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【2025/04/29 21:57 】 |
ドイツ観念論とは? 3

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(注1) 「自我は自ら自身を規定する、と言われる限り、自我には実在性の絶対的な総体が帰属する」(『全知識学の基礎』(1794年)、SW版フィヒテ全集、第1巻、129ページ) (戻る)

(注2) 『知識学への第2序論』(1797年)、SW版フィヒテ全集、第1巻、462ページ。 (戻る)

(注3) そこでこの「意識」は、現代的に解釈すれば、現象主義者のいう現象に近いものとして――つまり、「主観」「客観」「意識」等といったものをカッコに入れての、現れるがままの現象として――、あるいはそれらの現象が現れてくる現象野として、理解できる場合も多いです。
 なおシェリングは、1801年5月24日付けのフィヒテ宛の手紙では、「意識すなわち自我が、現存する絶対的同一性 [シェリングの絶対者] のいわば南天として」(『フィヒテ-シェリング往復書簡』、座小田/後藤訳、法政大学出版局では、142ページ。1856年版では、S. 76)と書いているように、「意識」を「知的直観の自我、すなわち自己意識の自我」(同 125 ページ。S. 58)の意味で用いています。 (戻る)

(注4)『幸いなる生への導き』(1806年)の「第5講」を参照。
 しかし、フィヒテが提示した「1. 感覚的世界~5. 学問的世界」は、客観的な存在としての対象ではなく、主観的見方の多様性にすぎない;したがって、それら5つの世界はメタ世界としての資格はないから、ここに登場させるのは失当である――このような非難があるかもしれません。
 すなわち、上記 1 ~5 の世界は、神的な存在が外化して現存したもの Dasein や、あるいはそれが持続する世界となったものなどではなく、そのような一つの世界を主観的に見るさいに生じる、見方の多様性にすぎません(同書、SW版では第5巻、463ページ)。とはいえ、
A . 1 ~ 5 の世界は、たんに私たちの内面的な心情 Gesinnung を表したものではなく、特定の見方によって生じている諸対象 Objekte です(同、468ページ)。私たちの立場から言えば、森羅万象がそのような対象として存在しているわけですから、各世界をメタ世界として扱いえます。
 そもそも単一の世界しか暗黙裡に想定しない立場からは、メタ世界なるものも、主観的な見方の多様性といったことになってしまいます。つまりそれを逆に言えば、「世界の見方の多様性」ということだけでは、メタ世界を否定することにはなりません。
b. 1 ~ 5 の世界は、「神的な存在の現存 Dasein と統一されて永遠に存在しており、[ただ] 一つの意識 [=神的現存] の必然的規定性」(同465ページ)です。したがって、たんに私たちの心次第でどうこうなるというものではありません。こうした客観性からも、私たちは 1~5 の世界をフィヒテのメタ世界として、扱いえると思うのです。(戻る)

(注5)『幸いなる生への導き』SW版では第5巻、513-514ページ。 (戻る)

(注6) 同、512ページ。(戻る)

(注7) シェリング『先験的観念論の体系』、オリジナル版 (1800年)では、90ページ。(戻る)

(注8) シェリング『自然哲学の体系の最初の構想』(1799年)、シュレーター編全集、第2巻、15ページ。(戻る)

(注9) 同、5ページ。(戻る)

(注10) シェリング『先験的観念論の体系』第3章「序言」。オリジナル版では、80-81ページ。該当箇所だけの引用では分かりづらいので、「序言」の最初から訳出すると:
 「私たちは自己意識から出発するのであるが、この自己意識は一つの絶対的な活動 [ A kt] である。そしてこの一つの活動とともに、自我自体および自我がもつすべての諸規定が措定されているのみならず、これまでの章での記述から十分明らかなように、自我に対して措定されているもの一般も、措定されている。したがって、理論哲学での私たちの最初の仕事は、この絶対的活動の導出であろう。

 けれどもこの活動の全内容を見出すためには、この活動を区分して個々の諸活動へと、いわば細分化しなければならないといえよう。これら個々の活動は、前述の一つの絶対的総合 [=活動] の媒介的な諸成分 [Glieder] となろう。

 全部まとまってある状態のそれら個々の活動から、私たちが継続的に [Sukzessiv] 私たちの眼前にいわば生じさせるのは、個々の活動すべてを包括する一つの絶対的総合によって、同時かつ一時に措定されているものである。

 このような導出をする仕方は、以下のとおりである:
 自己意識の活動は、同時にそして全くもって、観念的でもあれば実在的でもある。この活動によって、
・実在的に措定されているものは、直接観念的にも措定されるのであり、
・また観念的に措定されているものは、直接実在的にも措定されるのである。
 自己意識の活動の内での、観念的に措定されたものと、実在的に措定されたものとのこの徹底的な同一性は、ただ継続的に生じるものとして、哲学においては表象される。これは次のように、進行するのである。
 自我の概念から私たちは出発するのであるが、これは「主観-客観」[この "-"は "=" の意味です] の概念である。この概念には、私たちは絶対的自由によって、達することができる。さて私たち哲学徒に対して、前述の活動によって、あるものが自我のうちに客観として措定されている。そこでまだ、主観としては措定されていない。(自我自体に対しては、一つの同じ活動のうちで、実在的に措定されているものは、観念的にも措定されている)。
そこで私たちの探求は、
・私たちに対して客観として自我のうちに措定されているものが、
・私たちに対して主観としても自我のうちに措定されていることになるまで、
続けられねばならない。
 つまり、私たちが持つ客観 [的対象] の意識が、私たち [自身] の意識と、私たちに対しても 一致するまで、続けられねばならないのである。すなわち私たちに対し、自我自体が、私たちが出発した地点に到達するまでである」。(戻る)

(注12)『精神の現象学』「序文」(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第3巻、23ページ)(戻る)

(注13) ヘーゲルはこの考えを、アカデミックな哲学シーンに最初に登場したときから、持っていたと思われます。1801年、31才のヘーゲルは、イェナ大学で教える資格をえるために、12条からなる『教授資格討論提題 H A bilit A tionsthesen』を、提出します。その提題第1条が、有名な次のようなものでした:
「1. 矛盾は真理の規則であり、無矛盾は虚偽の規則である」。(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第2巻、533ページ)     
 この引用文中の「真理」や「虚偽」に限定がなく、一般的に述べられている以上、この提題は万物に、つまり個別者にも妥当すると見なすのが自然です。すなわち、万物が矛盾を内包しており、それが真実の姿であると、ヘーゲルは言っているようです。
 しかしこれは当時としては、破天荒な考えでしょうし、危険なものさえ感じます。文字通りに受け取れば、世界全体が何かとてつもなく不安定なものとなり、また「神・真理=矛盾」とすらなります。それが提題中の冒頭に位置するところに、彼の自負・気負いをうかがうべきなのでしょう。(戻る)

(注14)ただし、このようなフィヒテからヘーゲルへの進展は、思想史的に見ればということであって、現実に『幸いなる生への導き』がヘーゲルに影響を与えたかどうかとは、一応別問題です。とはいえ私見では、現実の影響の可能性もあると思います。この点については、拙稿「『精神の現象学』成立における、フィヒテ「5世界観」の影響の可能性」を参照下さい。(戻る)

(注15) 『世界の名著 43 フィヒテ シェリング』中央公論社(1980年)では、427-428 ページ。Über das Wesen der menschlichen Freiheit, SW, Bd. VII, S. 358 f.
 なお、このような人間・神への観点に加えて、<オオカミが子羊や人間を襲ってもそれは「悪」ではない>、なぜならば・・・、ということを考えれば、おのずとシェリングの『人間の自由の本質』は、理解されようというものです。(戻る)

(注16) Urfassung der Philosophie der Offenbarung, Felix Meiner Verl A g, 1992, S. 7.(戻る)

(注17) 「全体者の諸契機は、意識の諸形態である」。(『精神の現象学』緒論(Einleitung)、Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第3巻、80ページ)(戻る)

(注18) 『超越論的観念論の体系』、1800年の Original A usgabe, VIII-IX ページ。(戻る)

(注19) 「多数の生命 [個別者] が、[互いに] 対置している。これら多数の一つの部分は(この一つの部分そのものがまた、無限に多くのものより成っている。というのもそれは生あるものだから)、その存在を [それらから成りたっているところの無限に多くのものの] ただ統合としてもつのであり、関係のうちでのみ考察される。
「別の部分は・・・その存在をただ前述の部分からの分離によってもつのであり、対置のうちでのみ考察される。そこで前述の部分もまた、その存在をただこの別の部分からの分離によって、規定されるのである」。「1800年の体系断片」、Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第1巻、419ページ。(戻る)

(注20) なおここでの B, C, …は、『精神の現象学』においての「このもの」「物」…に該当することはもちろん、例えば『論理学』での「有」「無」…などにも該当します。といいますのは、論理の領域においては、すべてはまず「有」であり、ついでそのすべては「無」となり、…と展開していくためです。むろん「無」となっても、先行する「有」が否定態として保存されているため、まったく消失してしまうのではありません。(戻る)

(注21) K. ローゼンクランツ『ヘーゲル伝』、中埜肇訳、みすず書房(1991年)では、183ページ。1844 年の初版では、S. 201.
 なお、ヘーゲルのシェリング批判(ヘーゲル本人の弁では、シェリングの亜流への批判)としては、「すべての牛が黒い夜」(GW, Bd. 9, S. 17)などが書かれている『精神の現象学』「序文」が、ポピュラーです。しかし、これはシェリング哲学への批判としては、意味をなしません。ヘーゲルから『精神の現象学』を送られたシェリングが、その後彼への手紙で、的確に反論しています:
「だからぼくは今までに、序文しか読んでいない。君自身が序文の論争的な部分で述べていることに限っていえば、ぼくがこの論争に係わるためにはあまりにも自分を――正しい自己評価になっている範囲内においてだが――軽んじなければならないだろう。だからこの論争は、君がぼくへの手紙で言ってるように、ともあれ [シェリングの思想の] 乱用や [シェリングの] 模倣者に対して向けられたものなのだろう。もっとも序文そのものにおいては、[シェリング本人と乱用・模倣者との] 区別がつけられてはいないが。・・・
 「そこで打ち明けると、君は概念を直観に対置させているが、その意味が今もってぼくには理解できない。概念ということで君が考えられるのは、君とぼくが理念と名づけたもの、それしかないはずだ。この理念の性質(N A tur)は、理念がある面では概念であり、別の面では直観であるということだ」。
(Meiner 社の哲学文庫版 BRIEFE VON UND A N HEGEL (J. Hoffmeister 編)の 194 ページ。なお、上記の手紙の訳については、「シェリングのヘーゲル宛、最後の手紙(1807年11月2日付)」を、参照下さい)。

 けれどもこの限りでは、シェリングの反論が正しいとはいえ、ヘーゲルの真意を忖度(そんたく)すれば、直観が直接知なのに対し(むろん豊かな内容を持ちえますが)、ヘーゲル的概念は媒介知(自らを媒介する)だと言えます。この意味で直観とヘーゲル的概念は異なる、としなければ、ヘーゲル哲学が成立しないことになります。
(むろん初期のヘーゲルは、シェリング的な観点から、直観と概念の同一性を主張していました。例えば、1801年の『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』では:
「超越論的な知と超越論的な直観は、一つのものであり同一である。[知と直観という] 相異なる表現は、たんに観念的要因の優勢さを、あるいは実在的要因の優勢さを、示しているにすぎない」。
「超越論的な本質が、反省と直観を統一する。超越論的本質は、同時に概念であり、存在である」)。(ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第2巻、42ページ)

 なお、シェリングの同一哲学が「すべての牛が黒い夜」ではないことは――むしろ世上ヘーゲルの思想だとして紹介されるものと、そっくり(!)なことは――、以下の引用文が示すとおりです。少し長くなりますが、1806 年のシェリングの著作『改訂されたフィヒテの説と、自然哲学との真実な関係の説明』の一節です:

「理性に見捨てられた単なる悟性が、自ら自身を超え出ようとし、制限と対立から抜け出ようとするとき、この悟性が達する最高のものは、対立の否定である。すなわち空虚で非創造的な統一である。この統一は、その反対物をたんに神聖ではないもの、神的ではないものとしてしか措定できず、また排斥することしかできない。その反対物を自ら自身のうちに受け入れて、自身と真に融和させる(versöhnen)ことはできないのである。
「したがって、この悟性は統一を措定しながらも、その統一自体と対立との間の矛盾を存続させてしまう。このために悟性は統一自体をも、真に措定はしないのである。ところが理性は、統一であると同様、根源的にまた真に対立でもある。そして理性は、この統一と対立を同じように、また1つのものとしてさえ、把握する事によって、活ける(lebendig)同一性を認識する。対立は存在しなければならないのである。なぜなら、生(Leben)が存在せねばならないからである。というのも対立自体が生であり、統一内での運動だからである。
「とはいえ真の同一性は、対立自体を克服されたものとして、自らのもとに保持している。つまりこの同一性は対立を、対立としてまた同時に統一として、措定するのである。こうして初めて、この同一性は自らの内で活動的な、湧き出、創造する統一なのである」。(Sämtliche Werke, I, Bd. 7, S. 52)(戻る)

(注22) 「絶対的な全体性は・・・」ではじまり、編集者によって『体系のための1ページ』と題された草稿中に、次の2段落があります:
「[異なる諸構成要素(Glieder)の] 統一は、[絶対的全体の直観という] 理念のうちにあり、理念自体への関係においてある。そして [理念と] 実在する対立との統一、すなわち、単純なる理念自体のうちで必要とされていないものは、また対立 [する構成要素] 自体のうちでも、措定されてはいないという統一 [が存在する]。
「そこで、関係づけられたものとその関係とが、区別されえるかもしれない。つまり、
α) 対立する2つの構成要素 [=関係づけられたもの] と、
β) この2つの構成要素間の2つの関係との、すなわち、
αα) 1つの関係は、ただ2つの構成要素の統一へと反射し、
 [ββ)] 他の関係は、ただつの構成要素の対置へと反射するような、
2つの関係との、区別である。しかし、まさにこれらの関係は、それら自体が2つの構成要素なのである」。(GW, Bd. 7, S. 348f.)
 なお、この草稿が1804年頃であることについては、G. W. F. Hegel: Jen A er Systementwürfe II (Felix Meiner Verl A g, Philosophische Bibliothek) でのHorstm A nn 氏の序文 XXIII ページを参照。(戻る)

(注23) 止揚される個別者が、観念的であることについては、例えば、
・「d A s A ufgehobene (d A s Ideele)」(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第3巻、113ページ)
・「『有限なもの [=個別者]は観念的である』という命題が、観念論を形成する」(同書、172ページ)
などの記述があります。(戻る)

(注24) フィヒテにおいては、神と自我の両者が存在において通底はしています。例えば:
「知的存在(die verständigen Wesen)である私たちは、その在るところについて言えば、かの絶対的存在(Sein) [=神] ではありえない。しかしながら、私たち現存(Dasein)の内奥の根底においては、絶対的存在と連関しているのである」。(『幸いなる生への導き』、第4講。SW, Bd. V, S.448)
 けれども、両者が、別のものだという点では、シェリングと同じです。その上、、神は「永遠に自己と同一であって、変化しない」と言われます。(『幸いなる生への導き』の「内容目次 第1講」。SW, Bd. V, S. 575.(戻る)

(注25) 『超越論的観念論の体系』、1800年の Origin A l A usg A be、IX ページ。(戻る)

(注26) 2 人の観念論にそれぞれ「主観的」「客観的」という形容句を与えた嚆矢は、おそらくシェリング自身だと思われます:
 「例えばフィヒテは、観念論をまったく主観的な意味において考え、それに対して私 [シェリング] は、客観的な意味において考えたということもありえよう。」
(『私の哲学体系の叙述』(1801年)序文, オリジナル版(SW版)全集、第 I 部、第4巻、109ページ)
 ただここで注意すべきは、「フィヒテは、観念論をまったく主観的な意味において考え」たという表現をとるにしても、フィヒテの考える意識は現代風に言えば「意識自体の透明性に立脚した、客観的対象についての意識」だということです:
 「例えば、2 点間を通る直線はただ1本であるという、貴方の意識を理解してみて下さい。まず、貴方はこの意識のもとで、まさに自己把握(Sich-Erfassen)と透過性(Durchdringen)を、明証化の活動を持っています。そしてこれが、私が依拠する点(Grundpunkt)なのです」。(1801 年 5 月 31 日/8 月 7 日付のフィヒテのシェリング宛手紙。『フィヒテとシェリングの、哲学的往復書簡集』、1856年版では84ページ)

(注27)『知識学の概念について』(1794年), SW, Bd. I, S.59.

(注28) シェリング自身は、フィヒテ知識学との違いをどのように考えていたのかということですが、端的には次の文言が表していると思います。自然哲学についての諸論文を発表し、主著の一つである『超越論的観念論の体系』をも著した直後に、フィヒテ宛の手紙(1800年11月19日付け))でシェリングが述べたものです:

 「[フィヒテならびにシェリングの] 超越論哲学と [シェリング独自の] 自然哲学の対照(Gegens A tz)が、眼目となります。私は貴方に次の点だけは、確言できます:私がこの対照をもちだす理由は、[超越論的観念論に関すると思われている] 観念的活動と、[自然哲学に関すると思われている] 実在的活動を区別するためではなく、それよりは高次なことのためです。・・・
 「[両者を区別するかどうかといった論点については、私は貴方と同じ立場です。すなわち、] 私も貴方と同じく、2つの活動を一つの同じ自我のなかに措定しています。――したがって、この点には両哲学を対照する理由はありません。
 「理由は以下の点にあるのです:まさに前述の自我、すなわち、観念的=実在的であって、もっぱら対象的であるような、またそれゆえにこそ同時に生産的でもあるような自我が、この生産そのものにおいて、自然に他ならないのです。知的直観である自我、すなわち自己意識である自我 [=超越論的観念論を形成する自我] は、ただこの自然のより高次のポテンツ [=段階] なのです。

(注29)シェリングは、この点を強く意識し、フィヒテに主張してもいました:
 「[フィヒテの 1801年の著作である]『明快な報告』で述べられている観念論は、私 [シェリング] にはかなり心理学的なものに思われます」。(Fichtes und Schellings philosophischer Briefwechsel, 1856, S. 107. 『フィヒテ-シェリング往復書簡』座小田/後藤訳、法政大学出版局では、168-169ページ)
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 カントを含めない理由は?

 私たちとしては、次のように用語を使い分けたいと思います:
カントの哲学は「批判哲学」;
カントの活躍した時代から、ヘーゲルの時代まで哲学者たちが輩出しますが、それらをまとめて言うときには「ドイツ古典哲学」;
フィヒテ・シェリング・ヘーゲルの哲学は、「ドイツ観念論」。

 フィヒテら3人の哲学は、「① ドイツ観念論とは?」で述べましたようにメタ世界観をとりますから、3項図式に立つカント哲学とはまったく異なります。実際、フィヒテはカント哲学を基礎づけようとして、知識学を著したのであり、カントを発展・詳述しようとしたのではありません。基礎づけるものは、基礎づけられるものとは次元を異にせざるをえません。(注3)
 カントはフィヒテの考え方が分かっていない、いやフィヒテの著作をきちんと読んでさえいないと、シェリングは嘆きました。それに対してフィヒテは、彼はもう老人なのだから、責めてはいけないと諭しています。(注1) 

 ところで簡単な哲学史では、カントの次にはヘーゲルが紹介され、両者が対比されます。フィヒテとシェリングは飛ばされがちです。そしてヘーゲルの重要概念である「矛盾」なども、カントの著作に淵源するかのように説かれます。これでは、ドイツ文化史としてはいいのかもしれませんが、たとえ簡略化されたものにせよ、哲学史としてはおかしいのです。
 たとえば、日本史を教えるのに、室町時代後期の戦乱(戦国時代)から、(安土・桃山時代は30年前後しかなかったという理由で)信長・秀吉をとばして、徳川家康の江戸時代に進んだとしたらどうでしょうか。外国人相手であればそれでもいいのかもしれませんが、日本人に対しては、たとえ小学生であっても、日本史を教えたことにはならないでしょう。
 第三者としてみるとき、ドイツ観念論の3人には哲学的な強い絆があります。また、それぞれが著作をするときには、互いの著作や、それらを読んだ読者が前提となっています(もっとも、フィヒテはヘーゲルをほとんど意識しなかったようですが)。私たちがそれぞれの哲学者を十分に理解しようとするときには、他の2人の理解が不可欠となるのです。

 カント哲学に対する態度は、フィヒテの場合は上述したようなことであり、さらに、カントの精神は継承するが、彼の著作の字句は引き継がない、この点では世間のカント学者と反対であると、彼は考えていました。
 シェリングとヘーゲルは、カントの歴史的意義は最大限に認めており、彼の哲学はとうぜん心得ていますよ、といったポーズのもと、しかし私は新しい決定的にすぐれた哲学を出すんです、というスタンスです。(注2)

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(注1)シェリングからフィヒテ宛の書簡(1799/9/12)、フィヒテからシェリング宛の書簡(1799/9/12?, 1799/9/20) を参照。 
 これらの書簡は、師(カント)と弟子(フィヒテ)間の、愛と悲劇の1つの典型を物語っており、涙なくしては読めないものとなっています。
 老カントは、フィヒテの作品に対してだけ冷淡であったというのではなく、若い人の著作一般に対して、直接読むということはあまりしなかったようです。カント哲学を批判したシュルツェの『アイネシデモス』に対するコメントも、「2次的な」知識に基づいてのようです(MEINER 社版『アイネシデモス』(1996年)、M. Frank の Einleitung, XVIII ページ)。(戻る)

(注2)こうした事情を窺わせるものとしては、シェリングがカントの逝去に際して書いた『イマヌエル・カント』(1804)があります。いろいろな意味で興味深いオマージュとなっています。 (戻る)

(注3)フィヒテ自身の言葉では:
「私の体系は、カントの体系と異なるものではない。つまり私の体系は、事柄についての同じ見解を含んでいるが、しかし論じ方 Verf A hren においては、カントの叙述からはまったく独立している」。(『知識学への第1序論』SW版、第1巻、420ページ。) (戻る)
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 カントからフィヒテへの進展の経緯は?

 カントに心酔していたフィヒテが、1794年に自らの哲学「知識学」を形成するまでの、思想的な道筋をこれから検討します。しかし、カントの『純粋理性批判』(1781)から『全知識学の基礎』までの、ドイツ思想界の全体的な状況を説明することは、私の手に余りますし、またここでは必要ないでしょう(注1)。
 フィヒテの最初の主著である『全知識学の基礎』(1794年9月)に先だって、同年4月にいわば予告編として出版された『知識学の概念について』には、次のように記されています:
「懐疑論者たち、とくにアイネシデモス [=シュルツェ] や、マイモンのすぐれた著作を読むことによって、筆者は以前から予感していたことを、確信するにいたった。つまり、哲学は最近の鋭敏な人々 [カントとラインホルトを指す(注19)] の尽力をもってしても、なお明証的な学問の段階へとは高まっていないのである。」(注2)
 このフィヒテ(1762-1814)の述懐からは、彼の思想形成の過程で、カント(1724-1804)、ラインホルト(1758-1823)、シュルツェ(1761-1833)、マイモン(1753-1800)が重要な役割を果たしたことがうかがえます。そこで順に見ていきましょう。

(1) カント哲学の非原理性
 フィヒテの人生に方向を与え、青春を救ったともいえるカント哲学でしたが、「なお明証的な学問の段階へとは高まっていない」と、彼が『アイネシデモス』を読む以前から感じていたのは何故なのか、これについてははっきりしません。しかし、カント哲学に対する不満は、なにもフィヒテや少数者だけのものではなく、当時多くの人たちが持っていました。上記のシュルツェに言わせると:
「ドイツ各地の大学では、少なからぬ哲学教師たちが、『純粋理性批判』の主要な諸説が真理かどうか、確信をもてないでいる。それらの教師たちは、『純粋理性批判』を偏見を持たないで注意深く研究しており、・・・その上、<この名著に頑固に敵対している輩は、この著作が前提とした出発点 [=問題意識] も、結論も理解してはいない>と、認めてもいるのだが」(注3)。

 ふつう、「カントの哲学では、理論理性と実践理性が分裂していたのを、フィヒテが統一しようとした」などと、紹介されます。でもこれでは、カントの理論理性はそのものとしては、十分であったかのようです。しかしカント哲学の薫陶を受けはしても、若い世代から見れば、それは理論理性自体としても学問的に問題をはらんでいたのです。したがって事態は、もっと深刻でした。
 その不満な理由は各人いろいろあるにしても、最大公約数をとってみれば、カント哲学は結局のところ原理的な基礎付けを欠いている、ということだと思われます。当時、哲学あるいは学問の理想は、ユークリッド幾何学にみられるように、1つあるいは少数の自明の原理から、すべての部門・事柄を包括する内容を導出して、厳密な体系を構成することでした(注18)。(ラインホルトやフィヒテが目指したものも、こうした哲学でした)。(注4)
 ところがよく知られているように、「カントは――後年のシェリングからの引用になりますが――、認識の本質については一般的な探求をすることなく、すぐに個々の認識源泉の列挙へ・・・向かいました。これらの諸源泉を、カントは学問的に導出したのではなく、たんなる経験から採用したのです。彼の列挙の完全性や正しさを保証するような、そうした原理はありませんでした」。(注17)
 また、カント哲学はいわゆる三項図式「客観(物自体)―意識内容(現象)―主観」から成りたっており、存在論的になんら共通性をもたぬ3項を前提にしています。口悪く言えば、対象の側でのわけの分からぬ物自体、主観の側でのこれも不可知な物自体としての心、そして両者の合作とされる表象からできており、これではいかにこれら3項を関連付けるにせよ、どこか無理がでてくるのもいたし方ないといえます。(注5)

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