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【2025/04/29 21:19 】 |
美術用語 6

様式
Style(英), Stil(独)

大衆文化におけるアイデンティティの提示として日常化した「行動様式」または規範や価値判断を含んだ古来の「文体」と混用されつつ、作品や作者の集合に類型的な特徴を指す。ビュフォンの文言「文(style)は人なり」(1753)は、被造物の真なる表現という古典主義的規範詩学を引き継ぎながら、以降芸術家固有の個人様式の希求または強調(小説家の「文体」が典型)に転用された。一方旅行、印刷術、美術館などの発展によって、作品の比較と多様性の認識が容易な条件が整備された16-18世紀、この語は芸術一般に移植され、民族、時代、流派の特徴つまり集団様式を指すようになった。古典主義の下では建築の「オーダー」の考え方も様式に近づいたとはいえ、集団様式という考えは精神的背景と造形との連関を前提した芸術史学(例えばA・リーグル)の根幹である。個人様式とともに作品の特定・分類、真贋鑑定や価値評価の原理となり、また19世紀後半からウィーン学派を中心とする方法論的探求を促した。特にH・ヴェルフリンは作者や作品内容から純粋な視覚形式を独立させ、芸術に内在する様式の時代展開の契機を定位した。様式は客観的な分析を導く没価値的な分類概念にとどまらず、元は蔑称だった様式名があるように、好悪などの主観を含んで直感的に感知される。またこの概念は作品完成後の分類に使われたばかりか、19世紀末建築のリヴァイヴァリズムのように、カタログ的に整備された諸様式から(ときに折衷的に)選択・適用されるという時制の捻れをも示したが、これは諸様式を規範として等価にみなした結果と言える。つづく表現主義などの反動と併せると、E・スーリオの指摘どおり※1様式が独創と規範の相反する両面を含むことがわかる。

 要素主義(エレメンタリズム)
Elementalism(英), Elementarisme(蘭)

第一次世界大戦後にオランダで興った芸術運動で、デ・ステイルの基本理念となっていたピエト・モンドリアンによる新造形主義を超える理論として、グループのリーダー、テオ・ファン・ドゥースブルフが1924年に提唱した美術理論。雑誌『デ・ステイル』において主張された。垂直線と水平線、三原色(赤・黄・青)と無彩色(白・黒・灰)の組み合わせからすべてが構成された純粋な抽象造形を目指す新造形主義は、単純で平板な造形となりがちで、表現の自由さや多様性を奪う傾向が否めなかった。特に絵画よりも建築や家具、インテリアといった空間デザインにおいて理念を実践しようとしていたデ・ステイルにとって、新造形主義を徹底して立方体と直方体、非曲面で空間を構成することは困難を極めた。こうした状況を打破するためにドゥースブルフが主張した要素主義は、新造形主義が重視する垂直線と水平線による垂直交差の構図に対角線を導入しようとするもので、20年代半ば以降、31年にドゥースブルフが亡くなりグループが解体するまで、デ・ステイルの指導理論となった。このことにより、ドゥースブルフとモンドリアンは対立し、モンドリアンはデ・ステイルを25年に脱退した。

ユーゲントシュティール
Jugendstil(独)

アール・ヌーヴォーのドイツでの呼称。1896年にミュンヘンで創刊された雑誌『ユーゲント(青春)』に因む命名。ドイツでは、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響下に工房や連合が設立され、そこを中核として、新しい時代に相応しい普遍的な造形が探求された。フランスのアール・ヌーヴォーと比べると、ドイツでは装飾性よりも合目的性や構造が重視される傾向にあった。ユーゲントシュティールには、数か所の中心地がある。ミュンヘンでは98年に、H・オブリスト、R・リーマーシュミット、P・ベーレンスらが、手工業芸術連合工房を設立、ドレスデンではユーゲントシュティールの理論的指導者ヴァン・ド・ヴェルドの展覧会も開かれる。もうひとつの中心地、ダルムシュタットでは、99年に大公の援助で「芸術家村」が開設、ウィーン分離派の建築家J・M・オルブリヒやベーレンスが招かれた。ヴァイマールでは、ヴァン・ド・ヴェルドが芸術顧問として招待され、1906-14年にかけて工芸学校の校長を務めた。

 『ラオコオン 絵画と文学の限界について』ゴットホルト・エフライム・レッシング
Laokoon oder Über die Grenzen der Malerei und Poesie(独), Gotthold Ephraim Lessing


1766年に刊行された批評家・劇作家のゴットホルト・エフライム・レッシングの著作。ヘレニズムの最末期、紀元前40-50年頃に制作されたと推定される《ラオコオン群像》を美学的に論じたものであり、視覚芸術と文学のそれぞれのジャンルの「限界」を検討したジャンル比較論の古典的著作である。レッシングは同じ題材から出発したヴェルギリウスの叙事詩とラオコオン群像を比較し、文学と彫刻とが、互いにいかに異なった創案を行なったのかを仔細に検討している。その際、レッシングは文学作品の特質を継起的に展開されるものとし、逆に彫刻家の創意をそこから異なる複数の瞬間が同時的に導き出されるような「含蓄ある瞬間」の選択に見た。レッシングは彫刻も絵画と同様にひとつの視点に限定されているために、この「含蓄ある瞬間」が観者の想像力に自由な活動の余地を与えるとする。ゆえにレッシングにとって造形芸術の特質とは、その「絵画性」に求められるものだった。レッシングの議論は、彫刻や絵画のメディウムの差異の峻別と個々のメディウムへの還元にモダニズム芸術の理論的・歴史的根拠を見出すクレメント・グリーンバーグや、文字と視覚芸術の区別から文人画を批判したアーネスト・フェノロサなど、近現代の美学的言説にさまざまな波及効果を及ぼしている。

 ラファエル前派
Pre-Raphaelite Brotherhood

1848年のイギリスにおいて3人の画家、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイ(英語読みではミレース)を中心に、ウィリアム・マイケル・ロセッティ、フレデリック・スティーヴンズ、ジェームズ・コリンソン、トマス・ウールナーを加え結成されたグループ。「ラファエル前派兄弟(同盟)団(Pre-Raphaelite Brotherhood)」という名前は、彼らがラファエロ(1483-1520)以前の初期ルネサンスやフランドル芸術を規範としたことに由来し、「兄弟団」と名乗ることでグループの結社的な性格を表わした。初期ルネサンスやフランドル絵画に見られる豊かな色彩と精密な自然描写に理想を見出す一方で、アカデミーの規範となっているラファエロ以降の16、17世紀のルネサンスおよびそれ以降の芸術を、構図、色彩などすべてにおいて表現方法が規制された抑圧的で不十分なものと考えた。このような考え方は19世紀初頭のナザレ派に先例をもつとされているが、彼らの思想は、ジョン・ラスキンの『近代絵画論』第1巻(1843-69、全5巻)における「芸術は自然に忠実であるべきだ」という主張に刺激されたものである。1849年3月に、この団体の頭文字「PRB」とともに初めて展覧された作品は、ロセッティの《聖処女マリアの少女時代》ある。翌年、この頭文字の意味が公にされ、ラファエル前派はルネサンス以降続くアカデミーの伝統を拒否したため厳しい非難を浴びるが、『近代絵画論』における自らの主張を体現しようとしたこの若い画家たちをラスキンは擁護した。次第に彼らは社会に受け入れられるようになったが、グループ自体は長続きしなかった。絵画、装飾芸術、工業デザインなどそれぞれの道を歩むようになる彼らだが、その後世に与えた影響は計り知れず、特に絵画においては象徴主義の最初の一派として評価されている。

リアリズム
Realism

〈現実〉の現象を直感し、理想化を避けてそれを表出することに価値を置く表現のこと。イリュージョニズムを発生させるためのさまざまな装置を駆使して外観を再現―表象する西洋絵画の、いわゆる「自然主義」とは別のものである。だが、現代的な風俗や、伝統的な主題性を欠いた対象を描いたクールベやミレーの「写実主義」は、自然主義とリアリズムとの複雑な交錯を示すものであり、自然主義とリアリズムの接近は、20世紀初頭のシュルレアリスムにも見られる。とはいえ、ほとんどすべての近現代美術は、いかにして現実(あるいは現実を構成する諸原理)を明示しうるのかという問題を、多様な関心から追究してきたといえる。シュルレアリスムのほかにも、新即物主義、社会主義リアリズム、ヌーヴォー・レアリスム、ドキュメンタリー芸術、具体などの名称に示されているように、そうした運動に共有される〈現実〉は多様な様式の発露を見るものであり、そもそも対象とされる〈現実〉が、内感に基づくものなのか、それとも客体を志向するものなのか、あるいはその両者の超克を目指すものなのか、といったさまざまな問題設定によって大きな振り幅を持たざるをえない。ゆえに、現象や自然に内在する潜勢力の可視化を目指したクレーや、芸術家の「主題」を重視した抽象表現主義の絵画形式もまた、いかに抽象的に見えようとも、それぞれのリアリズムを基盤とするのである。

リアリズム論争
Realism Debate

1946年から足かけ4年、美術批評家の土方定一と林文雄、植村鷹千代、画家の永井潔や石井柏亭らのあいだで交わされた、リアリズムの定義とそれに対応した美術の在り方に関する誌上論争。口火を切ったのは林で、黒田清輝がR・コラン系の「写実」を移植した頃に「新しい自由な対象の絵画的な構成、マアレリッシュ(絵画的)・レアリズム」が確立したとする戦前の土方の論に『黄蜂』誌上で異議を唱えた。林の主張とは、主題・描写に真実より美への偏愛が見られる黒田の絵画ではなく、新しい階級の「典型的な真実」を「見たままに描く」高橋由一のそれこそを近代美術におけるリアリズムの出発点にすべきというものであった。それに対して土方は「思想史的な意味附与と絵画的な意味附与との混同」であると林を批判し、その後も絵画の「政治的価値と芸術的価値」を満たすリアリズムの在り方が争われた。端的に言えば、林は主題に、土方は技法にそれを求めたのである。また、土方は同時代のリアリズム美術に対して「模写的リアリズムの限界」であると批判したが、当事者のひとりである永井が、模写説の否定は主観主義的傾向をリアリズムの名のもとに許容する危険性があると反論した。土方の回答はクールベの模写説を単なる理論として受容しているだけで絵画内部に結実させていないところに限界があると断じた。さらにはその三人の論争に対して植村が主体内部の「模写」表現であるアヴァンギャルド芸術までをリアリズムに含めるべきという主張で論争に加わった。その後、画壇の重鎮である石井による永井の模写説擁護、それに対する古沢岩美や植村の、そして土方の持論を貫き通す反論で、和解を見ることなくこの論争は終結していく。後の論者らは、歴史的・地理的背景を考慮しながら戦後日本におけるリアリズムを造形面から追求した土方の立場に最も理解を示している。

『リアルなものの回帰』ハル・フォスター
The Return of the Real: Art and Theory at the End of the Century, Hal Foster

批評家であり、『オクトーバー』誌の編集委員を務めるハル・フォスターの著書。1996年にMITプレスから出版された。序文でフォスターが述べるように、60年代〜90年代の美術を分析した本書は、「通時的(歴史的)な軸と共時的(社会的)な軸を、作品と理論の双方において取り持つこと」を目的として書かれた。オクトーバー派の分析方法の主流をなすポスト構造主義や精神分析理論の応用は本書でも踏襲されており、この一文からは、構造主義的な共時性と歴史的な垂直軸の併存のもと、現代美術を広範な理論的・歴史的・社会的布置のもとに捉えなおそうとするフォスターの野心が伺える。本書でフォスターは、ミニマリズムとポップ・アートを後期資本主義経済との並行性とともに論じ、またM・ケリーやK・スミスなどの作品にトラウマ的な主体が登場してきたことを着目し、そこに「おぞましい身体=リアルなもの」の回帰を見る。とはいえ、本書に一貫しているのは、作品を社会反映論的な生産物として論じる姿勢ではなく、むしろポスト・モダンの実践が既存の制度的枠組みに抵抗する理論的戦略であるとする視点である。この著作によってフォスターは、90年代以降のアブジェクト・アートや文化人類学的な傾向を持った美術にいち早く理論的な枠組みを与えた。

リージョナリズム
Regionalism

地域主義、地方主義のこと。美術の文脈では、特に1930年代のアメリカン・シーン・ペインティングの一傾向としてのリージョナリズムを指す。世界恐慌を受けて孤立主義・不干渉主義を強めていたアメリカの外交政策と呼応するように、アメリカの美術シーンも、ヨーロッパ・モダニズムや国際主義への反動的傾向を強め、写実主義への回帰が見られるようになった。リージョナリズムとは、国粋主義や排外主義へと傾く当時の思潮のなかで、アメリカ社会の精神的なアイデンティティを、地方の労働や生活、西部開拓の風景や風習を描くことに求めた一群の絵画のことである。これらの絵画では、中西部の田舎町における共同体の連帯や、そこで働く筋肉質な労働者の姿などが主題となった。そのため、都市社会における貧困や差別などの問題を描いた他のアメリカン・シーンの画家たちとは大きく異なる。ベン・シャーンら、絵画を手段として市民社会の諸問題を告発し、社会の変革を求める社会派リアリズムの画家たちが、形式的にはやや保守的だが政治的にはリベラルな立場をとったのに対し、リージョナリズムの画家たちは、工業化された近代的な都市生活への反動として移民開拓の時代を彷彿させる情景を描いたからである。そのため傾向としては、ノスタルジックな愛国主義的・保守主義的側面をもつ。

 リヴィジョニズム
Revisonism

時代によって異なる価値観や社会を再解釈することで、あるいは新しく発見された史料によって、出来事や作品を評価し直そうとすること。「歴史修正主義」「改訂主義」などともいう。歴史学において、20世紀初頭に起こった動きのひとつで、歴史解釈の定説に異論・批判などを行なう。好意的に使われることもあるが、否定的なニュアンスをもつことも多い。同じように、美術史学においてもリヴィジョニズムは起こっており、例えば印象派の隆盛によって、これまで美術史のなかで取り上げられることのなかった同時代のアカデミー派やフランス以外の国の画家の活動・作品について、近年になって再評価する動きなどがその一例である。また、ヨーロッパやアメリカを中心にして考えられていた美術史において、アフリカやオセアニア地域の美術に目を向けることも、リヴィジョニズムの一種といえよう。つまり、美術史のメインストリームとして語られてきた作品や美術運動だけに焦点を当てるのではなく、同時代に起こった、異なる動きや周辺的と考えられてきた地域の作品・作家の活動にもスポットを当てることで、より多様で、異なった切り口での美術史や新たな動きを考察することができるだろう。ただしこうした動きが過度に加速すると、かえって偏った美術史を作り出してしまうことも危惧される。

「リヴィング・スカルプチュア」ギルバート&ジョージ
“Living Sculpture”, Gilbert and George

リヴィング・スカルプチュアとはイギリスの現代アートユニット、ギルバート&ジョージの作品の中核をなすコンセプトである。1969年1月23日、ロンドンのセント・マーティンズ・アート・スクール彫刻科の学生だったギルバート・プロッシュとジョージ・パサモアは、あらゆるものが彫刻であり二人のすることすべてがアートであるという発想のもと《Our New Sculpture》という作品を学内で「実演」した。これは、メタリックなメイクを施しビジネス・スーツを着た二人が手にステッキやタバコをもって同じポーズを取り続けるというものだった。同年、テーブルの上で無表情に踊りながら何時間も歌を歌うパフォーマンス《The Singing Sculpture》をギャラリーや音楽フェスティヴァルで発表、ギルバート&ジョージの存在を広く知らしめる作品となった。このアートとアーティストが一体となったパフォーマンスは《The Singing Sculpture》、《Underneath The Arches》、《The Red Sculpture》などとタイトルを変えながら世界中で何度も再演され、「リヴィング・スカルプチュア(・シリーズ)」と呼ばれている。またこのシリーズの発表以降、彼らは自らを「リヴィング・スカルプチュア」と称している。形としての彫刻ではなく、話すことも感情を表わすこともできる彫刻になりたかったと語る二人は、手紙を出せばそれがPost Sculptureとなり、歌を歌えばSinging Sculptureになり、ついには生きることがLiving Sculptureになった。つねにスーツ姿で二人揃って作品を発表しているギルバート&ジョージにとっては、アートも日常も表裏一体であり、存在そのものがアートであることを体当たりで表現し続けているのである。リヴィング・スカルプチュアという理念は、初期のパフォーマンスから写真やヴィデオ作品へと方法・媒体をシフトしている現在でもなお、二人の根底を流れている。

レリーフ
Relief(英), Rilievo(伊)

平面を彫り込むか平面上に形態を盛り上げて起伏を与え、図像や装飾模様を表わす造形表現、およびその作品。浮彫りとも言う。イタリア語で「突出部」「浮彫り」などを意味する「リリエーヴォ(rilievo)」に由来し、その語源はラテン語の動詞relevare(「浮き彫りにする」の意)。丸彫り彫刻に背景を添えたような三次元性の強いものからほとんど凹凸のない浅い彫りのものまでさまざまな段階があり、突出部の度合いに応じて「高肉彫り」「中肉彫り」「低肉彫り」(もしくは薄肉彫り、浅肉彫り)の三つに区別される。イタリア・ルネサンス期の彫刻家ドナテッロは「リリエーヴォ・スキアッチャート(rilievo schiacciato)」と呼ばれるごく浅い浮彫りの創始者であり、微妙な大気の表現を可能にした。また、図像が地の部分から手前に浮き上がるレリーフを「陽刻」と言い、反対に図像が地より低く彫りくぼめられたものを「陰刻」、あるいは「インタリオ」「沈め彫り」と呼ぶ。19世紀ドイツの彫刻家ヒルデブラントは、浮彫りの表象する空間が現実の奥行き量に左右されず全体との関係において決定するゆえに独自の存在理由を持つとし、絵画、建築にも通底する造形芸術の原理を見出した。20世紀になると絵画と彫刻の中間的様態としてレリーフの表現性が拡張、1913年にコラージュの発展形としてピカソが始めた木や金属によるレリーフ、戦後では80年代にフランク・ステラが開始したレリーフ・ペインティングなどが有名である。

 『レフ』
Леф(露), Lef(英)

1922年、詩人ウラジーミル・マヤコフスキーと批評家のオシップ・ブリークを中心に結成されたソヴィエトの文学団体「芸術左翼戦線」、および彼らが23年から29年にかけて発刊した同名の雑誌。23年から25年には雑誌『レフ』、27年から28年にかけては『新レフ』が発刊され、休刊後の29年には論文集『ファクトの文学』が出版された。『レフ』と『新レフ』はさまざまなジャンルのロシア・アヴァンギャルドたちの活動の場となった。作家のイサーク・バーベリ、詩人のボリス・パステルナークらが作品を寄稿した。表紙はアレクサンドル・ロトチェンコによってデザインされ、ワルワーラ・ステパーノワやリュボーフ・ポポーワら構成主義者の実践や、構成主義の拠点となったヴフテマス(高等芸術技術工房)の活動などが紹介された。批評家のブリーク、ボリス・アルヴァートフ、ニコライ・チュジャーク、アレクセイ・ガンらによって芸術を工業的な生産へと移行させようとする生産主義の理論や、社会や現実との関わりを重視する文学理論や芸術論が展開された。また、映画と写真が重視され、映画監督のジガ・ヴェルトフ、セルゲイ・エイゼンシュテインらが映画論を展開した。後期の『新レフ』では作家、批評家のセルゲイ・トレチャコフが中心となり、「ファクトの文学」を掲げてノンフィクション文学の生産が主張された。

ロシア未来派
Русский футуризм(露), Russian Futurism(英)

1910年代に興隆したロシア・アヴァンギャルドの潮流。多くの詩人、作家、画家たちが新しい芸術を志向するという意味で名乗った名称。12年、ヴェリミール・フレーブニコフ、アレクセイ・クルチョーヌィフ、ウラジーミル・マヤコフスキー、ダヴィド・ブルリューク、ヴァシーリー・カメンスキー、ベネディクト・リフシッツらによるペテルブルクの詩人グループ「ギレヤ」が「未来人」を意味するロシア語「ブジェトリャーニン(будетлянин/budetljanin)」を名乗ったのが始まり。ギレヤはマニフェスト『社会の趣味への平手打ち』を発刊し、古い文学や詩を「現代の汽船から放り出す」ことを宣言した。イーゴリ・セヴェリャーニンを中心とする「自我未来派」、ボリス・パステルナークらが参加した「遠心分離機」、キエフやオデッサの詩人たちなど、未来派を名乗るグループがロシア各地で興隆した。絵画においては、カジミール・マレーヴィチ、アレクサンドラ・エクステル、ナターリヤ・ゴンチャローワ、オーリガ・ローザノワ、リュボーフ・ポポーワ、ダヴィド・ブルリューク、ナジェージュダ・ウダリツォーワらがキュビスムとイタリア未来派を総合したクボ=フトゥリズム(立体未来派)として活動した。ギレヤは絵画のクボ=フトゥリズムと密接な関係にあり、クルチョーヌィフの脚本とマレーヴィチの舞台美術による未来派オペラ《太陽の征服》(1913)を上演した。未来派の詩人たちは、「言葉そのもの」を掲げて文字の形象や音といった物質性に注目し、クルチョーヌィフは意味を超えた言葉「ザーウミ」によるナンセンス詩を制作した。ロシア革命後、マヤコフスキーは教育人員委員であるボリシェヴィキのルナチャルスキーの支持を受け、23年未来派のメンバーとともに雑誌『レフ』を発刊した。

「ロバの尻尾」
“Ослиный хвост”(露), “Donkey's Tail”(英)

1912年の3月から4月にかけてミハイル・ラリオーノフによって主催されたネオ・プリミティヴィズム絵画の展覧会。10年代のロシアでは、単純で明快な色彩や描写などの特徴を持つ民衆文化の影響を受けて、ネオ・プリミティヴィズムと呼ばれる絵画の流派が興隆した。「ロバの尻尾」展はロシア・アヴァンギャルド初期における大規模な展覧会のひとつであり、ナターリヤ・ゴンチャローワ、カジミール・マレーヴィチ、ウラジーミル・タトリン、マルク・シャガールら合計19名の画家が計307点の絵画を出展した。この展覧会において中心的役割を担ったラリオーノフとゴンチャローワは、セザンニスム(セザンヌ主義)やキュビスムといったフランスの絵画の追随をやめ、イコンやルボーク(ロシアの民衆画)などロシアの民衆芸術の素朴な様式を評価し、新しい絵画の手本をロシア国内の伝統的なフォークロアに見出そうとする態度を示した。なお、ロシア・アヴァンギャルドの画家たちに大きな影響を与えた、グルジアの画家ニコ・ピロスマニによる看板絵もこのときに展示された。

ロマン主義
Romanticism

18世紀末から19世紀前半の西欧で勃興した芸術思想、あるいはその系譜に連ねられる作家や作品を総体的に名指す言葉。ロマン主義と呼ばれる傾向や運動は、絵画のみならず哲学・文学・音楽・批評などさまざまな分野に見られる曖昧な名称であるが、その多くには個性の称揚や規範への抵抗といった一定の共通要素も見られる。もともとロマン主義とは、啓蒙期のヨーロッパにおける知性や合理性への信仰に対して、感情や非合理性を称揚する態度を指して用いられるようになった言葉である。この用法そのものは、18世紀末から19世紀初頭にかけてのフリードリヒ・シュレーゲルの著作に由来している。シュレーゲルは、形式的な古典主義文学とは異なる想像力豊かな文学を、かつての俗ラテン語(民衆語)であるロマンス語に仮託して「ロマン主義」と呼んだ。シュレーゲル兄弟やフリードリヒ・シェリングに代表されるこのドイツ・ロマン主義はその後フランスにも伝播し、ロマン主義という言葉は、芸術家の内面や精神性を強く表出する芸術作品に対して拡張的に用いられることになる。絵画におけるロマン主義も、保守的な新古典主義に対抗する一連の絵画を指しているという点で、やはり上記のような特徴が当てはまる。ただし、同じロマン主義に括られてはいても、その傾向はフランスのウジェーヌ・ドラクロワやテオドール・ジェリコー、イギリスのウィリアム・ブレイクやウィリアム・ターナー、ドイツのカスパー・ダーヴィト・フリードリヒやフィリップ・オットー・ルンゲなど、各地域のあいだでかなりの異なりを見せることも確かである。仮に便宜的な区分を用いるならば、同じロマン主義のなかでも「ラテン系」「アングロサクソン・ゲルマン系」という大まかなカテゴリーを設けることが可能だろう。なぜなら、フリードリヒに代表される後者の北方ロマン主義絵画の特徴としてしばしば挙げられるのは、崇高な自然の描写を通じた神性や超越性への志向だからである。

 

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【2012/10/10 11:10 】 | data | 有り難いご意見(0)
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