× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
![]() |
「フルクサス・フィルム」 1960年代に制作された、フルクサスのアーティストによる映画アンソロジーを指す。フルクサスとはジョージ・マチューナスによって61年に開始された広範な領域に及ぶ芸術運動である。フルクサスのアーティストたちは、マルティプルの販売やハプニングなどによって、芸術の領域を逸脱した多くの試みを行なっていたが、そのなかでフィルム作品も制作していた。このような映画は、マチューナスによって「フルクサス・フィルム・アンソロジー」としてまとめられている(複数のヴァージョンが存在する)。参加した主なアーティストは、ナム・ジュン・パイク、ディック・ヒギンス、マチューナス、塩見千枝子(允枝子)、オノ・ヨーコ、ジョー・ジョーンズ、ヴォルフ・フォステル、ジョン・ケール、ジョージ・ランドウ(オーウェン・ランド)、ポール・シャリッツ、ミラン・クニザックなどである。これらのアーティストは、ランドウとシャリッツを除いて、本来は実験映画作家ではない。以下、それぞれの内容について簡単に言及しておく。白コマ(抜け)のフィルムに付着した微細な埃を見せるパイクの『Zen for Film』。リーダーのカウントによって、その物理的な時間の長さを測るマチューナスの『10 Feet』や『1000 Frames』。微笑む表情をスローで見せる塩見の『Disappearing Music for Face』。さまざまな人の尻を撮影したオノの『Four』。口から吐かれたタバコの煙をスローで見せるジョーンズの『Smoking』。TV映像を変調させたフォステルによるヴィデオ・アートの先駆的作品である『Sun in Your Head(Television Decollage)』。激しいフリッカーがイメージや単語を伴って立ち現われるシャリッツの『Wrist Trick』や『Word Movie』。カメラの前でパフォーマンスを行なうクニザックやベンなど。これらのフィルムは短いものなら数秒の長さであり、コンセプチュアル・アート的な作品が揃っている。フルクサスの映画はハプニングを記譜したものである「スコア」と同列でとらえられる、芸術的・文化的制度を逸脱した試みであり、上映においても映画の固定的なシステムを問い直すものであった。現代美術と実験映画のコンテクストが交差する地点で生まれたフィルム制作の試みとして重要である。
フレーム
狭義には絵画の額縁を指すが、現在ではそのような物理的な枠に加え、画面内の空間と外部の現実空間を隔てる非物質的な境界という意味も内包している。初期ルネサンスの建築家レオン・バッティスタ・アルベルティの『絵画論』(1435)では、画家は絵画を「開いた窓」に見立てており、遠近法を用いて描かれた絵画は、額縁がもつ「窓」の性質によって再現性が担保されていた。しかし、そのような視覚的再現=表象性は、近現代以降の絵画において批判の対象となり、境界領域としてのフレームがもつ作用についても俎上に載せられた。例えばクレメント・グリーンバーグは論文「モダニズムの絵画」(1965)において、それら絵画を長年支配してきたリアリズムやイリュージョニズムが、メディウムの本質を隠蔽してきたとして、還元不可能な絵画の本質を平面性に見出した。フランク・ステラのシェイプド・キャンヴァスは、矩形の形態から逸脱していながらも、それら60年代に制作されたシリーズにおいて描かれたモチーフがキャンヴァスの輪郭線と一致していることから、グリーンバーグによるフォーマリズムの影響がうかがえるだろう。さらにロザリンド・クラウスは、オディロン・ルドンら象徴主義の画家が画面内に描いた窓の形態から、20世紀以降の絵画がもつ幾何学的構造としての「グリッド」の概念を抽出した。グリッドは求心的/遠心的性質をもち、特に遠心的性質は作品の内側から外側へと作用し、「フレームを越えた一つの世界の認識」を鑑賞者に強いるものとされる。そのようなグリッドがもつ連続性は、絵画における知覚の問題に留まらず、アンディ・ウォーホルらの写真を用いた作品や、ルイーズ・ネヴェルソンの建築空間に関連が見られる立体作品まで拡張可能な概念として、展開された。
フロッタージュ 拓版。拓摺。凹凸の上に紙をのせ、鉛筆やクレヨンなどでこすって模様を写し取る技法。フランス語で「こする」を意味するfrotterに由来。原理的には古くから「拓本」として東洋で行なわれている原始的な版画技法。刷り上がりは孔版と同じく図像が左右反転しない。また、版面の裏側が作品となる「正面刷り」(浮世絵で活用される)の一種である。薄く柔軟性がありこすっても破れにくい紙が適しており、図像は素材の凸部が濃く、凹部は薄く色がつく。グラッタージュはこの応用。作品に与える偶然性は低いが、原版の作成が必要なく既存物の姿が直接紙上に浮かび上がるこの手法をシュルレアリスムはオートマティスムの一種と位置づけた。通常「フロッタージュ」と称する場合はM・エルンストをはじめとするシュルレアリスムの作例を指すことが多い。エルンストの主張によれば1925年に古い床板の荒れた木目に着目してこの手法を美術に取り入れたとされるが、彼は既にケルン・ダダの時期(1917-22頃)より実験的に試みていた。エルンストのフロッタージュを集めた『博物誌』はシュルレアリスムの代表的出版物として名高い。キリストが自らの顔に布を押し当てて姿を転写したというイコン唯一のオリジナル「聖顔布(マンディリオン)」も、(こすったかどうかはさておき)フロッタージュといえようか。
ブラウエ・ライター(青騎士) 20世紀初頭のミュンヘンを中心としたW・カンディンスキーやF・マルクらによる芸術運動、またはその名称を冠した年刊誌を指す。カンディンスキーは1904年から08年までヨーロッパ各地を旅行し、ドイツのミュンヘンに戻った後、09年に「ミュンヘン新芸術家協会」を結成し会長を務めた。しかし、協会内の対立と第三回展審査会での出品拒否を経て同協会を脱会。支持者であり友人のマルクとともに、「ミュンヘン新芸術家協会」展と同じタンハウザー画廊で、11、12年に開催された展覧会と、12年に刊行された年刊誌『青騎士』(二巻以降は未刊)が「ブラウエ・ライター(青騎士)」の中心的な活動とされる。「青騎士」の名称は、二人とも青を好み、カンディンスキーが騎士を、またマルクが馬を好んだことが由来とされる。成立にはアカデミズムの形骸化や分離派などの前衛芸術の活動、またユーゲントシュティールやR・ワーグナーの楽劇に見られる総合芸術観の影響がうかがえる。また、A・マッケやP・クレー、R・ドローネーといった画家に加え、ブリュッケ、ロシア未来派の画家などが展覧会に参加していることは、「青騎士」が明確な教義を標榜する集団ではなかったことを示している。カンディンスキーとマルクの編集による『青騎士』は、絵画に限らず詩や音楽も含めて同時代の芸術動向に眼を向けており、産業革命以後の物質主義的な文明に対抗するために、抽象絵画において形態の「内的必然性」を模索するというロマン主義思想が見て取れる。「青騎士」は、第一次世界大戦の勃発によるカンディンスキーのロシアへの帰国やマッケらの戦死により解散となるが、民衆版画や児童画なども肯定的な評価をした点においては、当時の他の芸術動向と一線を画している。
ブリコラージュ フランス語の「bricoler」(素人仕事をする、日曜大工をする)から。ありあわせの手段・道具でやりくりすること。通常「器用仕事」と訳される。ある目的のためにあつらえられた既存の材料や器具を、別の目的に役立てる手法。C・ L=ストロースが『野生の思考』(1962)において、構成要素の配列の変換群(使い回し)で成り立っている「神話的思考」を比喩的に示すのに用いた。「神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるといってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。(中略)したがって神話的思考とは、いわば一種の知的な器用仕事である。」器用人(ブリコルール)も、それに対置される職人(エンジニア)も、所与の材料はむろん無限ではありえない以上厳密な差はないとも言えるが、概念を基に新たな物を作り出す後者とあらかじめ与えられた記号を再利用する前者の態度は異なる。文字通りの素材の二次利用から引用表現まで適用範囲がきわめて広いために便利な用語としてまさしく使い回されている感があるものの、ブリコラージュによって目的と手段がコンテクストから切り離されて別の場所で融合することで、新たな意味作用を生むという指摘はレディメイドを考える上でも示唆に富んでいる。
分割主義(ディヴィジョニズモ) 1880年代後半から1900年代初頭にかけて、イタリアのミラノを中心地として興った絵画の流派。筆触分割の手法で描いた点において、しばしばフランスの新印象主義と比較される。キャンヴァス上に異なる純粋色を並置し、より明るく鮮やかな色彩を網膜上にもたらそうとするのが筆触分割の原理だが、イタリアの分割主義者はこれを経験に即して採用し、絵具の混色や厚塗り技法との組み合わせで精緻な画面をつくりあげた。点描ではなく線条の筆触が好まれたのも特徴のひとつで、描写は写実性が強く、身近な現実世界、統一後のイタリアが直面した社会問題、あるいは現実から離れた観念的、幻想的世界などが主題となった。とりわけ象徴主義や神秘主義との結びつきは強く、多くの画家が光の表現に内面の探求という側面を重ね合わせた。精神性を重んじる風潮は、19世紀末に興隆した実証科学主義からの反動、ローマからミラノへと波及したラファエル前派の流行が後押ししたものと考えられる。印象派の動向すらも本格的に伝えられていなかった当時、新印象主義についての情報を海外から仕入れたのは、画商、画家にして理論家のV・グルビシーである。ミラノからスイスに拠点を移したG・セガンティーニも、グルビシーの助言により1886年頃から筆触分割による制作へと向かう。91年の第1回ブレラ・トリエンナーレでは、セガンティーニの《2人の母》とG・プレヴィアーティの《母性》をはじめ、A・モルベッリやE・ロンゴーニの作品が賛否を呼び、分割主義の存在を公衆に知らしめる重要な年となった。そのほかの代表的な画家に、G・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード、P・ノメッリーニなど。G・バッラ、U・ボッチョーニ、C・カッラといった未来派の画家たちも、活動の初期に分割主義を経由している。マッキアイオーリと未来派を繋ぐ前衛美術として、重要な位置を占める流派である。
プライマリー・ストラクチャー 比較的単純な幾何学形態で構成された1960年代の彫刻の傾向のこと。66年にニューヨークのジューイッシュ・ミュージアムで開催された「プライマリー・ストラクチャーズ:アメリカとイギリスの若手彫刻家たち」展によって展開された概念。42名の新鋭作家が選出され、同館学芸員のキナストン・マクシャインのキュレーションにより組織された。展覧会の発案はマクシャインと批評家のL・リパードによるものである。両者は当時の彫刻に共通して施された彩色表現にも注目し「原色(primary color)」の意味に倣い、色彩とミニマルな形態による効果を「構造(ストラクチャー)」の語のもとに捉えようとした。ミニマリズムの代表的作家であるD・ジャッド、R・モリス、R・ブレイデン、R・グローブナーの大型作品が一室に集めて展示されるなど、ミニマリズムのイメージは、この企画によって一般に浸透してゆくことになる。しかし総体としては、具体的な対象を想起させるように曲線や流線型を用いた作家たちや、キュビスム的なコンポジションを採用していたA・カロなどが出品していたため、展覧会の内容自体がミニマリズムのイデオロギーと完全に合致するわけではない。
ホワイト・キューブ 「白い立方体」。1929年に開館したニューヨーク近代美術館(MoMA)が導入し、展示空間の代名詞として用いられる。かつては王侯貴族や宗教者が富や権力の象徴としてコレクションを邸宅内のギャラリーや宗教空間に展示したが、近代社会の到来とともにコレクター層が変化し、美術作品の社会的なあり方や作品そのものも変化した。公共性に支えられた近代の美術館制度が制度としての「美術」を存続させるためには中立性を担保する象徴的空間が必要であり、何もない空間ゆえの可変性と柔軟性を特徴とするのは、近代美術が鑑賞体験の純粋性を追及したゆえである。建築史家の藤森照信はホワイト・キューブを「白い立方体の箱に大きなガラス窓がついた建築」とし、バウハウス、ル・コルビュジエ、ミースによるモダニズム建築のひとつの到達点とし、《青森県立美術館》(2006)を設計した青木淳はホワイト・キューブを「空間をサイズとプロポーションと光の状態だけに」抽象化し、その緊張感に満ちた空間の魅力をある種の無根拠性に求めた。現代美術館としては《金沢21世紀美術館》(2004)でもホワイト・キューブを曲線により統合したデザインでまとめられ、また《ビルバオ・グッゲンハイム》(1997)が装飾過多な外観にもかかわらず内部にホワイト・キューブを採用したように、その汎用性により現在に至るまで美術館空間としての絶対的な地位を確保しているのは確かだろう。
「多元主義」もしくは「複数主義」。ごく一般的に定義するならば、プルーラリズムとは複数の異なる価値観の共存をめざす立場を意味する。近現代美術の文脈でプルーラリズムという言葉が用いられる場合、その対象としてはまず「文化」と「様式」が考えられる。(1)前者の「文化」に関連づけられたプルーラリズムは、「多文化主義」もしくは「文化多元主義」(multiculturalism)とほぼ同じ立場として理解されることが多い。多文化主義については本辞典内の同名の項目で詳述したため、ここではより範囲を絞って後者のプルーラリズムについて解説する。(2)後者の「様式」におけるプルーラリズムは、1970年代頃から顕著に見られるようになった立場である。前衛や近代主義の失効が唱えられたこの時代、それまでの直線的な様式の交替としての美術史に対する異議申し立てが同時多発的に聞かれるようになった。すなわち、アルフレッド・バーJrが「キュビスムと抽象芸術」展(1936)におけるモダン・アートのチャートで提示したような特定の様式の交替ではなく、むしろ異なる複数の様式の併存が唱えられ始めたのである。このような主張が登場した時代背景としては、さまざまな方向に拡散する作品に対して単一の批評基準がもはや有効ではなくなったこと、従来の西洋中心主義的な「美術史」そのものが見直されはじめたことなどが挙げられる。こうしたプルーラリズムの立場は、従来の支配的な価値観に対する有効な批判となりうる一方、過度の相対主義へと至る場合には反対に批判性の欠如を示すことにもなるという点には留意する必要がある。
ポストモダニズム
「ポストモダン」とは「近代(モダン)以後」を意味する。ただし「近代modern」という言葉は、たんなる時代区分を指すものにとどまらず、しばしば19世紀以降の近代的な文化や価値観の総称としても用いられる。よって、「ポストモダン」「ポストモダニズム」もまた、そうした「モダン」「モダニズム」の文化や価値観に対する批判的態度の総称であると見なすことができる。広義の芸術において、このポストモダニズムという言葉が用いられた最初期の例がチャールズ・ジェンクスによる『ポストモダニズムの建築言語』(1977)である。ただし、ジェンクスの著作はモダニズム建築にかわる代替案を提示したものであり、上記のような意味での「近代(モダン)」に対する批判という側面はさほど強くない。冒頭で整理したような意味での「ポストモダニズム」が強く喧伝されるようになったのは、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』(1979)以降のことである。同書の中でリオタールが述べるところによれば、これまでの科学はみずからを正当化するために「大きな物語」としての哲学を必要としてきた。リオタールは、このような「大きな物語」に準拠していた時代を「モダン」、そしてそれに対する不信感が蔓延した時代を「ポストモダン」と呼んでいる。したがってリオタールの定義によれば、ポストモダンとはこうした科学の基礎づけとしての「大きな物語」が失われた時代だということになる。
マティス回顧展 ニューヨーク近代美術館(MoMA)において、1931年に開催されたフォーヴィスムの画家として知られるアンリ・マティスの大規模な回顧展。マティスがアメリカではじめて大々的に紹介された展覧会で、MoMAの初代館長アルフレッド・バーJrによって企画された。バーは、マティスの芸術は時代を下るに従って進歩するという前提のもと、彼の画業を時系列に追い、その時々の作品様式と変化を同時代の他の芸術運動やアーティストとの関連より比較、分析した。さらにこの展覧会のカタログは、掲載作品すべての収蔵先や文献など詳細な情報を網羅し、マティスの美術史上の位置づけを明確化するとともに、バーによるマティス論文が掲載され、学問的に重要なものとなった。このカタログは、現在においてもなおマティス研究の重要な基礎的文献とされ、また、現在に継承されるカタログの形式を確立したという意味において、記念碑的なものとなっている。さらに、この展覧会でバーは、いわゆるキャプションのような作品情報を記載したラベルを作品の側に貼りつけ、鑑賞者の作品理解の手助けとしたが、こうした展示が行われたのも本展が最初であった。このマティス回顧展は、マティスの画業を早い段階で紹介した美術史上重要な展覧会であると同時に、現在に繋がる展覧会の形態を築いたという意味においても重要なものとなっている。
マニエリスム
マニエリスムとは、16世紀中頃から末にかけて見られる後期イタリア・ルネサンスの美術様式を指す。この名称は、イタリア語の「マニエラ(maniera)」に由来し、「手法」や「様式」を意味する。ミケランジェロやラファエロの「手法」を評価するにあたり、ヴァザーリはこの「マニエラ」に「自然をも凌駕する高度な芸術的手法」という意味を付加した。しかし17世紀、バロックの時代に入ると、盛期イタリア・ルネサンスの終盤から16世紀末までの芸術家への評価が、ルネサンス絶頂期の画家たち、特にミケランジェロの手法を繰り返すだけの模倣者とみなされるようになってしまった。そのため、マニエリスムという名は「創造性を失った芸術」という否定的な呼称として使用されるようになったのである。このような過小評価から脱し、マニエリスムが再評価されるのは20世紀に入ってからのことで、盛期イタリア・ルネサンス以降の芸術動向を表わす様式名として定着していった。
『ミノトール』 『シュルレアリスト革命』(1924-29)、『革命に奉仕するシュルレアリスム』(1930-33)に続く、1933年発刊のシュルレアリスムの芸術誌。アルベール・スキラ社から39年まで計13号が刊行された。スキラを責任編集者として、E・テリアードがアート・ディレクションを手がけた。タイトルの「ミノトール」は、ギリシャ神話に登場する半人半獣の牛の頭をした怪物ミノタウロスに由来し、A・マッソンとG・バタイユによって命名された。創刊号の表紙は、同時期にミノトールを主題に多くの作品を残したピカソに依嘱された。33年の3/4合併号からは『革命に奉仕するシュルレアリスム』を廃刊にしたシュルレアリストたちが次第に活動の基盤をこの場所に求めたため、実質的にシュルレアリスムの3番目の雑誌として機能し始める。36年の第9号でテリアードが同誌を離れてからは、A・ブルトン、M・デュシャン、P・エリュアールが中心的な編集同人として雑誌の刊行を続けた。S・ダリやH・ベルメールらの美術作品が紹介されたほか、同誌ではマン・レイやブラッサイの写真が頻繁に掲載されたことでも知られている。
未来派(イタリア未来派) 20世紀初頭にイタリアで起こった芸術運動の一派。1909年、イタリアの詩人フィリッポ・マリネッティがフランスの日刊紙『フィガロ』に発表した「未来派宣言」がその発端である。その後も多くの宣言文が発表された。この運動に賛同した芸術家たちは、伝統的な芸術と社会を否定し、新しい時代にふさわしい機械美やスピード感、ダイナミズム(力強い動き)を賛美した。その背景には産業革命以降顕著になった、工業機械文明と急速な都市化がある。彼らの活動領域は絵画や彫刻といった造形芸術だけでなく、写真、建築、デザイン、ファッション、演劇、音楽、文学、政治活動に至るまで広範囲に及んだ。芸術運動としては15年頃までで終息したが、ダダやロシア構成主義など、20世紀の芸術運動に大きな影響を与えた。
「無限発展の美術館」ル・コルビュジエ 建築家ル・コルビュジエが構想した美術館のプロトタイプ。その出発点は1929年のスイス・ジュネーヴに計画された、螺旋のスロープを頂部まで登る「ピラミッド状の螺旋型」の世界文化センター「ムンダネウム」計画にあるとされる。「無限発展の美術館」の具体像が示されたのは、ル・コルビュジエがクリスチャン・ゼルヴォスに対して30年2月19日付けで送った書簡である。ゼルヴォスが編集長を務めた『カイエ・ダール』誌31年1月号に掲載された「パリ現代美術館」計画は、螺旋型の動線を導入しており「無限発展の美術館」のベースとなった。ル・コルビュジエはその後研究を重ね、39年に発表した北アフリカの「フィリップヴィル美術館」計画案を「無限発展の美術館」と名付けたが、この美術館計画は特定のファサードをもたず、内部に螺旋状の回廊をもち可動間仕切りによる自由な分割が可能であり、渦を大きくすることで展示品の増加に対応した増床可能な平面計画を特徴とした。柱や梁、天井、昼間・夜間採光のエレメントすべてが黄金比をもとに標準化された「展示のための機械」であり、陸屋根、正方形の平面形状、ピロティー、屋上庭園、斜路、自然光を利用した照明計画など、ル・コルビュジエに特徴的な設計要素が随所に見られた。「無限発展の美術館」の実現例としては《アーメダバード美術館》《チャンディガール美術館》《国立西洋美術館本館》がある。
無対象芸術 描写対象のない抽象画(非形象絵画)および造形芸術のこと。20世紀初頭にドイツとロシアにおいて、リアリズムおよび自然主義への批判として展開された。色彩、フォルム、ヴォリューム、質感、コンポジションなど絵画そのものの要素やそれらの組み合わせを前景化させた自己充足的な絵画といえる。理論と実践の双方から絶対的な絵画システムとしてのシュプレマティズムを提唱したカジミール・マレーヴィチ、絵画の特定の形式が観る者に与える感覚「内的必然性」を探求したワシリー・カンディンスキー、絵画を構成する素材に注目したウラジーミル・タトリンが、ロシアにおける無対象絵画の中心的役割を果たし、ロシア・アヴァンギャルドの画家たちの大部分がそれぞれのアプローチで無対象の課題に取り組んだ。1912年、画家のダヴィド・ブルリュークは論文 「キュビスム(表面―平面)」のなかで、絵画の自己目的性がキュビスムにおいて開花したことを主張したが、これが無対象を論理的に意義づけた最初の主張とみなすことができる。無対象絵画の主要な展覧会として、マレーヴィチのシュプレマティズム絵画とタトリンの《コーナー・カウンター・レリーフ》が同時に出展された15年の「最後の未来派絵画展 0-10」と、ワルワーラ・ステパーノワ、リュボーフ・ポポーワ、アレクサンドル・ロトチェンコ、オーリガ・ローザノワら9人の画家たちの作品計220点が展示された19年の第10回国営展「無対象的創造とシュプレマティズム」展が挙げられる。
モニュメント
「記念碑、記念物」と訳される。語源はラテン語の「記念物(monumentum)」で、「気付かせる/想起させる」という意味の単語からの派生語である。特定の人物や歴史的、宗教的、政治的事件、思想などを記念して、人々の記憶に留めるべく制作された作品のこと。また、制作された作品ではなく、そのもの自体が残っていることで過去の出来事を示唆する遺物などもその類であるが、美術におけるモニュメントとは主に前者を指す。モニュメントには、巨大な絵画や壁画なども含まれるが、その多くは、建造物や彫刻という形で表わされる。それは、モニュメントの多くが広く大衆の目にさらされる場に設置されるため、戸外でも耐えうる形態でなければならないためである。
唯物論
自然や物質、身体を世界が構成される上で根源的なものとみなし、そのような物質を最高原理とする認識論上の思想。非物質的なものである心や精神を究極のものとする唯心論(観念論)は、唯物論の対概念である。この唯物論と唯心論の思想的対立は古代まで遡り、唯物論的な思想はタレスやデモクリトスらの古代ギリシャ哲学に認められる。中世に入り、反宗教、無心論的な唯物論に対するキリスト教の権威的な抑圧が強まるものの、17世紀末のG・ライプニッツの著作物の中に「唯物論」の呼称が見られるなど、唯物論は近代になって再発見されることになる。近代の唯物論の発展は、自然科学の発達との関連をもつが、より密接な関係をもつものとして、精神を自然科学における力学的な法則や仮説を用いて解明しようとする機械的唯物論が挙げられる。また、機械論的唯物論の実験的性質に対立する弁証法的唯物論は、物質の弁証法的な運動を重視する歴史的性質を備え、マルクス主義の経済理論と強い相関性をもつ。 PR |
![]() |
![]() |
|
![]() |