界について指摘している。

 『動物化するポストモダン』東浩紀
Otaku: Japan’s Database Animals, Hiroki Azuma

作家・批評家の東浩紀(1971-)が2001年に刊行した著作。「データベース消費」や「動物化」といった概念を創出し、新書という体裁ながら後のオタク文化・サブカルチャー研究を切り拓く画期的な著作として広く受け入れられた。同書は大塚英志の『物語消費論』(1989)をはじめとする先行の国内言説の刷新を試みる一方、A・コジェーヴの「動物」「スノビズム」やS・ジジェクの「シニシズム」といった用語を援用しつつ、オタクという戦後日本に特有と思われた文化現象を広く世界史的に位置づけようとした二面的な戦略にその最大の特徴がある。現代美術ではひとり村上隆の作品が論じられるにとどまっているが、前述の「データベース消費」をはじめとする同書の作品受容や作品解釈の枠組みが、その後の制作や批評をめぐる動向に与えた影響は小さくない。2007年以降、同書は韓国語、仏語、英語などに翻訳されているほか、「動物化するポストモダン2」という副題を付された実質上の続編『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)も刊行されている。

ナイーヴ・アート/素朴派
Naïve Art

正式な美術教育を受けたことのない作家によって制作され、独学ゆえにかえって素朴さや独創性が際立つ作品をさす。ナイーヴ・アートの作家は、独学で手法や構成を学び、ほかの職業で生計を立てながら、個人的な楽しみとして制作している場合がほとんどである。近年では、75歳になってから農民や田園風景を描き始めたグランマ・モーゼス(アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス)が有名だが、それまで彼女は農業に従事していたという。ナイーヴ・アートの特徴としては、明るい色彩や具象的で緻密な描写、空間表現の平坦さなどが挙げられる。この動向は、20世紀初頭にピカソやルノアールをはじめするパリの芸術家が、税関に勤めながら展覧会に出品していたアンリ・ルソーの絵画を評価したところから始まった。そしてモダニズムの作家たちによる素朴な形態や様式の援用(プリミティヴィズム)や、抽象表現主義の発展とともに、ナイーヴ・アートは現代美術の動向のひとつとして認められるようになった。ほぼ同じ意の用語として「アウトサイダー・アート(英)」や「アール・ブリュ(仏)」がある。これは、狭義には精神病患者や囚人が生み出す作品を指す場合が多く、近年、ヘンリー・ダーガーが紹介されたことにより周知された。

ニューヨーク・ダダ
New York Dada

M・デュシャン、F・ピカビア、マン・レイを主要人物として1915年頃からニューヨークで展開した、ダダ的性格を持った活動。第一次大戦を逃れてニューヨークに渡ったデュシャンとピカビアが15年に再会し、同年にマン・レイがデュシャンと出会ったことに加え、デュシャンの作品のコレクターでもあったW・アレンズバーグが自邸のリヴィング・ルームを前衛芸術家や作家たちのためのサロンとして開放したことにより、さまざまな人物が交流を深めた。デュシャン、ピカビア、マン・レイはNYの近代的な都市空間のなかでオブジェクティヴかつ機械的な作用や連関を想起させる作風を加速させた。彼らの作品に触発され、アメリカの若い作家たちも機械的な絵画やオブジェを手がけた。「ダダ」としてのグループの形成はあくまで自然発生的なものであるが、ダダ的なユーモアや否定精神が、マス・プロダクションの原理や同時代的なテクノロジーの状況と結び付くことにより、独自の反芸術的傾向を醸成したのは確かである。その後デュシャン、マン・レイ、アレンズバーグがニューヨークを離れたことにより、21〜22年頃にグループの活動は終息へと向かった。

「人間と物質」展
“10th Tokyo Biennale: Between man and matter”

第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)。1970年5月から8月にかけて、東京都美術館を皮切りに京都市美術館、愛知県美術館、福岡市文化会館を巡回。ナショナリズムの競争舞台でもある国際展には当時、学生の反対運動で混乱した第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968)を契機に世界的な批判が高まっていた。これを背景に本展は開催年を本来の69年から1年延期し、企画構成のすべてをコミッショナー中原佑介に一任、国別参加制と受賞制度の廃止といった大幅な改革を断行した。1〜2作家に1部屋を与え、図録の構成も各作家に委ねるなど個人尊重の方式のもと、英タイトルが示す通り人間と物質の「関係」をテーマとした40作家による展示内容の大半は、もの派、アルテ・ポーヴェラ、コンセプチュアリズムの傾向で占められた。従来の「作品」観を裏切る素っ気ない様相は賛否の議論を呼び、赤字のため72年の国際展を休催する事態ともなったが、評価の定まっていない海外動向をいち早く紹介し、特にもの派の問題関心を明確化して国際的文脈に位置づけた展覧会として後年の評価が高い。国外作家の多くが来日して現場制作を行ない、その場に応じて作品を変化させるなど、美術館という場所や展覧会というメディアにも問いを投げかける実験性を帯びた展覧会でもあった。

 「ネット・ペインティング」草間彌生
“Net Painting”, Yayoi Kusama

現代美術家、草間彌生が1950年代末にニューヨークで発表した絵画のスタイル、および作品シリーズの呼称。「インフィニティ・ネット(Infinity Net)」あるいは「無限の網の目」とも呼ばれる。57年にシアトルを経由してニューヨークに移住した草間は、59年、抽象表現主義作家が集まったことで知られるマンハッタン10丁目のブラタ・ギャラリーで個展を行なう。このとき、黒を背景に、キャンヴァス全体に白い絵具で細かい弧を描き込み、白のウォッシュをかけた、5メートル近くになる大型絵画を5点発表する。反復される弧が網の目状に見えることから後に「ネット・ペインティング」と呼ばれるようになる。この作品はドナルド・ジャッドやドア・アシュトンら著名な評論家に注目され、草間はニューヨークでの活動の基盤を固めた。ただし「ネット・ペインティング」という呼称が最初に用いられるのは、草間の独自性が再評価されるようになった80年代末以降のことである。同じくよく知られる彼女の水玉(ポルカ・ドット)の絵画とは、ネガとポジの関係にあるとされ、両者とも草間の代表作となっている。作家によると、網の目のパターンは、彼女が幼少の頃より抱える精神障害や幻覚に由来し、そこには強迫的なくり返しの衝動をもたらす病理的な側面がある。だが他方で、同じ単位の均質なくり返しが同時代のポップ・アートやミニマリズムに見られる工業的な反復と比較されることもあり、美術史上の先見性や価値も認められてきた。さらに後年には渡米以前の日本画やシュルレアリスム要素の強い絵画の多くにも、網の目模様が見られることが指摘され、その起源や発展経緯は複合的だと考えられる。「ネット・ペインティング」に端を発する同じ形態の反復は、その後マカロニやステッカーといった既製品、布製のオブジェなどさまざまな要素で展開し、インスタレーションやパフォーマンスにも応用されるなど、これまで一貫して草間の制作の基本原理となっている。

ノイエ・ザッハリヒカイト/新即物主義(美術)
Neue Sachlichkeit(独)

1920年代から30年代初頭のドイツにおける、克明な形態描写と社会批判的なシニシズムを特徴とするリアリズム絵画の総称。23年にマンハイム美術館館長のG・F・ハルトラウプが執筆した展覧会の企画書でこの言葉が使用され、25年に開催される展覧会のタイトルとなった。グループとしてのまとまりはなく、それぞれの画家の個別的な活動に終始したが、人物の肖像をコミカルかつ醜悪にデフォルメして描いたG・グロッス、生々しい形態感の人物描写を行なったO・ディクス、頽廃的な都市生活をパノラマ的な群像表現で捉えたM・ベックマンなどの活動が知られる。その絵画様式は、ドイツ表現主義やベルリン・ダダが分かち持っていた社会批判的側面を受け継ぐように、第一次大戦後のドイツの政治体制・社会風俗への風刺性を持つ。だが、その厳密かつ冷徹な客観性を追求した表現には、同時代へのジャーナリスティックな眼差しともに、ドイツ表現主義の主観主義や抽象的傾向への反発が込められていた。しかし、ナチスの台頭によって新即物主義の作家たちのほとんどは公職を解かれ、ヴァイマル共和政の崩壊とともに活動の収縮を余儀なくされた。

ハプニング(美術)
Happening

主に1950年代後半から60年代を中心に行なわれた伝統的芸術形式や時間的秩序などを無視し、偶然性を尊重した演劇的出来事。この名称は59年、ニューヨークのルーベン画廊で開催されたアラン・カプローの《6つのパートからなる18のハプニング》に由来し、これはタイトルに「ハプニング」が使用された最初のイヴェントとなる。カプローは、間接的には未来派やダダイズムの影響を、直接的にはジャクソン・ポロックのアクション・ペインティング、作曲家ジョン・ケージの即興の概念などを背景としている。芸術家が行為者となって自然発生的な演技を行なう演劇的形式のため、非再現的で一回性が強い。あくまでもタイトルの一部であった「ハプニング」という言葉は、カプロー以降、そこにおいて繰り広げられたアクション(演技)そのものを指すようになり、芸術形式を表わす言葉として使用されるようになった。この芸術形式はアメリカ国内ではクレス・オルデンバーグ、ジム・ダイン、レッド・グルームズらに引き継がれ、またヨーロッパにおけるフルクサス、ドイツのヴォルフ・フォルステル、フランスのジャン=ジャック・ルベル、日本における具体美術協会(具体)などによってハプニングは新たな展開を提示することとなる。

「ハプニングとフルクサス」展
“Happening und Fluxus”(独)

ケルンのクンストフェラインにおいて1970年11月6日から翌年1月6日まで開催されたハプニングおよびフルクサスのイヴェントを中心とした展覧会。キュレーターはハラルド・ゼーマン。参加作家は、W・フォステル、A・ハンセン、R・ワッツ、G・ヘンドリックス、A・カプロー、H・ニッチなど。後年、ゼーマンは「パフォーマンスは展覧会に適さなかった」として同展の失敗を回顧したとも伝えられているが、ケルン当局からのクレームによる一部作品の撤去など物議を醸した展覧会ではあった。スキャンダラスなパフォーマンスのひとつには、たとえばウィーン・アクショニズムの作家O・ミュールが開催2日目に行なった全裸の男女数人によるパフォーマンス《マノサイコティック・バレエ》がある。もちろん過激さが前景化した作品ばかりではなく、スコアに基づき観客が参加する典型的なハプニング《木屑》(カプロー)などの作品も展覧会では体験できた。また、開催に際して出版された59年から70年までのハプニングおよびフルクサスに関する資料、印刷物、写真図版などが掲載された展覧会と同名のペーパーバック(ハンス・ゾームらの編集)は、同美術傾向の記録としても評価されている。近年の関連動向としては、同展のレトロスペクティヴ展「ハプニングとフルクサス ケルン・クンストフェライン1970」が映像系作家のM・オーデンバッハをキュレーターに招き入れ2007年にケルンで開催された。

反演劇性
Anti-Theatricality

批評家・美術史家マイケル・フリードが提示した批評概念。1967年に執筆された「芸術と客体性」で、フリードは、ミニマリズムの芸術を批判する目的で「演劇性」という概念を提示した。「反演劇性」とは、このテキストにおいて、「演劇性」の打破を目的とするモダニズム芸術の本質的な価値として登場するものである。ただし、フリードが「反演劇性」を本格的に取り上げるようになるのは、20世紀の美術を論じた美術批評ではなく、18世紀フランス絵画をそれと同時代のD・ディドロのテキストを通して考察した『没入と演劇性』(1980)、つまり美術史のフィールドにおいてであった。この研究でフリードは、これ見よがしに自らの姿態を観者に見せつける「演劇的」な絵画の克服に向けられる「反演劇的」な絵画的系譜を追究している。これらの「反演劇的」な絵画では、描かれた人々はその画面のなかで何かに没頭し、観者の存在が画中の人物によって意識されることはない。とはいえフリードは、この「演劇的/反演劇的」の対照関係はなんら確定的なものではなく、状況に応じて転回し変節するものであると断っている。後期ウィトゲンシュタインの影響から作品の置かれた歴史的文脈を重視するフリードは、C・グリーンバーグ流の本質主義を退け、演劇性と反演劇性の耐えざる係争のなかに近代絵画史を位置づけ直そうとするのである。2000年代に入りフリードは、現代美術や現代写真の本格的な批評的検証にも着手し、それらの作品にも繰り返し「反演劇」的伝統を見出している。

反芸術
Anti-Art

広義には20世紀前半に美術の伝統的価値の破壊を試みたダダの精神および方法を多かれ少なかれ継承し、1950年代半ばから60年代半ばにかけて各地で起きた美術の動向を指す。アメリカ合衆国のネオダダ、フランスのヌーヴォー・レアリスムに代表され、日用品、印刷物、がらくた、廃物を用いた制作など、既存の美術表現から逸脱しつつも非芸術ではない新たな芸術の創出が試みられた。日本においては、九州派、ゼロ次元、ネオ・ダダイズム・オルガナイザー、ハイレッド・センターなどが挙げられるが、彼/彼女らの多くにとっての活躍の場であった「読売アンデパンダン」展をきっかけとして「反芸術」という言葉が一般化した。すなわち、60年に開催された第12回の同展に対する批評のなかで東野芳明が工藤哲巳の作品を「ガラクタの反芸術」と名付けたことによる。そこで東野は「絵画とか彫刻の概念からすれば異質な素材をもってくることが、一種のヒステリックな反抗だったり、新しいものへの便乗だったりする意識が非常にあったわけだが、そのなかでやはりそれが自然的に、無理なく出てくる作家、たとえばいまの2、3人(工藤、篠原有司男、荒川修作)の中に出ているような気がするのだ」と反芸術を説明した。しかし、東野の意図を離れて、「反芸術=ヒステリックな反抗」といった負の意味で流布した側面もある。反芸術の展覧会という様相を呈していた「読売アンデパンダン」展も、63年には不快音、悪臭、腐敗をもたらす作品の禁止や展示方法の制限など規定を設け、翌64年には開催が中止された。同年には公開討論会「反芸術、是か非か」の開催や東野と宮川淳との間で「反芸術論争」も起きたが、それをもって「反芸術」の終焉と見なす向きもある。その解釈にもとづき、磯崎新は97年に「日本の夏1960-64 こうなったらやけくそだ!」(水戸芸術館)を企画監修した際、「反芸術」の時代をその5年に定めた。

反芸術論争
Debate on Anti-Art

1964年4~7月号の『美術手帖』において、宮川淳と東野芳明との間で交わされた「反芸術」を巡る誌上論争。まず宮川が、同年の公開討論会「反芸術、是か非か」を起点とし、その司会者であり、「反芸術」という言葉の生みの親でもある東野に問題提起した。宮川は、戦後抽象絵画の果てに反芸術が現われたとする東野の論は抽象/具象の二元論であり、また、反芸術の先駆としてのポップ・アートにおける「日常性の氾濫」についても単に外的環境の変化に伴う画題の変化という解釈に留まっていると批判した。そうではなく、ポップ・アートひいては反芸術における「日常性への下降が、『事実』の世界の復帰であるかに見えて、かえってレアリテの概念を空無化している」点が重要であり、そこにこそ「作家の唯一のアンガージュマンが賭けられるべき表現過程の自立」があると宮川は主張した。それに対して東野は、デ・クーニングとラウシェンバーグの間に抽象表現主義への単なる反動ではない弁証法的発展を指摘した事実は抽象/具象の二元論に陥っていないことを示しており、ポップ・アートの「逆説的なディスコミュニケーション」についても論じたはずだと反駁した。そして、むしろ《大ガラス》以降のデュシャンの「永遠の可能性」である沈黙と不制作のなかに「『反芸術』の根底的な姿」があると主張したが、宮川は、デュシャンの中に反芸術を永遠化するのではなく、デュシャンとの関係において反芸術を語るべきであり、ポップ・アートについても根本的な変化を捉えていないと異議を唱えた。また、デ・クーニングとラウシェンバーグの系譜学を抽象表現主義からの弁証法的発展に敷衍することも暴論だと東野の帰納的推論の脆弱性を指摘した。直接的には最後となる東野の応答では、宮川の個別的吟味の欠如が批判され、「まず個々の作家への具体的な思考のつみ重ねの末に普遍化が生まれ、また、その普遍的な概念の限界を、個々の作家の『特殊な』面がつきくずしてゆく」のが芸術あるいは反芸術の弁証法であるとして新旧の批評パラダイム間の論争は平行線のまま終焉した。

『反美学 ポストモダンの諸相』ハル・フォスター
The Anti-Aesthetic: Essays on Postmodern Culture, Hal Foster

批評家のハル・フォスターにより編まれた論文集。1983年出版。フォスターによる序文とポストモダン文化に関する全9編の論考を収録。各編で扱われている主題は建築、彫刻、絵画、写真、音楽、映画、文学、政治など多岐にわたり、あらゆる領域にまたがるモダニズムおよびポストモダニズムの諸問題を包括的かつ批判的に検証した評論集として広く読まれている。本書の主眼はポストモダン文化をさまざまな角度から考察することによって、その複雑性を提示することに置かれている。フォスターは資本主義社会下の文化を短絡的に肯定するためにモダニズムを闇雲に拒絶する立場を「反動(reacition)のポストモダニズム」として批判。それに対するものとして、閉塞的な状況の打開を目的としてモダニズムを積極的に脱構築していく「抵抗(resistance)のポストモダニズム」の実践を提唱する。序文に続くユルゲン・ハーバーマス「近代――未完のプロジェクト」では失効したかに思われたモダニズムの更なる可能性が再考されるが、後に連なる論考はいずれも各領域における「抵抗」の実践例を示したものだ。近代建築におけるユートピア主義の破局を取り上げたケネス・フランプトンや、近代的男性支配への批判としてフェミニズムを捉えたクレイグ・オーウェンスは、絶えざる進歩を前提とした近代の失墜を明らかにする。美術界ではモダニズムの断絶が起こり、その影響は、ロザリンド・クラウスが論じた彫刻理論の解体や、ダグラス・クリンプが言及した美術館という近代的制度の崩壊に現われている。文化批評を扱ったものには、グレゴリー・L・ウルマーとエドワード・W・サイードの論考がある。また、フレドリック・ジェイムソンはポストモダン文化に共通する特徴をパスティーシュや分裂症といった概念を用いて論じ、ジャン・ボードリヤールは資本主義社会下の新たな時間と空間の様態を描き出している。

反復
Repetition

同一パターンの繰り返しは、デザインの分野では装飾への応用として長い歴史をもつが、芸術においては20世紀以降、印刷技術や工業技術の発達に伴い、ポップ・アートのシルクスクリーンによる複製作品や、ミニマル・アートの単一の構成要素が反復される構造をもつ立体などに認められる。特に反復については、構造主義以後のポストモダンにおける芸術作品の置かれた状況を分析するための有効なキー概念として認識されることとなった。アンディ・ウォーホルによるキャンベル・スープ缶の作品に代表される日常的なイメージの過剰な反復は、マーシャル・マクルーハンのメディア論との共犯関係にありながら、思想家のジャン・ボードリヤールが提示したシミュラークルのごとく、記号的操作によってイメージそのものを匿名的かつオリジナリティを喪失したコピーへと変質させている。また、ロザリンド・クラウスは1985年に出版された論文集『オリジナリティと反復』で、美術作品の条件をフォーマリズム的な価値判断から作品の構造の解明へと転換させる目的のもと、美術史において神話化された作者や作品のオリジナリティに、作品の複数性、反復の概念を導入することで、それらの二重化した関係を分析している。そこでは、絵画の平面性における「グリッド」の形象に、オリジナリティと反復との二重化を見出し、クレメント・グリーンバーグの還元主義的なモダニズムを、神話的なカテゴリーを崩壊させることで批判している。

『パフォーマンス:未来派から現在まで』ローズリー・ゴールドバーグ
Performance: Live Art 1909 to the present, RoseLee Goldberg

未来派の活動を源泉として現在までのパフォーマンスの系譜を概観した、美術史家・批評家のローズリー・ゴールドバーグの1979年の著書。2度の改訂を経て、2001年版では最新の動向の記述が盛り込まれた。本書は、狭義の舞台美術であるダンスや演劇に限らず、ハプニング、イヴェントなどのすべての身体表現を「パフォーマンス」として総括するものであり、戦後アート・シーンの身体表現における芸術(美術)概念の拡張を受け、インターメディア的な現象を未来派やダダ、シュルレアリスムなどの前衛芸術に遡って検証したものといえる。20世紀初頭から30年代における芸術活動は、パフォーマンスから開始されたという主張がゴールドバーグに一貫する論旨であり、最新版の序文においても、パフォーマンスこそが既存の表現形態の区分を破壊し、新たな方向性を指し示す「前-前衛(avant avant garde)」的活動であったと述べられている。むろんこのような見解はやや極論であるというべきだが、文学や美術など、ジャンルの複合性を兼ね備えた前衛芸術運動が、パフォーマンスという無形の表現によって初めて実態のある活動へと媒介されたという視点は重要だろう。中原佑介による邦訳がある。

表現主義(美術)
Expressionismus(独), Expressionism(英)

広義には、グリューネバルト、アルトドルファー、デューラーなどのドイツ・ルネサンス絵画、あるいはゴッホやムンクらの近代絵画に至るまで、非自然主義的な描写によって、内面的な感情表出や主観的な意識過程を外的な世界観の歪みによって強調するような芸術の傾向のこと。もちろん、「内面」や「意識」が外的形式へと表出可能になるような近代的体制が表現主義の概念を準備したとも言える(20世紀初頭には、北方ルネサンスの再評価が美術史家H・ヴェルフリンらによって進められた)。20世紀半ば以降には、「抽象表現主義」や「新表現主義」などと呼ばれる潮流も生まれた。表現主義の語は建築、音楽、舞踊、文学などの領域でも使用されるが、狭義には、20世紀初頭のヨーロッパで生じたフォーヴィズムから「ブリュッケ(橋)」や「青騎士(ブラウエ・ライター)」の活動へと至る一連の流れを指すことが多い。デア・シュトゥルム画廊が発刊した同名の雑誌で、1911年に表現主義の概念がより限定的にドイツを中心とした当時の芸術動向を表わすものとして使用されたのが初期の使用例である。そのため、時代的には、それ以前の印象派やポスト印象派とは逆の語義(Impressionismに対するExpressionism)を持つことが意識されていたことになる。05年には、固有色を無視した強烈な色彩と筆触によって後の抽象絵画の展開に繋がる絵画的実験を行なったブリュッケがドイツのドレスデンで結成された。ブリュッケの中心的画家E・L・キルヒナーは、ベルリンの街を遊歩する人々を対象として、都市社会の神経的な刺激作用を表現主義的な様式で描き出したが、彼らはほかにもパラオ諸島の彫刻、中世ドイツの木版画、アフリカ・オセアニア美術、エトルスク美術などの土俗的・原始的な文化様式を「発見」し、それらを現代生活の感情的・精神的形式と通底させようとした。このように、原始性において来るべき民衆の姿を(再)発見するという過程は、エジプトや東洋の芸術、民俗芸術、児童画を年刊誌『青騎士』で紹介した「青騎士」(1911年結成)にも通じるものである。ところで、青騎士で活動したW・カンディンスキー、P・クレー、L・ファイニンガーは後にバウハウスの講師に迎えられており、またクレーやファイニンガーの描き出すプリズム状に色調が変化する画面はドイツの建築家B・タウトの「ガラス建築」のヴィジョンに通じるものだった。加えて、バウハウスの初代校長であるW・グロピウスは、初期にはタウトの影響下に表現主義建築を手がけていたことから、合理的主義的・機能主義的方法によって開かれた文化的実践の拠点となったバウハウスの根底には、表現主義の潮流が深い影を落としていたと考えられる。

表現主義論争
Expressionismus-Diskussion(独)

1937年から38年にかけて、モスクワで発行されていた亡命知識人たちの文化誌『ダス・ヴォルト』を中心として起こった論争。ナチス・ドイツに対する国際的なファシズム闘争のさなかに、ヨーロッパとロシアの各地で亡命生活を送る多数のドイツの文学者・芸術家を巻き込む論争に発展した。この論争は、表現主義文学の代表的詩人ゴットフリート・ベンが公然とヒトラー・ファシズムを支持するに至り、ベンを批判するクラウス・マンらによる文章が『ダス・ヴォルト』に掲載されたことを発端とする。その後、表現主義を擁護する論陣と、表現主義にはらまれていた政治性がファシズムを準備したとして批判する論陣とに分裂し、熾烈な論争が展開された。この論争に参加した主要人物にはエルンスト・ブロッホやジョルジ・ルカーチらがいる。民衆的リアリズムの立場から、表現主義の無媒介的な直接性と形式主義を批判したルカーチに対し、ブロッホは、F・マルクやA・マッケらの「青騎士」では、土俗的・民衆的な文化の再発見が行なわれ、民衆性が前衛芸術との接触において回復されたのだとする文脈から表現主義を擁護した。結局この論争は、反ファシズム闘争を内部から二分しかねないことを憂慮した同誌の編集委員で劇作家のベルトルト・ブレヒトが論争に関わる文章の掲載の打ち切りを決定したことにより終着を迎えた。

ビオトープ
Biotope

生物の生息環境のこと。ギリシャ語の「bios(生)」と「topos(場)」の合成から生まれたドイツ語の単語「Biotop」に由来し、英語でも「biotope」という同系統の単語が広く用いられている。生物学における「ビオトープ」の概念は、動物地理学者フリードリヒ・ダールの論文「生物群集研究の諸原則と基本概念」(1908)および著書『生態学的動物地理学の基礎』(1921/23)に由来する(「ビオトープ」概念がドイツの生物学者E・ヘッケルの『有機体の一般形態学』[1866]に起源を有するという説が一般に流布しているが、これは2008年の佐藤恵子[東海大学教授、生物学史]の論文によって否定されている)。多くの動植物が共存する複雑な環境の総体を指すのがいわゆる「生態系(ecosystem)」だとすれば、「ビオトープ」とはある生物が持続的に生息できる最小単位に相当するものであると言えよう。ここから転じて、現在では自然にあらかじめ存在する種々の生物の生息環境のみならず、人工的に作られた生物環境もしばしば同じく「ビオトープ」と呼ばれる。とりわけ20世紀後半に顕著になった環境保全に対する意識の高まりによって、ビオトープは狭義の「生物の生息環境」という意味を遥かに越えて、ホタルやトンボの生息環境の保護や回復を訴える環境倫理および市民運動へと広がっている。また、「生物が持続的に生息可能な環境」というビオトープの拡張的な用例は、人間の経験や行動様式を周囲環境との関わりにおいて考察するメディア研究やアフォーダンス研究にしばしば見られるものでもある。

ファウンド・オブジェ
Found-object

「見出された対象」。端的に言えば、いちど何らかの目的のもとに使用された「物」のことであり、より限定的に言えば、そのなかでも芸術作品を構成する要素として流用・転用された「物」を意味する。「ファウンド」という英語と「オブジェ」という仏語の奇妙な接合が示唆するように、この言葉はダダやシュルレアリスムにおける「オブジェ(物、対象)」を用いた制作実践と深く結びついている。実際、ファウンド・オブジェの典型的な例としてしばしば挙げられるのは、シュルレアリスムのコラージュや、クルト・シュヴィッタースの「メルツ」シリーズにおける日用品や廃棄物である。同時に、先の定義上、一般的なコラージュ作品における素材(新聞や雑誌の切り抜き)、M・デュシャンのレディ・メイド作品(《泉》における便器)、もの派において使用される物体(石や木材)も、広義のファウンド・オブジェに含めることが可能だろう。後者の定義をとれば、川俣正や大竹伸朗の作品をはじめとして、ファウンド・オブジェによって構成される作品は今日枚挙に暇がない。冒頭で記したように、本来ファウンド・オブジェという言葉は、特定の機能(使用価値)を持った物体が芸術としての機能(美的価値)を付与されたときに用いられるものであった。しかし、1960年代以降の流用、転用、シミュレーションをはじめとする新たな制作原理が明らかにしたように、そもそも「使用価値」と「美的価値」という分類自体が実は極めて曖昧なものである。したがって今日この概念について問われるべきは、当初のダダ、シュルレアリスムの含意を超えて、「見出された(found)」「対象(object)」という言葉の外縁をいかに定めるかという問題であると言えるだろう。

ファクトゥーラ
Faktura

絵画やレリーフの表面処理または表面効果のこと。特にロシア・アヴァンギャルドやロシア構成主義の段階的な発展のなかで、芸術作品の構成要素である素材固有の特性や基本的な諸ファクターが重視されはじめ、ガラスや鉄などのモダンな素材への関心の高まりなどとともに、絵画における色彩/テクスチャー/平面性などの構成要素を「現実」の対象として扱おうとする美学的な議論が、ファクトゥーラの概念形成に働きかけることになった。早くとも1912年にD・ブルリュークが「ファクトゥーラ」というテキストを発表し、13年にはM・ラリオーノフが「光線主義者宣言」で「絵画の本質」を形成するものとして色彩の相互関係などとともにファクトゥーラを挙げ、自身も絵画表面の物質性を強調した作品を手がけた。さらに14年にはV・マルコフが小冊子『造形芸術における創造原理―ファクトゥーラ』において幅広い立場からこの概念の理論的考察を行なったほか、マレーヴィチも自身の文章のなかで、セザンヌを新たなファクトゥーラを開発した画家として取り上げるなど、1910年代のロシア・アヴァンギャルドの芸術的/技術的革新を支えた概念のひとつである。

フォーマリズム
Formalism

作品の形式的諸要素(線、形態、色彩など)を重視する美学的な方法のこと。美術作品独自の物質的な条件に関わり、その視覚的特性へと偏向することで、他ジャンルからの弁別と美術作品の史的展開の自律性・連続性がしばしば強調される。古くはK・フィードラーの純粋可視性の議論やH・ヴェルフリンらの美術様式論、ブルームズベリー・グループのC・ベルとR・フライの批評理論などがあり、ニューヨーク近代美術館の館長を務めたアルフレッド・バーJrの自律的な抽象芸術の系統的・発展史的理解やC・グリーンバーグによるメディウムの純化と戦後アメリカ美術の擁護、M・フリードのメディウム・スペシフィックな議論などが登場し、美術史のみならず、現代美術の批評と実作の双方にも大きな影響力を及ぼした。フォーマリズムに関しては、誕生、発展、衰退などの擬生物学的なメタファーから美術の線的かつ統一的な展開を暗黙裡に前提とする様式史的立場や、内容に対して形式を重視する側面、政治的、社会的、倫理的コンテクストの排除などが問題視される。また、80年代以降は、記号論的な作品分析などによって反形式主義的なメディウム・スペシフィシティを開拓しようとするR・E・クラウスや、構造主義的な方法論の導入によるフォーマリズムの刷新を目論むY・A・ボワの登場によって、その方法論自体が批判的な検討の対象になった。フォーマリズムを乗り超えようとする彼らの批評的企図は、美術批評の新たな理論的展開に寄与している。

フォーヴィスム
Fauvisme(仏)

「フォーヴィスム(野獣派)」は20世紀初頭の絵画運動のひとつである。1905年、パリで開催されたサロン・ドートンヌの一室は、若い画家たちによる激しい色彩表現が特徴的な絵画で埋め尽くされた。「フォーヴィスム」という名は、これを見た美術批評家のルイ・ヴォークセルが「野獣(フォーヴ、fauve)の檻の中にいるようだ」と発したことに由来する。主要メンバーは、エコール・デ・ボザールでギュスターヴ・モローに学んだアンリ・マティス、アルベール・マルケ、ジョルジュ・ルオー、そしてセーヌ河畔に共同アトリエを構えていたアンドレ・ドランとモーリス・ド・ヴラマンクなどであった。後には、ラウル・デュフィやジョルジュ・ブラック、そしてオランダ出身のキース・ヴァン・ドンゲンなどが加わった。彼らは、ポスト印象主義や新印象主義の画家たちから影響を受けたが、主に激しい色彩表現や原色の使用については、ポール・ゴーギャンとヴィンセント・ヴァン・ゴッホから学び、色彩理論についてはジョルジュ・スーラやポール・シニャックから学んだ。その結果、色彩がもつ表現力を重視するようになり、絵画の再現的、写実的役割に従属するものとしてではなく、感覚に直接的に働きかける表現手段として色彩を用いた。しかし、このような色彩主義の時代は長くは続かず、マティスこそ明快で豊かな色彩を生かした独自の表現を貫いたが、08年頃から次第にブラックはキュビスムへ、ドランとヴラマンクはセザンヌの影響から構成の世界へとそれぞれ関心が移行した。

フルクサス
Fluxus

1960年代前半にリトアニア系アメリカ人の美術家ジョージ・マチューナスが主導し、世界的な展開をみせた芸術運動、またグループを指す。日本では靉嘔、一柳慧、オノ・ヨーコ、小杉武久、塩見允枝子、刀根靖尚らが参加。63年のマチューナスによるマニフェストでは、ヨーロッパを中心とした伝統的な芸術に対抗する前衛的性質を掲げながらも、フルクサスの語源がラテン語で「流れる、なびく、変化する、下剤をかける」など多様な意味をもつように、流動、変化という点において厳密な定義が避けられた。
マチューナスが61年にニューヨークのマディソン・アヴェニューにオープンしたA/Gギャラリーでのイヴェントや、62-63年に西ドイツのヴィースバーデン市立美術館で企画された「フルクサス国際現代音楽祭」(その後、ヨーロッパ各地に巡回)が、フルクサスの初期の活動とされている。63年以降は、ニューヨークでのマチューナスによる名簿の作成といったグループの組織化、また新聞の発行やマルティプルの「フルックス・キット」の制作など、共同体としてのフルクサスを目指すプロデューサーとしての「具体主義」、「機能主義」的な活動が顕著となり、その活動は78年の死去まで継続された。フルクサスには、50年代のニュー・スクールでのJ・ケージの音楽や理論の影響が見られる。また美術家、音楽家、作家、舞踏家によるインターメディアという特徴を持ち、ケージやA・カプローらによって展開された非再現的で一回性の強い「ハプニング」とは異なる、スコアに基づいた日常的行為が「イヴェント」として実践された。

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【2012/10/10 11:08 】 | data | 有り難いご意見(0)
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