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------------------------------ (注2) 『知識学への第2序論』(1797年)、SW版フィヒテ全集、第1巻、462ページ。 (戻る)
(注3) そこでこの「意識」は、現代的に解釈すれば、現象主義者のいう現象に近いものとして――つまり、「主観」「客観」「意識」等といったものをカッコに入れての、現れるがままの現象として――、あるいはそれらの現象が現れてくる現象野として、理解できる場合も多いです。
(注4)『幸いなる生への導き』(1806年)の「第5講」を参照。 (注5)『幸いなる生への導き』SW版では第5巻、513-514ページ。 (戻る) (注6) 同、512ページ。(戻る) (注7) シェリング『先験的観念論の体系』、オリジナル版 (1800年)では、90ページ。(戻る) (注8) シェリング『自然哲学の体系の最初の構想』(1799年)、シュレーター編全集、第2巻、15ページ。(戻る) (注9) 同、5ページ。(戻る)
(注10) シェリング『先験的観念論の体系』第3章「序言」。オリジナル版では、80-81ページ。該当箇所だけの引用では分かりづらいので、「序言」の最初から訳出すると: けれどもこの活動の全内容を見出すためには、この活動を区分して個々の諸活動へと、いわば細分化しなければならないといえよう。これら個々の活動は、前述の一つの絶対的総合 [=活動] の媒介的な諸成分 [Glieder] となろう。 全部まとまってある状態のそれら個々の活動から、私たちが継続的に [Sukzessiv] 私たちの眼前にいわば生じさせるのは、個々の活動すべてを包括する一つの絶対的総合によって、同時かつ一時に措定されているものである。
このような導出をする仕方は、以下のとおりである: (注12)『精神の現象学』「序文」(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第3巻、23ページ)(戻る)
(注13) ヘーゲルはこの考えを、アカデミックな哲学シーンに最初に登場したときから、持っていたと思われます。1801年、31才のヘーゲルは、イェナ大学で教える資格をえるために、12条からなる『教授資格討論提題 H A bilit A tionsthesen』を、提出します。その提題第1条が、有名な次のようなものでした: (注14)ただし、このようなフィヒテからヘーゲルへの進展は、思想史的に見ればということであって、現実に『幸いなる生への導き』がヘーゲルに影響を与えたかどうかとは、一応別問題です。とはいえ私見では、現実の影響の可能性もあると思います。この点については、拙稿「『精神の現象学』成立における、フィヒテ「5世界観」の影響の可能性」を参照下さい。(戻る)
(注15) 『世界の名著 43 フィヒテ シェリング』中央公論社(1980年)では、427-428 ページ。Über das Wesen der menschlichen Freiheit, SW, Bd. VII, S. 358 f. (注16) Urfassung der Philosophie der Offenbarung, Felix Meiner Verl A g, 1992, S. 7.(戻る) (注17) 「全体者の諸契機は、意識の諸形態である」。(『精神の現象学』緒論(Einleitung)、Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第3巻、80ページ)(戻る) (注18) 『超越論的観念論の体系』、1800年の Original A usgabe, VIII-IX ページ。(戻る)
(注19) 「多数の生命 [個別者] が、[互いに] 対置している。これら多数の一つの部分は(この一つの部分そのものがまた、無限に多くのものより成っている。というのもそれは生あるものだから)、その存在を [それらから成りたっているところの無限に多くのものの] ただ統合としてもつのであり、関係のうちでのみ考察される。 (注20) なおここでの B, C, …は、『精神の現象学』においての「このもの」「物」…に該当することはもちろん、例えば『論理学』での「有」「無」…などにも該当します。といいますのは、論理の領域においては、すべてはまず「有」であり、ついでそのすべては「無」となり、…と展開していくためです。むろん「無」となっても、先行する「有」が否定態として保存されているため、まったく消失してしまうのではありません。(戻る)
(注21) K. ローゼンクランツ『ヘーゲル伝』、中埜肇訳、みすず書房(1991年)では、183ページ。1844 年の初版では、S. 201.
けれどもこの限りでは、シェリングの反論が正しいとはいえ、ヘーゲルの真意を忖度(そんたく)すれば、直観が直接知なのに対し(むろん豊かな内容を持ちえますが)、ヘーゲル的概念は媒介知(自らを媒介する)だと言えます。この意味で直観とヘーゲル的概念は異なる、としなければ、ヘーゲル哲学が成立しないことになります。 なお、シェリングの同一哲学が「すべての牛が黒い夜」ではないことは――むしろ世上ヘーゲルの思想だとして紹介されるものと、そっくり(!)なことは――、以下の引用文が示すとおりです。少し長くなりますが、1806 年のシェリングの著作『改訂されたフィヒテの説と、自然哲学との真実な関係の説明』の一節です:
「理性に見捨てられた単なる悟性が、自ら自身を超え出ようとし、制限と対立から抜け出ようとするとき、この悟性が達する最高のものは、対立の否定である。すなわち空虚で非創造的な統一である。この統一は、その反対物をたんに神聖ではないもの、神的ではないものとしてしか措定できず、また排斥することしかできない。その反対物を自ら自身のうちに受け入れて、自身と真に融和させる(versöhnen)ことはできないのである。
(注22) 「絶対的な全体性は・・・」ではじまり、編集者によって『体系のための1ページ』と題された草稿中に、次の2段落があります:
(注23) 止揚される個別者が、観念的であることについては、例えば、
(注24) フィヒテにおいては、神と自我の両者が存在において通底はしています。例えば: (注25) 『超越論的観念論の体系』、1800年の Origin A l A usg A be、IX ページ。(戻る)
(注26) 2 人の観念論にそれぞれ「主観的」「客観的」という形容句を与えた嚆矢は、おそらくシェリング自身だと思われます: (注27)『知識学の概念について』(1794年), SW, Bd. I, S.59. (注28) シェリング自身は、フィヒテ知識学との違いをどのように考えていたのかということですが、端的には次の文言が表していると思います。自然哲学についての諸論文を発表し、主著の一つである『超越論的観念論の体系』をも著した直後に、フィヒテ宛の手紙(1800年11月19日付け))でシェリングが述べたものです:
「[フィヒテならびにシェリングの] 超越論哲学と [シェリング独自の] 自然哲学の対照(Gegens A tz)が、眼目となります。私は貴方に次の点だけは、確言できます:私がこの対照をもちだす理由は、[超越論的観念論に関すると思われている] 観念的活動と、[自然哲学に関すると思われている] 実在的活動を区別するためではなく、それよりは高次なことのためです。・・・
(注29)シェリングは、この点を強く意識し、フィヒテに主張してもいました: カントを含めない理由は?
私たちとしては、次のように用語を使い分けたいと思います:
フィヒテら3人の哲学は、「① ドイツ観念論とは?」で述べましたようにメタ世界観をとりますから、3項図式に立つカント哲学とはまったく異なります。実際、フィヒテはカント哲学を基礎づけようとして、知識学を著したのであり、カントを発展・詳述しようとしたのではありません。基礎づけるものは、基礎づけられるものとは次元を異にせざるをえません。(注3)
ところで簡単な哲学史では、カントの次にはヘーゲルが紹介され、両者が対比されます。フィヒテとシェリングは飛ばされがちです。そしてヘーゲルの重要概念である「矛盾」なども、カントの著作に淵源するかのように説かれます。これでは、ドイツ文化史としてはいいのかもしれませんが、たとえ簡略化されたものにせよ、哲学史としてはおかしいのです。
カント哲学に対する態度は、フィヒテの場合は上述したようなことであり、さらに、カントの精神は継承するが、彼の著作の字句は引き継がない、この点では世間のカント学者と反対であると、彼は考えていました。
------------------------------ (注2)こうした事情を窺わせるものとしては、シェリングがカントの逝去に際して書いた『イマヌエル・カント』(1804)があります。いろいろな意味で興味深いオマージュとなっています。 (戻る)
(注3)フィヒテ自身の言葉では: カントからフィヒテへの進展の経緯は?
カントに心酔していたフィヒテが、1794年に自らの哲学「知識学」を形成するまでの、思想的な道筋をこれから検討します。しかし、カントの『純粋理性批判』(1781)から『全知識学の基礎』までの、ドイツ思想界の全体的な状況を説明することは、私の手に余りますし、またここでは必要ないでしょう(注1)。
(1) カント哲学の非原理性
ふつう、「カントの哲学では、理論理性と実践理性が分裂していたのを、フィヒテが統一しようとした」などと、紹介されます。でもこれでは、カントの理論理性はそのものとしては、十分であったかのようです。しかしカント哲学の薫陶を受けはしても、若い世代から見れば、それは理論理性自体としても学問的に問題をはらんでいたのです。したがって事態は、もっと深刻でした。 PR |
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ドイツ観念論が理解されにくいのは、その発想があまりに奇抜だったせいだと思います。ようやく最近にいたって、理解できる客観的状況ができてきました:
しかし、ドイツ観念論はヘーゲル左派やマルクスによって克服されてしまった哲学ではないか、との疑念がとうぜん浮かびます。これに対しては、次のように考えたいと思います:
------------------------------
「自然哲学(N A turphilosophie)は・・・自然を自立的なものとして措定する。・・・超越論的哲学が [与えることができるような、自然についての] 観念論的な説明の仕方は・・・自然哲学においては行われない。そのような説明の仕方は、自然学(Physik)や自然学と同じ立場に立つ私たちの学問 [=自然哲学] にとっては、意味のないものである。それは丁度、かつての目的論的な説明の仕方や、普遍的な目的原因を、それらによって歪められた自然科学(N A turwissensch A ft)に導入することと、同じなのである。
そしてシェリングが行った議論は、当時としては最先端のものであり、ゲーテやシラーの賛辞を得たといわれます(『先験的観念論の体系』蒼樹社、昭和23年、赤松元通氏の解説480ページ)。 (注2)『エンチクロペディー』、42 節の補遺 1。(戻る) (注3)過去の偉大な思想を、現代において解釈しなおすとは?→参照 (戻る)
(注4) 廣松渉氏の代表的著作である『存在と意味』、および『世界の共同主観的存在構造』を見ても、およそ根源的運動(いわゆる弁証法的運動など)は登場しません。むろんこのことを以って、すぐさま氏の哲学の欠点とするのは、無体というものでしょう。それに、氏の意想を忖度すれば―― しかしながら、上記のような氏の意想(?)を承認するとしても、私たちの立場からすれば、抽象的端緒において根源的運動はどのような表現をとるのか、ということが説かれなければならなかったと思います。それは氏の論述に即せば、「反省」においてです(『存在と意味』1982年、138頁から)。ここでの氏の議論は秀逸なものですが、しかし、141 頁にあるように、 反省によって加わるとふつう考えられている "自己意識" は、その場のたんなる「パースペクティブな布置の覚識・・・に他ならない」とされます。つまり氏によっては、"自己意識" 以前と以後との質的相違が――すなわち、私たちの観点からすれば根源的運動の引き起こす相違が――、説かれません。氏の用いた例を援用して説明すると:
「映画に熱中していてハッと我に返った場面を想定されたい。スクリーンの範囲だけで比較すれば、対象的意識内容には別段変化がないように思える。しかし、今では、それまで見えていなかったスクリーンの両袖、観客席、・・・それにこの ”身体” も意識野内に登場している。対象的意識野に明らかな変化が見られるのである。・・・
氏のこうした主張は正しいにしても、しかし私たちとしては、「ハッと我に返る」以前には映画の世界に没入していたのに、以後は日常世界に戻っている、という重要な相違を指摘したいわけです。(この論点については、拙稿『多世界の生成と構造』の第1章を参観下さい)。
(注5) 他方では例えば岸駒(がんく)のように、高位に昇り、財をなし、長寿をえても、今日では専門家と好事家の注意を引くにとどまる人もいます。私もはじめて彼の若い時の絵に接したときは、そのセンス、技術、そして覇気を目にして、「すごい」と感嘆したものです。しかし、今から思えば、画中の人物が、今ひとつ面白くなかったようです。水墨画の人物像には、画家の志や人生観が現われやすいだけに、今となっては「やはり・・・」と納得するのですが、後知恵というものでしょうか。 3人のそれぞれの特色は? まずよく言われる、フィヒテ「主観的観念論」、シェリング「客観的観念論」(注26)、ヘーゲル「絶対的観念論」という特徴づけは、公民・倫理的な知識としてならともかく、哲学的にはあまり意味があるとは思えません。といいますのは、主観的とされるフィヒテにせよ:
1) 彼の自我には「実在性の絶対的な総体が帰属する」(注1)のですから、その自我を主観的と見なすのは早計です。 というわけで、最初のフィヒテを小さく「主観的」とし、それを段々と拡大深化ないし無条件化していったのが、シェリングの「客観的」(注28)およびヘーゲルの「絶対的」だとする見方は、私たちはとりません。むしろ、「①ドイツ観念論とは?」の(2)で述べましたように、3人ともメタ世界論者であってみれば、、彼らの特色はそれぞれにおけるメタ化のありようの違いに、以下求めていきたいと思います。
● フィヒテでは: ただし、体系をなす知識学の叙述は、「循環(Kreislauf)」をすると主張します。「私たちが出発したところの原理が、最終の結果ともなる」わけです(注27)。
● シェリングでは:
さらにシェリングは、こうした産出の論理を、絶対者の自然の側面を扱う自然哲学から、絶対者の知性(das Intelligente)の側面を扱う観念論哲学にも及ぼします。すこし長くなりますが、有名な『超越論的観念論の体系』(1800年)から引用しますと:
つまり私たちの観点からすれば、C, D 以下のメタ世界が、それら以前の個別的諸世界から生じるようになったと言えます。とはいえ、C, D 以下が何によって生じるのかといえば、それは絶対者 A のもつ諸ポテンツ(量的差異のある勢位)が現実化することによってです。つまり、絶対者の規定性(ポテンツ)から直接にC, D 以下が生じています。(絶対者の規定性そのものは、私たちの経験的世界には現れません。この点では、カント以来の超越論的観念論の枠内にあるとも、言えます)。
ところで、後期のシェリングにおいても、上記のような論理構成は変わっていません。例えば、 A が自己措定して現実的存在である B が生じるという論理は、『人間の自由の本質』(1809年)においては、世界(超越論的観念論と自然哲学の扱う対象)にのみならず、なんと神にも適用されています。(注24) 根拠としての神、すなわち神のうちの自然( A )が、存在(Existenz)としての神(B)を産出するのです(注15)。
● ヘーゲルでは:
そして、ヘーゲルにあっても全体者である一者のもつ諸契機は個別的な(全体者に対して)諸形態ですが、しかしそれらは1つの循環運動をすることになります。そこにおいては、ヘーゲル哲学を構成している論理学、(形而上学)、自然哲学などの諸分野が、並置されずに、1つの循環過程に置かれているのです。そのような構図はすでに、1801/02 年の講義草稿において取られていますが、前記の分野に加えてさらに精神哲学と宗教・芸術が増設されています。 ところで個別者の自己矛盾という観点から、フィヒテの『幸いなる生への導き』第5講義に見られるような諸世界観を展開するとき、『精神の現象学』が誕生することになります。(注14)
しかし、それでは絶対的全体者の A が必要ないかといえばそうではなく、個別者 B, C, D, ・・・は A から存在性を与えられているとする点では、フィヒテやシェリングと同様です。そして、各個別者における自己矛盾とは、私たちから見るとき、それぞれが持つ個別者の契機と、全体者の契機の矛盾にほかなりません。あるいは、個別的契機どうしの矛盾も、全体者のうちにおいて生じているのです。
なお、はやくも1800年には個別者の存在を、関係態に帰しているのが注目されます(注19)。そして、1804年に書かれたとされる草稿では、構成諸要素(Glieder)とそれらの間の諸関係とは、等しいとされています(注22)。 |
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出典
フィヒテが、「自我は、みずからを措定する」と主張したとき(1794年)にはじまった世界観で、
(2) フィヒテの自我(1) 基本的な発想
(しかし注意したいのは、上記の措定する自我は、経験に直接現れることはないということです (注1)。といっても、想像上のもので、仮定されたものでしかないというのではありません。
(2) 私たちの現代的理解
身近な例をとれば、言語学でいうメタ言語の「メタ」(「超える」とか「上位の」という意味のギリシア語から)が、自己措定にあたると思われます――つまり、フィヒテなどが自己措定を発想する仕方は、私たちのメタ言語の見方と似ています。メタ言語というのは、「対象 [例えば、"木" や "愛情" など諸々の事柄] について述べる言語を対象言語(object language)というのに対して、対象言語の表現内容について述べる言語。高次言語」(広辞苑)のことですが、簡単に言えば、言語自身を対象として述べる言語です。
ところで、B はどこから生じたのかといえば、 A の日本語からです。あたかも言語的意味性すべてを有する(――日本語話者にとっては) A が、みずからを措定して B になり、自らに対している(für sich, 対自)かのようです。
そこで私たちは、ドイツ観念論を現代哲学の立場から見るときには、世界のメタ化論、あるいはメタ世界論(met A cosmism, Met A kosmismus)と捉えるわけです(注7)。
(3) 根本的な特徴
ただし、 A と B との関係は、いわば同じ平面上で並列的に、一つのものが半分ずつに分裂したとか、一方がコピーされて他方ができたようなものではありません。2つは、対応関係をともなってはいるが次元が違うという、メタ関係にあります。このことをフィヒテは、後期の代表作『幸いなる生への導き』(1806年)では、内容上の劈頭で次のように述べています: こうして、「メタ化した項との間に、つまり2項間の関係態に、存在性を見る」(注9)ことが、ドイツ観念論の根本特徴だと言えると思います。
------------------------------ (注2) 『大論理学』、ズーアカンプ版第5巻44ページ。(戻る)
(注3) 『全知識学の基礎』、SW版フィヒテ全集、第1巻、134ページ。 (注4) 両者を混交すれば、「あるクレタ島人いわく、『クレタ島人はウソつきである』」といった自己言及文のパラドックスが、生じることになります。(戻る) (注5)メタ言語は、それが対象にしている言語とは別の言語や記号体系でもかまいません。例えば英語の文法規則を日本語で述べたときには、その日本語はメタ言語です。しかしこの拙論では、両者が同じ言語の場合を想定して説明します。(戻る)
(注6) 本当は事態が逆なのです:なぜメタ言語が成立するかといえば、意識がメタ化するからであり、その意識を共同主観性のようなものだと考えれば、つまりは世界がメタ化しているからです。 (注7) このメタ世界論を現代的に発展させた、多世界論(pluricosmism)を標榜したものとしては、拙稿「多世界の生成と構造・・新しい世界観を求めて」があります。(戻る)
(注8) Die A nweisung zum seligen Leben, SW版では第5巻,402ページ。
(注9)「2項間の関係態に、存在性を見る」と、あいまいに表現しましたが、この事態をどのように理解し説明していくかが、ドイツ観念論研究の要諦とも言えます。ちなみに、シェリングは次のように述べます:
(注10) これらの有名な語句の引用は、
(注11) フィヒテの自我のシェリング版である絶対者について、シェリングは次のように述べています:「主観的なものでもなければ客観的なものでもなく、ある論者の思惟でもなければ、誰かの思惟でもない、それはまさに絶対的思惟である」。(『自然哲学論考』序文への1803年付記。(M A nfred Schröter によるシェリング著作集、第1巻、711ページ) ちなみに、ドイツ観念論では、観念的なものや概念、知といったものを第一義としますが、むろんこれらは、いわゆるプラトン的なイデア界にあるのではありません。個物に即して存在します。そしてこれらは、廣松渉氏のいう認識対象の<所識の契機>、すなわち、共同主観性を成立させるゆえんのイデアールな契機と、似かよっています。といいますか、廣松氏がこれらを絵解きしたような案配となっています。 つまり――以下の説明はすこし難しくなり、哲学中級者のためのものです。要は、個別と普遍の関係のあり方です。一応分かっていただければ、アマ 2 段くらいでしょう――、廣松哲学の中枢をなす四肢構造論によれば:
例えば、愛犬のポチが散歩している姿を、私が認知するという事態は、視覚象(すなわち、散歩している犬という 1 つのレアール [独: real, 英: real, 日:実在的] な像。ある場面のポチの感覚的な像。射影像。)を、ポチという対象像(ポチだとして把握された像)として、認知するということです。
一方、ドイツ観念論のシェリングは次のように述べます: こうして、イデアールな概念の存在や重要性を認めるところまでは、ドイツ観念論も廣松哲学も同じです。とはいえ後者はマルクスの後をうけているだけに、どのようにしてイデアールな概念・形象は形成されるのか、ということを解き明かします。すなわち、それらイデアールな形象は個人にとってはアプリオリに表れるとしても、実は共同主観的な形象であり、社会的協働を通じて生み出されたものだというわけです。(戻る)
(注12) 「自我は自ら自身を規定する、と言われる限り、自我には実在性の絶対的な総体が帰属する。自我は自らをただ実在性としてのみ、規定できる。というのも、自我は端的に実在性として措定されているからであり、自我のうちには何らの否定性も措定されていないからである。」(『全知識学の基礎』(1794年)SW版フィヒテ全集、第1巻、129ページ)。
(注13) 「対自」とか「自己内帰還」といえば、ヘーゲルの用いた術語として有名ですが、もともとはフィヒテの用語です。例えば、
(注14)このことをフィヒテから言えば: ドイツ観念論は、現代でも通用する合理性を持つのか?
たしかにドイツ観念論の巨樹には、枯れ枝となってしまった部分、もともと枝ぶりの悪かった部分もだいぶあります(注1)。しかし、直接の関係者が亡くなって100年以上たつのに、また、政治・経済的圧力をもつ教団・政治組織などはないにもかかわらず、世界史上に残っているようなものは、やはりそれ自体大きな価値をもつと、まずは推測できます。 |
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様式 大衆文化におけるアイデンティティの提示として日常化した「行動様式」または規範や価値判断を含んだ古来の「文体」と混用されつつ、作品や作者の集合に類型的な特徴を指す。ビュフォンの文言「文(style)は人なり」(1753)は、被造物の真なる表現という古典主義的規範詩学を引き継ぎながら、以降芸術家固有の個人様式の希求または強調(小説家の「文体」が典型)に転用された。一方旅行、印刷術、美術館などの発展によって、作品の比較と多様性の認識が容易な条件が整備された16-18世紀、この語は芸術一般に移植され、民族、時代、流派の特徴つまり集団様式を指すようになった。古典主義の下では建築の「オーダー」の考え方も様式に近づいたとはいえ、集団様式という考えは精神的背景と造形との連関を前提した芸術史学(例えばA・リーグル)の根幹である。個人様式とともに作品の特定・分類、真贋鑑定や価値評価の原理となり、また19世紀後半からウィーン学派を中心とする方法論的探求を促した。特にH・ヴェルフリンは作者や作品内容から純粋な視覚形式を独立させ、芸術に内在する様式の時代展開の契機を定位した。様式は客観的な分析を導く没価値的な分類概念にとどまらず、元は蔑称だった様式名があるように、好悪などの主観を含んで直感的に感知される。またこの概念は作品完成後の分類に使われたばかりか、19世紀末建築のリヴァイヴァリズムのように、カタログ的に整備された諸様式から(ときに折衷的に)選択・適用されるという時制の捻れをも示したが、これは諸様式を規範として等価にみなした結果と言える。つづく表現主義などの反動と併せると、E・スーリオの指摘どおり※1様式が独創と規範の相反する両面を含むことがわかる。
要素主義(エレメンタリズム) 第一次世界大戦後にオランダで興った芸術運動で、デ・ステイルの基本理念となっていたピエト・モンドリアンによる新造形主義を超える理論として、グループのリーダー、テオ・ファン・ドゥースブルフが1924年に提唱した美術理論。雑誌『デ・ステイル』において主張された。垂直線と水平線、三原色(赤・黄・青)と無彩色(白・黒・灰)の組み合わせからすべてが構成された純粋な抽象造形を目指す新造形主義は、単純で平板な造形となりがちで、表現の自由さや多様性を奪う傾向が否めなかった。特に絵画よりも建築や家具、インテリアといった空間デザインにおいて理念を実践しようとしていたデ・ステイルにとって、新造形主義を徹底して立方体と直方体、非曲面で空間を構成することは困難を極めた。こうした状況を打破するためにドゥースブルフが主張した要素主義は、新造形主義が重視する垂直線と水平線による垂直交差の構図に対角線を導入しようとするもので、20年代半ば以降、31年にドゥースブルフが亡くなりグループが解体するまで、デ・ステイルの指導理論となった。このことにより、ドゥースブルフとモンドリアンは対立し、モンドリアンはデ・ステイルを25年に脱退した。
ユーゲントシュティール アール・ヌーヴォーのドイツでの呼称。1896年にミュンヘンで創刊された雑誌『ユーゲント(青春)』に因む命名。ドイツでは、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響下に工房や連合が設立され、そこを中核として、新しい時代に相応しい普遍的な造形が探求された。フランスのアール・ヌーヴォーと比べると、ドイツでは装飾性よりも合目的性や構造が重視される傾向にあった。ユーゲントシュティールには、数か所の中心地がある。ミュンヘンでは98年に、H・オブリスト、R・リーマーシュミット、P・ベーレンスらが、手工業芸術連合工房を設立、ドレスデンではユーゲントシュティールの理論的指導者ヴァン・ド・ヴェルドの展覧会も開かれる。もうひとつの中心地、ダルムシュタットでは、99年に大公の援助で「芸術家村」が開設、ウィーン分離派の建築家J・M・オルブリヒやベーレンスが招かれた。ヴァイマールでは、ヴァン・ド・ヴェルドが芸術顧問として招待され、1906-14年にかけて工芸学校の校長を務めた。
『ラオコオン 絵画と文学の限界について』ゴットホルト・エフライム・レッシング
ラファエル前派 1848年のイギリスにおいて3人の画家、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイ(英語読みではミレース)を中心に、ウィリアム・マイケル・ロセッティ、フレデリック・スティーヴンズ、ジェームズ・コリンソン、トマス・ウールナーを加え結成されたグループ。「ラファエル前派兄弟(同盟)団(Pre-Raphaelite Brotherhood)」という名前は、彼らがラファエロ(1483-1520)以前の初期ルネサンスやフランドル芸術を規範としたことに由来し、「兄弟団」と名乗ることでグループの結社的な性格を表わした。初期ルネサンスやフランドル絵画に見られる豊かな色彩と精密な自然描写に理想を見出す一方で、アカデミーの規範となっているラファエロ以降の16、17世紀のルネサンスおよびそれ以降の芸術を、構図、色彩などすべてにおいて表現方法が規制された抑圧的で不十分なものと考えた。このような考え方は19世紀初頭のナザレ派に先例をもつとされているが、彼らの思想は、ジョン・ラスキンの『近代絵画論』第1巻(1843-69、全5巻)における「芸術は自然に忠実であるべきだ」という主張に刺激されたものである。1849年3月に、この団体の頭文字「PRB」とともに初めて展覧された作品は、ロセッティの《聖処女マリアの少女時代》ある。翌年、この頭文字の意味が公にされ、ラファエル前派はルネサンス以降続くアカデミーの伝統を拒否したため厳しい非難を浴びるが、『近代絵画論』における自らの主張を体現しようとしたこの若い画家たちをラスキンは擁護した。次第に彼らは社会に受け入れられるようになったが、グループ自体は長続きしなかった。絵画、装飾芸術、工業デザインなどそれぞれの道を歩むようになる彼らだが、その後世に与えた影響は計り知れず、特に絵画においては象徴主義の最初の一派として評価されている。
リアリズム 〈現実〉の現象を直感し、理想化を避けてそれを表出することに価値を置く表現のこと。イリュージョニズムを発生させるためのさまざまな装置を駆使して外観を再現―表象する西洋絵画の、いわゆる「自然主義」とは別のものである。だが、現代的な風俗や、伝統的な主題性を欠いた対象を描いたクールベやミレーの「写実主義」は、自然主義とリアリズムとの複雑な交錯を示すものであり、自然主義とリアリズムの接近は、20世紀初頭のシュルレアリスムにも見られる。とはいえ、ほとんどすべての近現代美術は、いかにして現実(あるいは現実を構成する諸原理)を明示しうるのかという問題を、多様な関心から追究してきたといえる。シュルレアリスムのほかにも、新即物主義、社会主義リアリズム、ヌーヴォー・レアリスム、ドキュメンタリー芸術、具体などの名称に示されているように、そうした運動に共有される〈現実〉は多様な様式の発露を見るものであり、そもそも対象とされる〈現実〉が、内感に基づくものなのか、それとも客体を志向するものなのか、あるいはその両者の超克を目指すものなのか、といったさまざまな問題設定によって大きな振り幅を持たざるをえない。ゆえに、現象や自然に内在する潜勢力の可視化を目指したクレーや、芸術家の「主題」を重視した抽象表現主義の絵画形式もまた、いかに抽象的に見えようとも、それぞれのリアリズムを基盤とするのである。
リアリズム論争 1946年から足かけ4年、美術批評家の土方定一と林文雄、植村鷹千代、画家の永井潔や石井柏亭らのあいだで交わされた、リアリズムの定義とそれに対応した美術の在り方に関する誌上論争。口火を切ったのは林で、黒田清輝がR・コラン系の「写実」を移植した頃に「新しい自由な対象の絵画的な構成、マアレリッシュ(絵画的)・レアリズム」が確立したとする戦前の土方の論に『黄蜂』誌上で異議を唱えた。林の主張とは、主題・描写に真実より美への偏愛が見られる黒田の絵画ではなく、新しい階級の「典型的な真実」を「見たままに描く」高橋由一のそれこそを近代美術におけるリアリズムの出発点にすべきというものであった。それに対して土方は「思想史的な意味附与と絵画的な意味附与との混同」であると林を批判し、その後も絵画の「政治的価値と芸術的価値」を満たすリアリズムの在り方が争われた。端的に言えば、林は主題に、土方は技法にそれを求めたのである。また、土方は同時代のリアリズム美術に対して「模写的リアリズムの限界」であると批判したが、当事者のひとりである永井が、模写説の否定は主観主義的傾向をリアリズムの名のもとに許容する危険性があると反論した。土方の回答はクールベの模写説を単なる理論として受容しているだけで絵画内部に結実させていないところに限界があると断じた。さらにはその三人の論争に対して植村が主体内部の「模写」表現であるアヴァンギャルド芸術までをリアリズムに含めるべきという主張で論争に加わった。その後、画壇の重鎮である石井による永井の模写説擁護、それに対する古沢岩美や植村の、そして土方の持論を貫き通す反論で、和解を見ることなくこの論争は終結していく。後の論者らは、歴史的・地理的背景を考慮しながら戦後日本におけるリアリズムを造形面から追求した土方の立場に最も理解を示している。
『リアルなものの回帰』ハル・フォスター 批評家であり、『オクトーバー』誌の編集委員を務めるハル・フォスターの著書。1996年にMITプレスから出版された。序文でフォスターが述べるように、60年代〜90年代の美術を分析した本書は、「通時的(歴史的)な軸と共時的(社会的)な軸を、作品と理論の双方において取り持つこと」を目的として書かれた。オクトーバー派の分析方法の主流をなすポスト構造主義や精神分析理論の応用は本書でも踏襲されており、この一文からは、構造主義的な共時性と歴史的な垂直軸の併存のもと、現代美術を広範な理論的・歴史的・社会的布置のもとに捉えなおそうとするフォスターの野心が伺える。本書でフォスターは、ミニマリズムとポップ・アートを後期資本主義経済との並行性とともに論じ、またM・ケリーやK・スミスなどの作品にトラウマ的な主体が登場してきたことを着目し、そこに「おぞましい身体=リアルなもの」の回帰を見る。とはいえ、本書に一貫しているのは、作品を社会反映論的な生産物として論じる姿勢ではなく、むしろポスト・モダンの実践が既存の制度的枠組みに抵抗する理論的戦略であるとする視点である。この著作によってフォスターは、90年代以降のアブジェクト・アートや文化人類学的な傾向を持った美術にいち早く理論的な枠組みを与えた。
リージョナリズム 地域主義、地方主義のこと。美術の文脈では、特に1930年代のアメリカン・シーン・ペインティングの一傾向としてのリージョナリズムを指す。世界恐慌を受けて孤立主義・不干渉主義を強めていたアメリカの外交政策と呼応するように、アメリカの美術シーンも、ヨーロッパ・モダニズムや国際主義への反動的傾向を強め、写実主義への回帰が見られるようになった。リージョナリズムとは、国粋主義や排外主義へと傾く当時の思潮のなかで、アメリカ社会の精神的なアイデンティティを、地方の労働や生活、西部開拓の風景や風習を描くことに求めた一群の絵画のことである。これらの絵画では、中西部の田舎町における共同体の連帯や、そこで働く筋肉質な労働者の姿などが主題となった。そのため、都市社会における貧困や差別などの問題を描いた他のアメリカン・シーンの画家たちとは大きく異なる。ベン・シャーンら、絵画を手段として市民社会の諸問題を告発し、社会の変革を求める社会派リアリズムの画家たちが、形式的にはやや保守的だが政治的にはリベラルな立場をとったのに対し、リージョナリズムの画家たちは、工業化された近代的な都市生活への反動として移民開拓の時代を彷彿させる情景を描いたからである。そのため傾向としては、ノスタルジックな愛国主義的・保守主義的側面をもつ。
リヴィジョニズム 時代によって異なる価値観や社会を再解釈することで、あるいは新しく発見された史料によって、出来事や作品を評価し直そうとすること。「歴史修正主義」「改訂主義」などともいう。歴史学において、20世紀初頭に起こった動きのひとつで、歴史解釈の定説に異論・批判などを行なう。好意的に使われることもあるが、否定的なニュアンスをもつことも多い。同じように、美術史学においてもリヴィジョニズムは起こっており、例えば印象派の隆盛によって、これまで美術史のなかで取り上げられることのなかった同時代のアカデミー派やフランス以外の国の画家の活動・作品について、近年になって再評価する動きなどがその一例である。また、ヨーロッパやアメリカを中心にして考えられていた美術史において、アフリカやオセアニア地域の美術に目を向けることも、リヴィジョニズムの一種といえよう。つまり、美術史のメインストリームとして語られてきた作品や美術運動だけに焦点を当てるのではなく、同時代に起こった、異なる動きや周辺的と考えられてきた地域の作品・作家の活動にもスポットを当てることで、より多様で、異なった切り口での美術史や新たな動きを考察することができるだろう。ただしこうした動きが過度に加速すると、かえって偏った美術史を作り出してしまうことも危惧される。
「リヴィング・スカルプチュア」ギルバート&ジョージ リヴィング・スカルプチュアとはイギリスの現代アートユニット、ギルバート&ジョージの作品の中核をなすコンセプトである。1969年1月23日、ロンドンのセント・マーティンズ・アート・スクール彫刻科の学生だったギルバート・プロッシュとジョージ・パサモアは、あらゆるものが彫刻であり二人のすることすべてがアートであるという発想のもと《Our New Sculpture》という作品を学内で「実演」した。これは、メタリックなメイクを施しビジネス・スーツを着た二人が手にステッキやタバコをもって同じポーズを取り続けるというものだった。同年、テーブルの上で無表情に踊りながら何時間も歌を歌うパフォーマンス《The Singing Sculpture》をギャラリーや音楽フェスティヴァルで発表、ギルバート&ジョージの存在を広く知らしめる作品となった。このアートとアーティストが一体となったパフォーマンスは《The Singing Sculpture》、《Underneath The Arches》、《The Red Sculpture》などとタイトルを変えながら世界中で何度も再演され、「リヴィング・スカルプチュア(・シリーズ)」と呼ばれている。またこのシリーズの発表以降、彼らは自らを「リヴィング・スカルプチュア」と称している。形としての彫刻ではなく、話すことも感情を表わすこともできる彫刻になりたかったと語る二人は、手紙を出せばそれがPost Sculptureとなり、歌を歌えばSinging Sculptureになり、ついには生きることがLiving Sculptureになった。つねにスーツ姿で二人揃って作品を発表しているギルバート&ジョージにとっては、アートも日常も表裏一体であり、存在そのものがアートであることを体当たりで表現し続けているのである。リヴィング・スカルプチュアという理念は、初期のパフォーマンスから写真やヴィデオ作品へと方法・媒体をシフトしている現在でもなお、二人の根底を流れている。
レリーフ 平面を彫り込むか平面上に形態を盛り上げて起伏を与え、図像や装飾模様を表わす造形表現、およびその作品。浮彫りとも言う。イタリア語で「突出部」「浮彫り」などを意味する「リリエーヴォ(rilievo)」に由来し、その語源はラテン語の動詞relevare(「浮き彫りにする」の意)。丸彫り彫刻に背景を添えたような三次元性の強いものからほとんど凹凸のない浅い彫りのものまでさまざまな段階があり、突出部の度合いに応じて「高肉彫り」「中肉彫り」「低肉彫り」(もしくは薄肉彫り、浅肉彫り)の三つに区別される。イタリア・ルネサンス期の彫刻家ドナテッロは「リリエーヴォ・スキアッチャート(rilievo schiacciato)」と呼ばれるごく浅い浮彫りの創始者であり、微妙な大気の表現を可能にした。また、図像が地の部分から手前に浮き上がるレリーフを「陽刻」と言い、反対に図像が地より低く彫りくぼめられたものを「陰刻」、あるいは「インタリオ」「沈め彫り」と呼ぶ。19世紀ドイツの彫刻家ヒルデブラントは、浮彫りの表象する空間が現実の奥行き量に左右されず全体との関係において決定するゆえに独自の存在理由を持つとし、絵画、建築にも通底する造形芸術の原理を見出した。20世紀になると絵画と彫刻の中間的様態としてレリーフの表現性が拡張、1913年にコラージュの発展形としてピカソが始めた木や金属によるレリーフ、戦後では80年代にフランク・ステラが開始したレリーフ・ペインティングなどが有名である。
『レフ』 1922年、詩人ウラジーミル・マヤコフスキーと批評家のオシップ・ブリークを中心に結成されたソヴィエトの文学団体「芸術左翼戦線」、および彼らが23年から29年にかけて発刊した同名の雑誌。23年から25年には雑誌『レフ』、27年から28年にかけては『新レフ』が発刊され、休刊後の29年には論文集『ファクトの文学』が出版された。『レフ』と『新レフ』はさまざまなジャンルのロシア・アヴァンギャルドたちの活動の場となった。作家のイサーク・バーベリ、詩人のボリス・パステルナークらが作品を寄稿した。表紙はアレクサンドル・ロトチェンコによってデザインされ、ワルワーラ・ステパーノワやリュボーフ・ポポーワら構成主義者の実践や、構成主義の拠点となったヴフテマス(高等芸術技術工房)の活動などが紹介された。批評家のブリーク、ボリス・アルヴァートフ、ニコライ・チュジャーク、アレクセイ・ガンらによって芸術を工業的な生産へと移行させようとする生産主義の理論や、社会や現実との関わりを重視する文学理論や芸術論が展開された。また、映画と写真が重視され、映画監督のジガ・ヴェルトフ、セルゲイ・エイゼンシュテインらが映画論を展開した。後期の『新レフ』では作家、批評家のセルゲイ・トレチャコフが中心となり、「ファクトの文学」を掲げてノンフィクション文学の生産が主張された。
ロシア未来派 1910年代に興隆したロシア・アヴァンギャルドの潮流。多くの詩人、作家、画家たちが新しい芸術を志向するという意味で名乗った名称。12年、ヴェリミール・フレーブニコフ、アレクセイ・クルチョーヌィフ、ウラジーミル・マヤコフスキー、ダヴィド・ブルリューク、ヴァシーリー・カメンスキー、ベネディクト・リフシッツらによるペテルブルクの詩人グループ「ギレヤ」が「未来人」を意味するロシア語「ブジェトリャーニン(будетлянин/budetljanin)」を名乗ったのが始まり。ギレヤはマニフェスト『社会の趣味への平手打ち』を発刊し、古い文学や詩を「現代の汽船から放り出す」ことを宣言した。イーゴリ・セヴェリャーニンを中心とする「自我未来派」、ボリス・パステルナークらが参加した「遠心分離機」、キエフやオデッサの詩人たちなど、未来派を名乗るグループがロシア各地で興隆した。絵画においては、カジミール・マレーヴィチ、アレクサンドラ・エクステル、ナターリヤ・ゴンチャローワ、オーリガ・ローザノワ、リュボーフ・ポポーワ、ダヴィド・ブルリューク、ナジェージュダ・ウダリツォーワらがキュビスムとイタリア未来派を総合したクボ=フトゥリズム(立体未来派)として活動した。ギレヤは絵画のクボ=フトゥリズムと密接な関係にあり、クルチョーヌィフの脚本とマレーヴィチの舞台美術による未来派オペラ《太陽の征服》(1913)を上演した。未来派の詩人たちは、「言葉そのもの」を掲げて文字の形象や音といった物質性に注目し、クルチョーヌィフは意味を超えた言葉「ザーウミ」によるナンセンス詩を制作した。ロシア革命後、マヤコフスキーは教育人員委員であるボリシェヴィキのルナチャルスキーの支持を受け、23年未来派のメンバーとともに雑誌『レフ』を発刊した。
「ロバの尻尾」 1912年の3月から4月にかけてミハイル・ラリオーノフによって主催されたネオ・プリミティヴィズム絵画の展覧会。10年代のロシアでは、単純で明快な色彩や描写などの特徴を持つ民衆文化の影響を受けて、ネオ・プリミティヴィズムと呼ばれる絵画の流派が興隆した。「ロバの尻尾」展はロシア・アヴァンギャルド初期における大規模な展覧会のひとつであり、ナターリヤ・ゴンチャローワ、カジミール・マレーヴィチ、ウラジーミル・タトリン、マルク・シャガールら合計19名の画家が計307点の絵画を出展した。この展覧会において中心的役割を担ったラリオーノフとゴンチャローワは、セザンニスム(セザンヌ主義)やキュビスムといったフランスの絵画の追随をやめ、イコンやルボーク(ロシアの民衆画)などロシアの民衆芸術の素朴な様式を評価し、新しい絵画の手本をロシア国内の伝統的なフォークロアに見出そうとする態度を示した。なお、ロシア・アヴァンギャルドの画家たちに大きな影響を与えた、グルジアの画家ニコ・ピロスマニによる看板絵もこのときに展示された。
ロマン主義 18世紀末から19世紀前半の西欧で勃興した芸術思想、あるいはその系譜に連ねられる作家や作品を総体的に名指す言葉。ロマン主義と呼ばれる傾向や運動は、絵画のみならず哲学・文学・音楽・批評などさまざまな分野に見られる曖昧な名称であるが、その多くには個性の称揚や規範への抵抗といった一定の共通要素も見られる。もともとロマン主義とは、啓蒙期のヨーロッパにおける知性や合理性への信仰に対して、感情や非合理性を称揚する態度を指して用いられるようになった言葉である。この用法そのものは、18世紀末から19世紀初頭にかけてのフリードリヒ・シュレーゲルの著作に由来している。シュレーゲルは、形式的な古典主義文学とは異なる想像力豊かな文学を、かつての俗ラテン語(民衆語)であるロマンス語に仮託して「ロマン主義」と呼んだ。シュレーゲル兄弟やフリードリヒ・シェリングに代表されるこのドイツ・ロマン主義はその後フランスにも伝播し、ロマン主義という言葉は、芸術家の内面や精神性を強く表出する芸術作品に対して拡張的に用いられることになる。絵画におけるロマン主義も、保守的な新古典主義に対抗する一連の絵画を指しているという点で、やはり上記のような特徴が当てはまる。ただし、同じロマン主義に括られてはいても、その傾向はフランスのウジェーヌ・ドラクロワやテオドール・ジェリコー、イギリスのウィリアム・ブレイクやウィリアム・ターナー、ドイツのカスパー・ダーヴィト・フリードリヒやフィリップ・オットー・ルンゲなど、各地域のあいだでかなりの異なりを見せることも確かである。仮に便宜的な区分を用いるならば、同じロマン主義のなかでも「ラテン系」「アングロサクソン・ゲルマン系」という大まかなカテゴリーを設けることが可能だろう。なぜなら、フリードリヒに代表される後者の北方ロマン主義絵画の特徴としてしばしば挙げられるのは、崇高な自然の描写を通じた神性や超越性への志向だからである。
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「フルクサス・フィルム」 1960年代に制作された、フルクサスのアーティストによる映画アンソロジーを指す。フルクサスとはジョージ・マチューナスによって61年に開始された広範な領域に及ぶ芸術運動である。フルクサスのアーティストたちは、マルティプルの販売やハプニングなどによって、芸術の領域を逸脱した多くの試みを行なっていたが、そのなかでフィルム作品も制作していた。このような映画は、マチューナスによって「フルクサス・フィルム・アンソロジー」としてまとめられている(複数のヴァージョンが存在する)。参加した主なアーティストは、ナム・ジュン・パイク、ディック・ヒギンス、マチューナス、塩見千枝子(允枝子)、オノ・ヨーコ、ジョー・ジョーンズ、ヴォルフ・フォステル、ジョン・ケール、ジョージ・ランドウ(オーウェン・ランド)、ポール・シャリッツ、ミラン・クニザックなどである。これらのアーティストは、ランドウとシャリッツを除いて、本来は実験映画作家ではない。以下、それぞれの内容について簡単に言及しておく。白コマ(抜け)のフィルムに付着した微細な埃を見せるパイクの『Zen for Film』。リーダーのカウントによって、その物理的な時間の長さを測るマチューナスの『10 Feet』や『1000 Frames』。微笑む表情をスローで見せる塩見の『Disappearing Music for Face』。さまざまな人の尻を撮影したオノの『Four』。口から吐かれたタバコの煙をスローで見せるジョーンズの『Smoking』。TV映像を変調させたフォステルによるヴィデオ・アートの先駆的作品である『Sun in Your Head(Television Decollage)』。激しいフリッカーがイメージや単語を伴って立ち現われるシャリッツの『Wrist Trick』や『Word Movie』。カメラの前でパフォーマンスを行なうクニザックやベンなど。これらのフィルムは短いものなら数秒の長さであり、コンセプチュアル・アート的な作品が揃っている。フルクサスの映画はハプニングを記譜したものである「スコア」と同列でとらえられる、芸術的・文化的制度を逸脱した試みであり、上映においても映画の固定的なシステムを問い直すものであった。現代美術と実験映画のコンテクストが交差する地点で生まれたフィルム制作の試みとして重要である。
フレーム
狭義には絵画の額縁を指すが、現在ではそのような物理的な枠に加え、画面内の空間と外部の現実空間を隔てる非物質的な境界という意味も内包している。初期ルネサンスの建築家レオン・バッティスタ・アルベルティの『絵画論』(1435)では、画家は絵画を「開いた窓」に見立てており、遠近法を用いて描かれた絵画は、額縁がもつ「窓」の性質によって再現性が担保されていた。しかし、そのような視覚的再現=表象性は、近現代以降の絵画において批判の対象となり、境界領域としてのフレームがもつ作用についても俎上に載せられた。例えばクレメント・グリーンバーグは論文「モダニズムの絵画」(1965)において、それら絵画を長年支配してきたリアリズムやイリュージョニズムが、メディウムの本質を隠蔽してきたとして、還元不可能な絵画の本質を平面性に見出した。フランク・ステラのシェイプド・キャンヴァスは、矩形の形態から逸脱していながらも、それら60年代に制作されたシリーズにおいて描かれたモチーフがキャンヴァスの輪郭線と一致していることから、グリーンバーグによるフォーマリズムの影響がうかがえるだろう。さらにロザリンド・クラウスは、オディロン・ルドンら象徴主義の画家が画面内に描いた窓の形態から、20世紀以降の絵画がもつ幾何学的構造としての「グリッド」の概念を抽出した。グリッドは求心的/遠心的性質をもち、特に遠心的性質は作品の内側から外側へと作用し、「フレームを越えた一つの世界の認識」を鑑賞者に強いるものとされる。そのようなグリッドがもつ連続性は、絵画における知覚の問題に留まらず、アンディ・ウォーホルらの写真を用いた作品や、ルイーズ・ネヴェルソンの建築空間に関連が見られる立体作品まで拡張可能な概念として、展開された。
フロッタージュ 拓版。拓摺。凹凸の上に紙をのせ、鉛筆やクレヨンなどでこすって模様を写し取る技法。フランス語で「こする」を意味するfrotterに由来。原理的には古くから「拓本」として東洋で行なわれている原始的な版画技法。刷り上がりは孔版と同じく図像が左右反転しない。また、版面の裏側が作品となる「正面刷り」(浮世絵で活用される)の一種である。薄く柔軟性がありこすっても破れにくい紙が適しており、図像は素材の凸部が濃く、凹部は薄く色がつく。グラッタージュはこの応用。作品に与える偶然性は低いが、原版の作成が必要なく既存物の姿が直接紙上に浮かび上がるこの手法をシュルレアリスムはオートマティスムの一種と位置づけた。通常「フロッタージュ」と称する場合はM・エルンストをはじめとするシュルレアリスムの作例を指すことが多い。エルンストの主張によれば1925年に古い床板の荒れた木目に着目してこの手法を美術に取り入れたとされるが、彼は既にケルン・ダダの時期(1917-22頃)より実験的に試みていた。エルンストのフロッタージュを集めた『博物誌』はシュルレアリスムの代表的出版物として名高い。キリストが自らの顔に布を押し当てて姿を転写したというイコン唯一のオリジナル「聖顔布(マンディリオン)」も、(こすったかどうかはさておき)フロッタージュといえようか。
ブラウエ・ライター(青騎士) 20世紀初頭のミュンヘンを中心としたW・カンディンスキーやF・マルクらによる芸術運動、またはその名称を冠した年刊誌を指す。カンディンスキーは1904年から08年までヨーロッパ各地を旅行し、ドイツのミュンヘンに戻った後、09年に「ミュンヘン新芸術家協会」を結成し会長を務めた。しかし、協会内の対立と第三回展審査会での出品拒否を経て同協会を脱会。支持者であり友人のマルクとともに、「ミュンヘン新芸術家協会」展と同じタンハウザー画廊で、11、12年に開催された展覧会と、12年に刊行された年刊誌『青騎士』(二巻以降は未刊)が「ブラウエ・ライター(青騎士)」の中心的な活動とされる。「青騎士」の名称は、二人とも青を好み、カンディンスキーが騎士を、またマルクが馬を好んだことが由来とされる。成立にはアカデミズムの形骸化や分離派などの前衛芸術の活動、またユーゲントシュティールやR・ワーグナーの楽劇に見られる総合芸術観の影響がうかがえる。また、A・マッケやP・クレー、R・ドローネーといった画家に加え、ブリュッケ、ロシア未来派の画家などが展覧会に参加していることは、「青騎士」が明確な教義を標榜する集団ではなかったことを示している。カンディンスキーとマルクの編集による『青騎士』は、絵画に限らず詩や音楽も含めて同時代の芸術動向に眼を向けており、産業革命以後の物質主義的な文明に対抗するために、抽象絵画において形態の「内的必然性」を模索するというロマン主義思想が見て取れる。「青騎士」は、第一次世界大戦の勃発によるカンディンスキーのロシアへの帰国やマッケらの戦死により解散となるが、民衆版画や児童画なども肯定的な評価をした点においては、当時の他の芸術動向と一線を画している。
ブリコラージュ フランス語の「bricoler」(素人仕事をする、日曜大工をする)から。ありあわせの手段・道具でやりくりすること。通常「器用仕事」と訳される。ある目的のためにあつらえられた既存の材料や器具を、別の目的に役立てる手法。C・ L=ストロースが『野生の思考』(1962)において、構成要素の配列の変換群(使い回し)で成り立っている「神話的思考」を比喩的に示すのに用いた。「神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるといってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。(中略)したがって神話的思考とは、いわば一種の知的な器用仕事である。」器用人(ブリコルール)も、それに対置される職人(エンジニア)も、所与の材料はむろん無限ではありえない以上厳密な差はないとも言えるが、概念を基に新たな物を作り出す後者とあらかじめ与えられた記号を再利用する前者の態度は異なる。文字通りの素材の二次利用から引用表現まで適用範囲がきわめて広いために便利な用語としてまさしく使い回されている感があるものの、ブリコラージュによって目的と手段がコンテクストから切り離されて別の場所で融合することで、新たな意味作用を生むという指摘はレディメイドを考える上でも示唆に富んでいる。
分割主義(ディヴィジョニズモ) 1880年代後半から1900年代初頭にかけて、イタリアのミラノを中心地として興った絵画の流派。筆触分割の手法で描いた点において、しばしばフランスの新印象主義と比較される。キャンヴァス上に異なる純粋色を並置し、より明るく鮮やかな色彩を網膜上にもたらそうとするのが筆触分割の原理だが、イタリアの分割主義者はこれを経験に即して採用し、絵具の混色や厚塗り技法との組み合わせで精緻な画面をつくりあげた。点描ではなく線条の筆触が好まれたのも特徴のひとつで、描写は写実性が強く、身近な現実世界、統一後のイタリアが直面した社会問題、あるいは現実から離れた観念的、幻想的世界などが主題となった。とりわけ象徴主義や神秘主義との結びつきは強く、多くの画家が光の表現に内面の探求という側面を重ね合わせた。精神性を重んじる風潮は、19世紀末に興隆した実証科学主義からの反動、ローマからミラノへと波及したラファエル前派の流行が後押ししたものと考えられる。印象派の動向すらも本格的に伝えられていなかった当時、新印象主義についての情報を海外から仕入れたのは、画商、画家にして理論家のV・グルビシーである。ミラノからスイスに拠点を移したG・セガンティーニも、グルビシーの助言により1886年頃から筆触分割による制作へと向かう。91年の第1回ブレラ・トリエンナーレでは、セガンティーニの《2人の母》とG・プレヴィアーティの《母性》をはじめ、A・モルベッリやE・ロンゴーニの作品が賛否を呼び、分割主義の存在を公衆に知らしめる重要な年となった。そのほかの代表的な画家に、G・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード、P・ノメッリーニなど。G・バッラ、U・ボッチョーニ、C・カッラといった未来派の画家たちも、活動の初期に分割主義を経由している。マッキアイオーリと未来派を繋ぐ前衛美術として、重要な位置を占める流派である。
プライマリー・ストラクチャー 比較的単純な幾何学形態で構成された1960年代の彫刻の傾向のこと。66年にニューヨークのジューイッシュ・ミュージアムで開催された「プライマリー・ストラクチャーズ:アメリカとイギリスの若手彫刻家たち」展によって展開された概念。42名の新鋭作家が選出され、同館学芸員のキナストン・マクシャインのキュレーションにより組織された。展覧会の発案はマクシャインと批評家のL・リパードによるものである。両者は当時の彫刻に共通して施された彩色表現にも注目し「原色(primary color)」の意味に倣い、色彩とミニマルな形態による効果を「構造(ストラクチャー)」の語のもとに捉えようとした。ミニマリズムの代表的作家であるD・ジャッド、R・モリス、R・ブレイデン、R・グローブナーの大型作品が一室に集めて展示されるなど、ミニマリズムのイメージは、この企画によって一般に浸透してゆくことになる。しかし総体としては、具体的な対象を想起させるように曲線や流線型を用いた作家たちや、キュビスム的なコンポジションを採用していたA・カロなどが出品していたため、展覧会の内容自体がミニマリズムのイデオロギーと完全に合致するわけではない。
ホワイト・キューブ 「白い立方体」。1929年に開館したニューヨーク近代美術館(MoMA)が導入し、展示空間の代名詞として用いられる。かつては王侯貴族や宗教者が富や権力の象徴としてコレクションを邸宅内のギャラリーや宗教空間に展示したが、近代社会の到来とともにコレクター層が変化し、美術作品の社会的なあり方や作品そのものも変化した。公共性に支えられた近代の美術館制度が制度としての「美術」を存続させるためには中立性を担保する象徴的空間が必要であり、何もない空間ゆえの可変性と柔軟性を特徴とするのは、近代美術が鑑賞体験の純粋性を追及したゆえである。建築史家の藤森照信はホワイト・キューブを「白い立方体の箱に大きなガラス窓がついた建築」とし、バウハウス、ル・コルビュジエ、ミースによるモダニズム建築のひとつの到達点とし、《青森県立美術館》(2006)を設計した青木淳はホワイト・キューブを「空間をサイズとプロポーションと光の状態だけに」抽象化し、その緊張感に満ちた空間の魅力をある種の無根拠性に求めた。現代美術館としては《金沢21世紀美術館》(2004)でもホワイト・キューブを曲線により統合したデザインでまとめられ、また《ビルバオ・グッゲンハイム》(1997)が装飾過多な外観にもかかわらず内部にホワイト・キューブを採用したように、その汎用性により現在に至るまで美術館空間としての絶対的な地位を確保しているのは確かだろう。
「多元主義」もしくは「複数主義」。ごく一般的に定義するならば、プルーラリズムとは複数の異なる価値観の共存をめざす立場を意味する。近現代美術の文脈でプルーラリズムという言葉が用いられる場合、その対象としてはまず「文化」と「様式」が考えられる。(1)前者の「文化」に関連づけられたプルーラリズムは、「多文化主義」もしくは「文化多元主義」(multiculturalism)とほぼ同じ立場として理解されることが多い。多文化主義については本辞典内の同名の項目で詳述したため、ここではより範囲を絞って後者のプルーラリズムについて解説する。(2)後者の「様式」におけるプルーラリズムは、1970年代頃から顕著に見られるようになった立場である。前衛や近代主義の失効が唱えられたこの時代、それまでの直線的な様式の交替としての美術史に対する異議申し立てが同時多発的に聞かれるようになった。すなわち、アルフレッド・バーJrが「キュビスムと抽象芸術」展(1936)におけるモダン・アートのチャートで提示したような特定の様式の交替ではなく、むしろ異なる複数の様式の併存が唱えられ始めたのである。このような主張が登場した時代背景としては、さまざまな方向に拡散する作品に対して単一の批評基準がもはや有効ではなくなったこと、従来の西洋中心主義的な「美術史」そのものが見直されはじめたことなどが挙げられる。こうしたプルーラリズムの立場は、従来の支配的な価値観に対する有効な批判となりうる一方、過度の相対主義へと至る場合には反対に批判性の欠如を示すことにもなるという点には留意する必要がある。
ポストモダニズム
「ポストモダン」とは「近代(モダン)以後」を意味する。ただし「近代modern」という言葉は、たんなる時代区分を指すものにとどまらず、しばしば19世紀以降の近代的な文化や価値観の総称としても用いられる。よって、「ポストモダン」「ポストモダニズム」もまた、そうした「モダン」「モダニズム」の文化や価値観に対する批判的態度の総称であると見なすことができる。広義の芸術において、このポストモダニズムという言葉が用いられた最初期の例がチャールズ・ジェンクスによる『ポストモダニズムの建築言語』(1977)である。ただし、ジェンクスの著作はモダニズム建築にかわる代替案を提示したものであり、上記のような意味での「近代(モダン)」に対する批判という側面はさほど強くない。冒頭で整理したような意味での「ポストモダニズム」が強く喧伝されるようになったのは、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』(1979)以降のことである。同書の中でリオタールが述べるところによれば、これまでの科学はみずからを正当化するために「大きな物語」としての哲学を必要としてきた。リオタールは、このような「大きな物語」に準拠していた時代を「モダン」、そしてそれに対する不信感が蔓延した時代を「ポストモダン」と呼んでいる。したがってリオタールの定義によれば、ポストモダンとはこうした科学の基礎づけとしての「大きな物語」が失われた時代だということになる。
マティス回顧展 ニューヨーク近代美術館(MoMA)において、1931年に開催されたフォーヴィスムの画家として知られるアンリ・マティスの大規模な回顧展。マティスがアメリカではじめて大々的に紹介された展覧会で、MoMAの初代館長アルフレッド・バーJrによって企画された。バーは、マティスの芸術は時代を下るに従って進歩するという前提のもと、彼の画業を時系列に追い、その時々の作品様式と変化を同時代の他の芸術運動やアーティストとの関連より比較、分析した。さらにこの展覧会のカタログは、掲載作品すべての収蔵先や文献など詳細な情報を網羅し、マティスの美術史上の位置づけを明確化するとともに、バーによるマティス論文が掲載され、学問的に重要なものとなった。このカタログは、現在においてもなおマティス研究の重要な基礎的文献とされ、また、現在に継承されるカタログの形式を確立したという意味において、記念碑的なものとなっている。さらに、この展覧会でバーは、いわゆるキャプションのような作品情報を記載したラベルを作品の側に貼りつけ、鑑賞者の作品理解の手助けとしたが、こうした展示が行われたのも本展が最初であった。このマティス回顧展は、マティスの画業を早い段階で紹介した美術史上重要な展覧会であると同時に、現在に繋がる展覧会の形態を築いたという意味においても重要なものとなっている。
マニエリスム
マニエリスムとは、16世紀中頃から末にかけて見られる後期イタリア・ルネサンスの美術様式を指す。この名称は、イタリア語の「マニエラ(maniera)」に由来し、「手法」や「様式」を意味する。ミケランジェロやラファエロの「手法」を評価するにあたり、ヴァザーリはこの「マニエラ」に「自然をも凌駕する高度な芸術的手法」という意味を付加した。しかし17世紀、バロックの時代に入ると、盛期イタリア・ルネサンスの終盤から16世紀末までの芸術家への評価が、ルネサンス絶頂期の画家たち、特にミケランジェロの手法を繰り返すだけの模倣者とみなされるようになってしまった。そのため、マニエリスムという名は「創造性を失った芸術」という否定的な呼称として使用されるようになったのである。このような過小評価から脱し、マニエリスムが再評価されるのは20世紀に入ってからのことで、盛期イタリア・ルネサンス以降の芸術動向を表わす様式名として定着していった。
『ミノトール』 『シュルレアリスト革命』(1924-29)、『革命に奉仕するシュルレアリスム』(1930-33)に続く、1933年発刊のシュルレアリスムの芸術誌。アルベール・スキラ社から39年まで計13号が刊行された。スキラを責任編集者として、E・テリアードがアート・ディレクションを手がけた。タイトルの「ミノトール」は、ギリシャ神話に登場する半人半獣の牛の頭をした怪物ミノタウロスに由来し、A・マッソンとG・バタイユによって命名された。創刊号の表紙は、同時期にミノトールを主題に多くの作品を残したピカソに依嘱された。33年の3/4合併号からは『革命に奉仕するシュルレアリスム』を廃刊にしたシュルレアリストたちが次第に活動の基盤をこの場所に求めたため、実質的にシュルレアリスムの3番目の雑誌として機能し始める。36年の第9号でテリアードが同誌を離れてからは、A・ブルトン、M・デュシャン、P・エリュアールが中心的な編集同人として雑誌の刊行を続けた。S・ダリやH・ベルメールらの美術作品が紹介されたほか、同誌ではマン・レイやブラッサイの写真が頻繁に掲載されたことでも知られている。
未来派(イタリア未来派) 20世紀初頭にイタリアで起こった芸術運動の一派。1909年、イタリアの詩人フィリッポ・マリネッティがフランスの日刊紙『フィガロ』に発表した「未来派宣言」がその発端である。その後も多くの宣言文が発表された。この運動に賛同した芸術家たちは、伝統的な芸術と社会を否定し、新しい時代にふさわしい機械美やスピード感、ダイナミズム(力強い動き)を賛美した。その背景には産業革命以降顕著になった、工業機械文明と急速な都市化がある。彼らの活動領域は絵画や彫刻といった造形芸術だけでなく、写真、建築、デザイン、ファッション、演劇、音楽、文学、政治活動に至るまで広範囲に及んだ。芸術運動としては15年頃までで終息したが、ダダやロシア構成主義など、20世紀の芸術運動に大きな影響を与えた。
「無限発展の美術館」ル・コルビュジエ 建築家ル・コルビュジエが構想した美術館のプロトタイプ。その出発点は1929年のスイス・ジュネーヴに計画された、螺旋のスロープを頂部まで登る「ピラミッド状の螺旋型」の世界文化センター「ムンダネウム」計画にあるとされる。「無限発展の美術館」の具体像が示されたのは、ル・コルビュジエがクリスチャン・ゼルヴォスに対して30年2月19日付けで送った書簡である。ゼルヴォスが編集長を務めた『カイエ・ダール』誌31年1月号に掲載された「パリ現代美術館」計画は、螺旋型の動線を導入しており「無限発展の美術館」のベースとなった。ル・コルビュジエはその後研究を重ね、39年に発表した北アフリカの「フィリップヴィル美術館」計画案を「無限発展の美術館」と名付けたが、この美術館計画は特定のファサードをもたず、内部に螺旋状の回廊をもち可動間仕切りによる自由な分割が可能であり、渦を大きくすることで展示品の増加に対応した増床可能な平面計画を特徴とした。柱や梁、天井、昼間・夜間採光のエレメントすべてが黄金比をもとに標準化された「展示のための機械」であり、陸屋根、正方形の平面形状、ピロティー、屋上庭園、斜路、自然光を利用した照明計画など、ル・コルビュジエに特徴的な設計要素が随所に見られた。「無限発展の美術館」の実現例としては《アーメダバード美術館》《チャンディガール美術館》《国立西洋美術館本館》がある。
無対象芸術 描写対象のない抽象画(非形象絵画)および造形芸術のこと。20世紀初頭にドイツとロシアにおいて、リアリズムおよび自然主義への批判として展開された。色彩、フォルム、ヴォリューム、質感、コンポジションなど絵画そのものの要素やそれらの組み合わせを前景化させた自己充足的な絵画といえる。理論と実践の双方から絶対的な絵画システムとしてのシュプレマティズムを提唱したカジミール・マレーヴィチ、絵画の特定の形式が観る者に与える感覚「内的必然性」を探求したワシリー・カンディンスキー、絵画を構成する素材に注目したウラジーミル・タトリンが、ロシアにおける無対象絵画の中心的役割を果たし、ロシア・アヴァンギャルドの画家たちの大部分がそれぞれのアプローチで無対象の課題に取り組んだ。1912年、画家のダヴィド・ブルリュークは論文 「キュビスム(表面―平面)」のなかで、絵画の自己目的性がキュビスムにおいて開花したことを主張したが、これが無対象を論理的に意義づけた最初の主張とみなすことができる。無対象絵画の主要な展覧会として、マレーヴィチのシュプレマティズム絵画とタトリンの《コーナー・カウンター・レリーフ》が同時に出展された15年の「最後の未来派絵画展 0-10」と、ワルワーラ・ステパーノワ、リュボーフ・ポポーワ、アレクサンドル・ロトチェンコ、オーリガ・ローザノワら9人の画家たちの作品計220点が展示された19年の第10回国営展「無対象的創造とシュプレマティズム」展が挙げられる。
モニュメント
「記念碑、記念物」と訳される。語源はラテン語の「記念物(monumentum)」で、「気付かせる/想起させる」という意味の単語からの派生語である。特定の人物や歴史的、宗教的、政治的事件、思想などを記念して、人々の記憶に留めるべく制作された作品のこと。また、制作された作品ではなく、そのもの自体が残っていることで過去の出来事を示唆する遺物などもその類であるが、美術におけるモニュメントとは主に前者を指す。モニュメントには、巨大な絵画や壁画なども含まれるが、その多くは、建造物や彫刻という形で表わされる。それは、モニュメントの多くが広く大衆の目にさらされる場に設置されるため、戸外でも耐えうる形態でなければならないためである。
唯物論
自然や物質、身体を世界が構成される上で根源的なものとみなし、そのような物質を最高原理とする認識論上の思想。非物質的なものである心や精神を究極のものとする唯心論(観念論)は、唯物論の対概念である。この唯物論と唯心論の思想的対立は古代まで遡り、唯物論的な思想はタレスやデモクリトスらの古代ギリシャ哲学に認められる。中世に入り、反宗教、無心論的な唯物論に対するキリスト教の権威的な抑圧が強まるものの、17世紀末のG・ライプニッツの著作物の中に「唯物論」の呼称が見られるなど、唯物論は近代になって再発見されることになる。近代の唯物論の発展は、自然科学の発達との関連をもつが、より密接な関係をもつものとして、精神を自然科学における力学的な法則や仮説を用いて解明しようとする機械的唯物論が挙げられる。また、機械論的唯物論の実験的性質に対立する弁証法的唯物論は、物質の弁証法的な運動を重視する歴史的性質を備え、マルクス主義の経済理論と強い相関性をもつ。 |
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