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Sense of agency From Wikipedia, the free encyclopedia
The "sense of agency" (SA) refers to the subjective awareness that one is initiating, executing, and controlling one's own volitional actions in the world.[1] It is the pre-reflective awareness or implicit sense that it is I who is presently executing bodily movement(s) or thinking thoughts. In normal, non-pathological experience, the SA is tightly integrated with one's "sense of ownership" (SO), which is the pre-reflective awareness or implicit sense that one is the owner of an action, movement or thought. If someone else were to move your arm (while you remained passive) you would certainly have sensed that it were your arm that moved and thus a sense of ownership (SO) for that movement. However, you would not have felt that you were the author of the movement; you would not have a sense of agency (SA).[2] 行為主体性の感覚
「行為主体性の感覚」(以下SAという)とは、意志的行動を開始、決定、コントロールする際の自覚のことを言う。それは、動作をまさに今実行したり思考を行う私というもの前反省的知覚または潜在的感覚のことである。一般的に、病的な経験を除けば(SA)は「当事者意識」(以下OAという)と固く結びついており、行動、動作、思考について当事者であるという前反省的知覚または潜在的感覚である。例えば、誰かがあなたの腕を動かすとするとすると(あなたが一方的に受身の側でも)あなたはその動いた腕は自分の腕で、それゆえその瞬間に当事者意識を感じるのである。しかし、その動作を作り出した者だとは感じていない。すなわちそこで「行為主体性の感覚」(SA)までは持っていないのである。
(メモ) agentの訳については、専門分野によりかなりの幅広い意味が生まれる。
weblio辞書では、 (ある結果をもたらす)力,作用,働き; 【哲学】 作因.
human agency 人力.とある。
また、哲学・言語学の分野では
Agent, Patient 動作主と被動作主(被動作者)
といった使い方がされている。
コンピューター用語の分野では、日常的なタスクを自動的に行うプログラムのことを言う。
ここでは、哲学的に動作主としての主体性として「主体性の感覚」とした上で、
不特定の行為者性としてのagencyに配慮し、「行為主体性の感覚」と訳した。 |
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Abduction 「アブダクション」は、或いは「最良の説明への推論」と呼ばれることもあり、解釈に及ぶ際、特に重要な指標となる推論のタイプのことをいう。哲学者の大部分が、このタイプの推論はどんな形式にせよ、日常生活、科学的理性双方の場においてよく用いられると認めている。しかし規範的な位置づけと同様に、この推論の緻密な形式についてはいまだに意見が分かれている。この項目ではアブダクションを他のタイプの推論と対比して扱い、哲学の範囲内と範囲外いずれにおいても目立った使われ方をするポイントを指摘し、精緻な推論の各々が抱え持つ多様性について考察し、規範的な位置づけについて論じ、推論とベイズ確率論の間で成り立つ関連性にもスポットを当てる。 |
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予測はそれゆえ追憶よりも重要であり、未来への投影は過去の呼び起こしに、また予期は回顧に先立って重要である。われわれの生きている世界みたいに、つまり環境の変化がある部分で好ましくなったり、またはある部分で非情にして無関係になったりといったふうに世界がつくられていたとしたら、経験は移入される際に、未来に投影されるようになるはずだ。というのは、生物によって達成されうるどんな環境形成力も、物事の状態を変化を加えるためになされたことに依存するからである。成功と失敗は人生における第一の「カテゴリー」である。善を成し悪から逃れることは最上の関心事である。そして希望と不安は(感情の自己閉鎖ではなく、受容性と深慮深さをもった行動態度において)経験の主要な性質である。想像的な未来予知は現在のいざないによってひらかれうる行動の先行的性質である。白昼夢、牙城の構築、実践不可能な美的実現、いずれもがこの実践的特質の副産物である。または、そのほかの実践的な知性は押さえつけられたファンタジーなのである。それはたいした違いではない。過去における想像力の回復は未来を成功で満たすためには欠かせないことである。しかしその地位はあくまで手段としてのそれである。想像力の移入を無視することは、動作主が訓練されていないということを示している。しかし、過去を切り離すこと、つまりそれ自身のために考えをめぐらせ、誉れある知の名を与えることは 実践的な知性にとっては、古い時代の回顧の代用品になる。未来に向けての動作主ー被動者の行動は、偏向性があり、情熱的でもある。けれども過去に対して客観的で公平な研究をすることは、情熱に見合った成功を約束する幸運を掴むためには、唯一の選択肢である。 (メモ) |
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The preoccupation of experience with things which are coming (are now coming, not just to come) is obvious to any one whose interest in experience is empirical. Since we live forward; since we live in a world where changes are going on whose issue means our weal or woe; since every act of ours modifies these changes and hence is fraught with promise, or charged with hostile energies―what should experience be but a future implicated in a present! Adjustment is no timeless state; it is a continuing process. To say that a change takes time may be to say something about the event which is external and uninstructive. But adjustment of organism to environment takes time in the pregnant sense; every step in the process is conditioned by reference to further changes which it effects. What is going on in the environment is the concern of the organism; not what is already "there" in accomplished and finished form. In so far as the issue of what is going on may be affected by intervention of the organism, the moving event is a challenge which stretches the agent-patient to meet what is coming. Experiencing exhibits things in their unterminated aspect moving toward determinate conclusions. The finished and done with is of import as affecting the future, not on its own account: in short, because it is not, really, done with.
来たるべき(ただ来るというだけでなく、まさにいまやって来ている)ものに対する経験の先行性は、経験に対して経験主義的に関心を抱く人間にとっては誰にでも明らかなことである。われわれは将来に向かって生き、その生の核心に対する意味も悲喜こもごも変わりゆく世界におり、なおわれわれのすべての行動はこれらの変化に修正を加え、それゆえに定言し難く、あるいは敵対的エネルギーに充ちているとしたら、一体全体経験は、未来が現在と関わりあうことなしにどうなってしまうことだろう。適応は、時間に関係ない状態のことをいうのではなく、連続的なプロセスなのである。変化に時間がかかるということは、外部にあってかつ非教訓的である出来事について何かの意味を持つかもしれない。しかし、環境への有機体的適応は、深い意味において 時間がかかるものである。すなわち、経験プロセスにおけるすべての段階は、それのもたらすさらなる変化を想定することによって条件づけられているのである。環境という場で今何が起こっているかは、有機体の関心事である。それはすでに完成した終了形で終わっている 「そこで」というものではない。何が起こっているかという問題の核心が有機体による介在に影響を受けるかもしれないという限りにおいて、行動という出来事は動作主ー被動者が来たるべきものを迎えるために成長していくというひとつの挑戦である。決定論的終着に向かう終わりなき様相の中で、経験プロセスは事(こと)を開示する。終わってしまったこと、そして成されたことは、未来に影響することとして重要でありながら、決してそれ自身が根拠にはなりえない、つまりは本当の意味で成されてはいない。
(メモ)
経験的説明を加えるためのモデルであるが、未来への知的冒険を感じさせる章。教育者としての評価が日本で異様に高いデューイであるが、経験プロセスが受苦を伴う挑戦だと言われて価値的にはまったりするんだろうか。しかし、パースの訳文を読んでみても、デューイの方が数段分かりにくいことが想像できる。簡単に=で繋げないからおもしろく、現代的たりうるんだろう。 |
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