忍者ブログ
  • 2025.03
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 2025.05
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2025/04/29 17:25 】 |
ドイツ観念論とは? 4

(2) ラインホルトの雄図
 カントより1、2世代若いラインホルトは、「厳密な学としての哲学の可能性」を求め、「意識」による統一を試みました。これが彼の「根元哲学(Elementar Philosophie)」です。その原理として、有名な意識の命題――意識のうちで表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる――を立てました。 そして彼は、すべての原理となるような究極の「一者(das Eine)」も検討しました。けれども後述するように、シュルツェの批判にさらされることになります。

 ラインホルトの企図は失敗したと言えましょうが、私たちが注目すべきは、彼が「客観-表象(意識内容)-主観」の3項を包括する「意識」の概念を、提出したことです。ふつう「意識」といいますと、表象や主観の作用に関する機能にすぎませんが、ラインホルトの「意識」は、客観や主観の<存在>をも含んでいます。むろん、そのような「意識」とやらを設定することは可能なのか、という疑問は残ります。また彼の「意識」の中身の3項が存在的に分断されているために、それらを包括する「意識」はほとんど用をなしていません。しかしとにもかくにも、そのような包括的なものを提起したところに、彼の歴史的意義があるといえます。
 この「意識」に替えるに「自我」をもってして、想を新たに改訂版を出したのがフィヒテでした。フィヒテのラインホルト宛の手紙(1794年3月1日付)には:
「私の書きました『アイネシデモス』の書評では、・・・私がいかにあなたの研究を尊重しているかということ、また、いかに私があなたのおかげをこうむっているかということ、ならびに、あなたが立派に進まれた道を、私はさらに進まねばならぬと信じていることを、記しておきました」とあります。

 フィヒテの知識学では「自我」が原理となります。「自我は自らのうちに、可分的な自我に対し可分的な非我を対立措定する」(注6)とフィヒテは述べます。この命題は、なるほど前記の意識の命題「意識のうちで表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる」と似てはいます。しかし、自我と非我の2項は、それを包括する自我が分割されたものであって、前記3項のような存在的な断絶はありません。
 (ところでこのように<カント-ラインホルト-フィヒテ>を通して見ることは、同時代の若干20才のシェリングがすでに行っています)。(注7)

(3) シュルツェからの一撃
 今日ではシュルツェと言えば、ショーペンハウアーの先生であったこと(つまり、この生徒がそのノートに「シュルツェのおバカさん」と書いてしまった愛らしいエピソードですね)、そして『アイネシデモス すなわち、ラインホルト教授によってイェナで展開された、根元哲学の基礎について』を著したことが思い出されるくらいです。しかし、『純粋理性批判』が現れてから11年後に刊行されたこの書物は、当時の思想界にインパクトを与え、とりわけフィヒテを熱狂させました。
  「アイネシデモスはぼくを、かなりの間混乱させたし、ラインホルトを突き倒し、カントを疑わしいものとした。そして、ぼくの全哲学体系を根底から引っくり返してしまった。露天では住めやしないというものだ。いやはや! 再び、立て直さなければならなかった」と、フィヒテは『全知識学の基礎』を著す前年の1973年に、友人宛の手紙に書いています。(注8)

 シュルツェが奉じる懐疑論というのは:
「哲学においては、物自体やその諸特性が存在するか否かについては、また人間の認識力の限界についても、争いの余地なく確かで普遍的に妥当する原理によって、何かが確定されたということはない」というものです。したがって、特に何か懐疑論的理説なり、新しい思想なりを提出するものではありません。(注9)
  だからといって、「シュルツェはラインホルトやカントを批判はしても、自らの代案を出しはしなかった」などと彼を非難するのは、的外れです。『アイネシデモス』の副題は、「ならびに、批判哲学 [=カント哲学] の越権に対する懐疑論の擁護」となっています。天下のカント哲学を向こうにまわして、懐疑論を擁護できたのであれば、一大壮挙と言えます。またシュルツェの批判は、余勢を駆って近代哲学全般におよんでいますが、それが成功して、「哲学においては…何かが確定されたことはない」という彼の主張どおりになれば、これは哲学史における偉業といえましょう。(注16)

 そこで彼は、ラインホルトとカントの哲学を内在的に批判していきますが、その論点は多岐にわたっています。しかし、特に次の2点が重要で、影響も大きかったと思われます。

 ● 哲学の原理と、論理学の諸規則との上下関係
 まずラインホルトから見ていきますと、彼の「意識の原理」は、自らによってしか規定を受けない最高原理であるはずです。しかしシュルツェによれば、「意識の命題は、命題としてまた判断として、全判断の最高原理である矛盾律に――すなわち、考えられるものは矛盾する諸特性を含んではいけないという矛盾律に――、従属している。そして意識の命題は、その形式面やそれが持つ主語と述語の結合に関しては、矛盾律によって規定されるのである。」(注10)
 この点についてラインホルト自身は、「むろん意識の命題は、矛盾律の下に位置する。しかし矛盾律は、意識の命題を規定するような原理として、上位に存在するのではない。矛盾律は、意識の命題がそれに矛盾してはいけないものとして、存在するのである」(注11)と、説明しています。
 「下に位置」しても「規定はされない」というこの言い方が、またシュルツェの批判を招くのですが、いずれにしても、統一的な哲学原理と論理学の規則との関係如何? という大問題が、シュルツェによって提出されたことになります。

 フィヒテはこの問題を、「知識学」関係の最初の著書である『知識学の概念について』(1794年)で取りあげ、次のように述べます:
「知識学は論理学を基礎づけるのであり、その逆ではない。いかなる論理学の命題といえども、知識学に先だって存在することはできないのである」。(注12)
(なるほど、同年にその後出版した『全知識学の基礎』では、まず従来の論理学の規則(A=Aなど)に則り、知識学の展開をしています。しかしこれは、読者の理解や叙述の便利さなどを考えた、方便と見なせるでしょう)。
 ただし、ドイツ観念論にふさわしい新しい論理学の登場は、20年近く後、ヘーゲルの『論理学』(1812年)を待たねばなりませんでした。

 ● 因果律の適用可能性
 カント哲学に対しては、因果性 K A us A lität(原因と結果)のカテゴリーを不当に適用していると、私たちの思いもかけぬ批判を、シュルツェは展開します。カテゴリーは、カント自身が強調するように、ただ経験的な対象・直観にのみ適用されえます。したがって、因果性を想定しえるのも、経験的な対象に対してだけです。
 ところがカント哲学の要ともいうべき、ア・プリオリで必然的な総合判断は、カントによれば、物自体としての心から(心によって)生じます。これはシュルツェから見れば、心が原因となって、必然的な総合判断という結果が生じていることになります。この心はそもそも経験の対象とはなりえませんから、カントの前記の主張にしたがえば、因果性のカテゴリーが不当に適用されたことになり、自己矛盾しているわけです。(注13)
 もちろんこのシュルツェの批判には、さまざまな反論がありえますが、それらに対しシュルツェも辛らつに再批判しています。例えば「必然性は、ヒュームの指摘するように対象の側に見出されるはずはないので、主観の側の心から生じると考える以外にはない」という反論には、「そうとしか考えられないということから、そうであるということは帰結しない。つまり、思惟から存在は導出できない。もしできるのであれば、カントが批判した独断論といったものも、立派に成立してしまうことになる」等々(注14)。

 さらにカントによれば、認識の素材である感覚表象は、対象の物自体が認識主観を触発して生じさせますが、このとき対象の物自体(+主観)は原因となっており、表象は結果です。そこで因果律の適用を経験的なものに限るとすれば、表象が物自体(+主観)から生じたと立言することは不可能となります。
 このことを、因果律そのものを認めなかったヒュームにまで遡って一般化すれば:
「ヒュームの、因果関係の概念や法則を使用することへの攻撃は、まことに深刻なものであった。…ロックやライプニッツの時代以来、全哲学は表象の源泉についての研究によって基礎づけられてきたが、このヒュームの攻撃によって、哲学を体系化するための素材が、私たちからはまったく奪われたことになる。
「したがって…認識の発生の仕方や、…表象の外部に存在するはずの何かあるものについて…言明したり決定したりなど、できはしないのである。」(注15)

 かりにカントにしたがって、因果律は経験的対象にだけは適用できるとしたところで、経験内で充足できるのは、個別的科学です。哲学はそもそも、経験が成立するし方や経験の意味を問うものですから、どうしても経験外のものを引合いに出さざるをえず、またそこに哲学の活動の場があります。ということは、哲学においては因果律は使えないということです。つまり、「 A (経験外に存在し、原因となるもの)→ 因果律→ B (経験的対象、表象)」という構図は無理です。
 これではフィヒテならずとも、「混乱させられる」というものでしょう。けれども、八方塞な状況とはいえ、じつは1つの脱出路を用意していた人がいたのでした。それが天才と評される――というか、欧州三界をさまよい、貧困と戦いながら自己の思想を紡ぎだすという、哲学者の古典的イメージにぴったりな――マイモンでした。

(4) マイモンの志向
 ラインホルト宛の手紙(1795年3/4月)においての、フィヒテの次のマイモン評はよく知られています:
「マイモンの才能への私の尊敬は、限りがないものです。私はかたく信じており、また証明する用意もあるのですが、全カント哲学さえも――この哲学が一般に、また貴方によっても、理解されている意味においては――、彼によって根底から覆されたのです。このことすべてを、彼はなしたのですが、だれもそれに気づかず、しかも世間の人は彼を見下すしまつです。これから百年というもの、私たちは [マイモンへのこうした仕打ちによって] ひどい嘲笑を受けることでしょう」。
 このような手紙を受け取った方としては、災難としか言いようがないわけですが、出した方のマイモンへの感謝は、よく伝わってきます。

 1793年の末に「自我」の概念に想到するまでに、フィヒテがマイモンの著作の何を読んだかは、はっきりしないようです。しかし年代と内容面で、おそらく『超越論的哲学についての試論』(1790年)だと思われます。同書には、「受動 leiden」などの語が見え、フィヒテも『全知識学の基礎』(1794年)でこの語を使っていることから、影響を受けたことが窺えます。しかしこの『試論』は、マイモン独自の思想展開であり、残念ながら私にはまだ把握できていません。そこで同書の内容の概略につきましては、この第5節の(注1)に挙げました廣松渉・瀬戸一夫両氏の論文を参観願えたらと思います。
 私も早急に把握に努めますが、今は平凡社の『哲学事典』(1979年)の記述、「マイモンは…カントの物自体説の批判を通じて、意識の能動的一元論の立場を志向した」をもって、お茶を濁したいと思います。

(5) 結 論 
 こうしてフィヒテは、「A → B」ならぬ「A → A」(自我はみずから措定する)の哲学に、たどり着くことになります。
 そしてカント哲学を発展させる、ないしは批判するといったカントへの拘泥は、ラインホルト・マイモン・シュルツェ達をもって終ったと、フィヒテ・シェリング・ヘーゲルの目には映っていたようです。このことは、後者の3人にはカント哲学を主題とした論考が無いという事情からも、うかがえます。
 フィヒテは、カント哲学が述べていることは結果としては正しいと考え、その内容を改変しようとはしていません。ただ、カント哲学が前提としていることを基礎づけようと、すなわち、原理がもたらす体系的統一性のうちへ置こうとしました。そのことによって一つの新しい世界観が開かれ、ここにドイツ観念論は創始されたのでした。

------------------------------
(注1) カント~フィヒテ時代の多士済々なドイツ思想界を、紹介したものとしては、『講座 ドイツ観念論』第3巻所収の、廣松渉「総説 カントを承けてフィヒテへ」、瀬戸一夫「カントとフィヒテとの間」などがあります。(戻る)

(注2)『知識学の概念について』「序文」、SW 版、29ページ。(戻る)

(注3)『アイネシデモス』、オリジナル本(1792年)では、38 ページ。(戻る)

(注4) ラインホルトは『哲学者たちのこれまでの誤解を訂正するための論集』(1790年)の第5論文で、「厳密な学としての哲学の可能性」を問題にしており、そうした哲学を建設するために、すべての原理となるような究極の「一者(das Eine)」を求めています。「この第一者は、哲学にとって必須であり、多くの古代哲学者によってぼんやりと予感され、カントの『純粋理性批判』によって暗示され、この論文 [第5論文] によってもっとも明瞭かつ正確に検討されている」。そして、「ゆるぎなく、疑問のよちなく確固とした、全哲学体系」を建設しようとしました。
(ラインホルトからの引用は、『アイネシデモス』からの孫引きです。前記テキストを入手しだい、確認します)。
  またフィヒテも、「ただ、唯一の原則から展開することによってのみ、哲学は [明証的で普遍的に妥当する――筆者挿入] 学問になるのです。こうした原則は存在するのですが、まだ原則としては立てられていない」と考えました(1793年末のJ. F. Fl A tt 宛て書簡)。そして1793年12月の H. Steph A ni 宛ての手紙では、「たぶん二、三年後には、ぼくたちは幾何学のような明証性をもった [フィヒテ自身の] 哲学を、持てると思う」と書いています。
 なによりも「知識学 Wissensch A ftslehre」という用語自体、文字どおりに訳せば「学問論」です。1794年の『知識学の概念について』は、正確には『学問論すなわちいわゆる哲学の、概念について』です。(したがって「知識学」は悪訳であり、少なくともラインホルト以来の時代潮流を分かりにくくさせていると言えます)。
 この「哲学=学問」は、シェリングやヘーゲルにも引きつがれます(「学問は精神の現実性であり、精神が自己の本領において建設されるところの領域である」『精神の現象学』序文、Suhrkamp 版29ページ)。これが破られるのは、教養ある自由な精神、ニーチェ(1844-1900)を待ってなのでしょう。(戻る)

(注5) とはいえ、カント哲学はアカデミックな精密さを備えるとともに、近代的常識にもよく合致しています。しかも哲学の各要素を、バランスよく配置しています。したがって、彼の批判哲学に不満はあっても、その不満な個所をいじくると、とたんに全体が崩れ、大怪我をしてしまうことになりかねません。カント哲学がなお今日に至るまで、大枠としては残っているゆえんです。(戻る)

(注6) 『全知識学の基礎』, SW, Bd. I, S. 110. (戻る)
(注7) シェリングによれば:

 「カントは哲学および哲学者間の争いを調停しようとして、争点を<いかにして先天的総合判断は可能か?>という問いで表現した。「この問いは、最高度に抽象的に考えるときには、次のことを意味する:『いかにして絶対的自我は自己の外へ出て行き、非-我を自己に端的に対置するのか?』」[これはシェリングが知識学の立場から、カントの問いを解釈しています]。
 「このカントの問いは、最高度に抽象的に考えられないときには、その答えともども誤解せられたに違いなかった。したがって次にやるべきことは、この問いをより高い抽象度において考えることであり、そして問いに対する答えを、確かな仕方で用意することであった。このことを表象能力の理論の著者 [ラインホルト] は、意識の原理の提示によってしとげたのである。この原理において、抽象化は最終的段階にまで進んだのであるが、すべての抽象よりさらに高いもの [=知識学の立場] へ達するには、その前に、この最終的段階に人は立たねばならなかったのである」。(『哲学の原理としての自我について』(1795年)、第5章の注 A nmerkung)(戻る)

(注8) 1793年12月の H. Steph A ni 宛ての手紙。(戻る)

(注9)『アイネシデモス』、オリジナル本(1792年)では、24ページ。
 引用文中の「確定された A usgem A cht worden sei ということはない」という過去の事実判断を、「決められるなどということがない」と、一般的原則のように訳している論文もあります。しかし、それではシュルツェの懐疑論とは違ってきます。シュルツェの立場からすれば、「一般的に」決められるかどうかは、分からないということでしょう。
 つまりシュルツェは、いわば最低限の防御線を築こうとしているのであり、したがって『アイネシデモス』の副題は謙虚にも、「批判哲学の越権に対する懐疑論の擁護」となっている次第です。
 なお、この「越権 A nm A ßung」は、カントへの皮肉です。カントは『純粋理性批判』において、「権利問題」を提起し、「越権」を戒めました(B版、116ページ)。しかし、カント自身が「越権」行為をしているではないかと、シュルツェは言いたいのです。(戻る)

(注10) 同書、オリジナル本で 60 ページ。(戻る)

(注11) 同書、オリジナル本で 62, 63 ページ。(戻る)

(注12)『知識学の概念について』SW版では、第1巻、68 ページ。(戻る)

(注13)『アイネシデモス』、オリジナル本で 155 ページ。
 なお、『純粋理性批判』に対する批判は、同書の「ヒュームの懐疑論は、理性批判によって本当に論破されたのか?」の章全体(オリジナル本の130ページ以下)で展開されています。(戻る)

(注14) 同書、オリジナル本で 174-175 ページを参照。(戻る)

(注15) 同書、同本、179-180 ページ。(戻る)

(注16) その上シュルツェは、先験的総合判断の導出に関して、彼の立場からできる範囲での提案もしています。同書、同本、156-157ページ。 (戻る)
(注17) 『近世哲学史』(1833/1834年)、SW 版、第I部、第10巻、79ページ。
 このような考えを、シェリングは『純粋理性批判』を読んだ当時からもっていたようです。19歳の彼は書くのでした:
「『純粋理性批判』において、私には最初からまったく疑わしく無理だと思えたのは、一つの原理を――すなわち、すべての個別的な形式の基礎にあるような原・形式そのもののみならず、この原・形式とこれとは独立の個別的諸形式との必然的連関をも、基礎づけるところの原理を――立てることなくして、全哲学の形式を基礎づけようとする [カントの] 試みである。」(『哲学一般の形式の可能性について』1794年、SW 版全集、本巻第 1 巻、87ページ)(戻る)

(注18) マイモンも、1790年に出版した『超越論的哲学についての試論』で、次のように述べています:
「アプリオリな諸原理に基づくような、本来の学問は、ただ2つしかない。すなわち、数学と哲学である。その他の人間の認識対象においては、この2つが含まれている程度に応じて、学問的といえるのである」。(オリジナル版、2 ページ)(戻る)

(注19) フィヒテは私信では、「最近の鋭敏な人々」の実名を出しています:
「『アイネシデモス』は、ここ10年のうちでも注目すべき書物だと思いますが、この本は私がすでにはっきりと予感していたことを、確信させてくれました:カントやラインホルトの著作の後でさえ、哲学はまだ学問だとは言えないのです」。(1793年末のJ. F. Fl A tt 宛の手紙)(戻る)
目次へ
 ドイツ観念論は、疎外論では? また、「主-客」弁証法では?

 ドイツ観念論をいわゆる疎外論(注1)と見なすのは、大きな誤解です。また、いうところの「主-客」弁証法の構図に、なっているのでもありません。このような誤解は、ドイツ観念論の矮小化につながり、
・マルクスの物象化論の登場によって疎外論は克服されたので、ドイツ観念論は用済みであるとか、
・ドイツ観念論は、近代的「主-客」図式の枠内にあるとかいった、
結論になりがちです。

(1) 疎外論ではなく、メタ化運動

 疎外論とは、何らかの精神的な主体が、物質的な対象・客体へと変ずることをいいます。では、
 (i) よく引き合いに出されるヘーゲルの「実体は主体である」を、検討してみましょう。この「実体」ということで念頭に置かれているのは、スピノザの実体ですが、それは「自らのうちに、知の直接性 [即自的な知] ならびに存在の直接性、すなわち知に対する [=知の対象の] 直接性を含んでいる」[強調は原文] (注2)。
 つまりもともと「実体」は、知の契機(能知的な主観、精神的な主体)と対象的契機(物質的な客体性も)の両者を含んでいるのです。しかし、この実体は直接的(即自的)なままに留まっているとヘーゲルの目には映っており、そこで主体的運動をすることによって新しい段階へと進展していかねばならないと、彼は主張します。
 スピノザ哲学は汎神論だと言われるように「神=実体=世界」ですから、結局この進展によって、最初の世界が次々と新しい世界へと生成していくことになります。したがってヘーゲル哲学は、「精神的主体」が客体化するような疎外論ではなく、世界のメタ化なのです。

 (ii) 次に、「自我は自己を措定する」というフィヒテのテーゼ――これによって、ドイツ観念論は創始されたのですが――を見てみます。
 この措定する自我は、経験的に知ることのできような現実に定在する自我ではありません。いわゆる超越論的自我です。つまり、「実在性の絶対的な全体が帰属する」ところの自我です(注3)。したがってこの自我を、対象的な物質に対置されて、それによって制限されているような精神的主体だと考えるわけにはいきません。すなわち「意識と事物(S A che)は、自我のうちで、[すなわち] 観念-実在的なもの(dem idealrealen)のうちで、[また] 実在-観念的なもの(realidealen)のうちで、じかに統一されているのです」(注4)。
 簡単に言い切ってしまえば、フィヒテの自我も、ある種の世界全体なのです。

 (iii) 疎外論においては、疎外されるべき本質的な当体が、真実の実在として前提にされます。そしてこの当体は、たとえ疎外がなくとも、存在する実体です。しかしドイツ観念論においてはそのような当体は、精神的な主体に限らず一般に、想定されていません。
 そもそもフィヒテの自我からして、「自我は自らを措定する。そしてこの自らによるこの措定そのものによって、自我は存在する」(注5)と言われるように、自我が存在するのは、自己措定の運動をまってなのです(フィヒテの「事行」)。
 フィヒテは、後年の絶対的なもの(d A s A bsolute)についても:
 「絶対者は、ただ絶対的な外化を――すなわち、多様性との関係では、まったくもってただ一つの(単純で、永遠に自らに等しい)外化を――持ちえるだけです。そしてこの外化が、まさに絶対的な知です。絶対者自体は、存在でもなければ知でもありません。またこの両者の同一性や、両者の無差別でもありません。それはまさに――絶対者なのであり、それ以上は言わずもがなというものです。」(注6)
 つまり、ドイツ観念論の創始者フィヒテにあっても、自我・絶対者は、超越論的な意味はおいて実質的には、無でした。それなら、「絶対者(神)は・・・」などと言わなければいいではないか(絶対者を主語に据える必要はない)、実在的な発展過程の総体をもって絶対者とすればよいではないか、と主張したのがヘーゲルでした(注7)。

 (iv) したがってドイツ観念論は、ちなみに、一者である神ないし絶対的なものから万物が流出するという、流出論(エマナティオ, Emanation. 新プラトン学派のプロティノスなどが有名)でもありません。ヘーゲルの説明によれば:
 「絶対的なものをもってすべての始原とすべきである、と言えるようにも思われよう。・・・しかし [始原は] まずはたんに即自的なのだから、始原はまだ絶対的なものではないのである。・・・即自的なものは、抽象的で一面的な契機にすぎない。したがって [始原からの] 進行は、流出(Überfluss)の類(たぐい)ではない。始原がすでに実際に絶対的なものであるのならば、この進行は流出であろうが。むしろこの進行は、普遍的なものが自らを規定して、対自的に普遍的なもの――これは個別的なもの、主体でもあるのだが――になることなのである。ただ進行が完結することによってのみ、この普遍的なものは絶対的なものである。」(注8)

 (v) なお、ドイツ観念論の著作において、「疎外(Entfremdung)」や同義語の「外化(Äußerung, Entäußerung)」の用語はむろん使われています。例えば:
   A ) すでに引用した部分と重なりますが、「私 [フィヒテ] にはもとより明瞭だと思われるのですが、絶対的なものは、絶対的な・・・外化を持ちえるだけなのです。そしてこの外化は、まさしく絶対知です」(注6)。
  フィヒテがこのように述べた背景には、ヤコービの『スピノザ書簡』(1785年)で紹介されている、スピノザの思想があったのでしょう:
 「存在 [=実体] のさまざまな外化(Äußerung)のうちのいくつかは、存在の本質から直接流出する。それらは延長ならびに思考の、絶対的で実在的な連続態(Kontinuum)である」(注9)。

 ところで、シェリングやヘーゲルは、これらの Äußerung の用法を知っていたと思われます。なるほど、フィヒテのÄußerung はシェリング宛の手紙中に書かれています。しかし、シェリングはフィヒテからの手紙については、イェナ大学での同僚(というより、部下?)であったヘーゲルにも見せ、意見交換などもしていたのではないでしょうか。
 シェリングとヘーゲルは、ともにテュービンゲン大学で学生生活をおくり、ヘルダーリンなども加わった一種の精神共同体を形成していました。卒業後に 2 人はいったん別れるのですが、シェリングの引きでヘーゲルは、1801 年にイェナ大学の私講師になります。同年の10 月には、ヘーゲルは『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』を公刊し、シェリングへの援護射撃を行っています。翌 1802 年、 2 人は共同して哲学雑誌を創刊します。このような 2 人の関係からすれば、シェリングはフィヒテから受け取った手紙の内容を――おそらく出した手紙の内容も(注10)――、ヘーゲルには知らせていたと考えるのが、自然でしょう。

  b) ヘーゲルが「外化」「疎外」の語を多用するのは、『精神の現象学』(1807年)ですが、その前にも「イェナ期の体系草稿群 III」(1805-1806年)での使用が見られます(注11)。
 
 しかしながら、このように「外化」「疎外」の使用がドイツ観念論に見られるとは言っても、彼らの思想を「疎外論」と規定すべきでないことは、上記 (i) - (iii) で説明したとおりです。

(2) 「主-客」弁証法ではなく、両者の統一態の発展

 ヘーゲル弁証法は、「主-客」図式という近代的世界観の枠内での「主-客」弁証法だと、貶められることがあります。つまり、ヘーゲルは、存在論的に分断された主観と客観を、最初から前提にしており、それに基づいて両者の交渉を論じているというわけです。その例として持ちだされるのが、『精神の現象学』です。
 しかし、『精神の現象学』は、自然的な意識が学問的(哲学的)知へと上昇していく認識の発展を、叙述したものです。したがって一種の認識論なのですから、そこには知る側(主観)と知られる側(客観)が、相対して登場するのは当然です。けれどもこれらは、自立的で分断されたものではなく、もともとは統一態なのです:
 「知が変化することにおいて、意識に対する対象自体もまた、実のところ変わるのである。というのも、現存する知は、本質的に対象についての知であったからである。知とともに、対象もまた別のものになるのだが、それは、対象はその知に本質的に所属していた( A ngehörte)からである」(注12)。
 つまり、実在するのは、「主-客」の統一態です。そして、この統一態の対象ないし知の側(契機)にそれぞれ自己矛盾が生じるのは、それらの統一態が自己矛盾をおこすからです。このことによって、統一態の全体が次の段階へと発展(メタ化)していくというのが、『精神の現象学』の構造だと思います。
 
 ところで、ヘーゲル哲学を語る場合には、よく『精神の現象学』が取り上げられます。しかしこの作品は、本来は彼の「学問へと至る道」であって――ある意味ではこれ自体が学問であるにしても――、いわば前座なのです(注13)。真打は『論理学』なのですから、私たちはこれによって自らのヘーゲル観が妥当するかどうかを、検証すべきでしょう。
 そうすると、『論理学』もむろん弁証法的に書かれていますが、それを考察して、ヘーゲル哲学は「主-客」弁証法であるとの結論などは、出てこようはずがありません。むろん正しく解すれば、『精神の現象学』を読むことによってもヘーゲル哲学の正鵠を得ることはできるのでしょう。が、これはなかなかの難事です。

------------------------------
(注1) 「疎外」については、廣松渉氏の以下の著作に多く教わりました:
 ・『疎外概念小史』(廣松渉著作集 第7巻所収、岩波書店、1997年。同氏『ヘーゲルそしてマルクス』にも所収、青土社、1991年)
 ・『マルクス主義の理路』の「第三章 疎外論の論理をめぐる問題構成」(勁草書房、1974年)
 ・『「疎外革命論」の超克に向けて』(廣松渉著作集 第14巻所収)の第一、二、七節。
(注2) ヘーゲル『精神の現象学』の「序文」、アカデミー版全集、第 9 巻、14 ページ。
(注3) 木村素衛訳、岩波文庫版『全知識学の基礎』では、下巻、168 ページ。SW, I, S. 129.
(注4) 1800 年 11 月 15 日付の、フィヒテからシェリングへの手紙。『フィヒテとシェリングの往復書簡集』、1856 年のオリジナル版、54 ページ。
(注5) フィヒテ『全知識学の基礎』(1794年)、岩波文庫版では、上巻110ページ。フェリックス・マイナー社の「哲学文庫」版(1970年)では、16ページ。
(注6) シェリング宛1802年1月15日付の手紙。Fichtes und Schellings philosophischer Briefwechsel, 1856, S. 124. 『フィヒテ-シェリング往復書簡』、座小田/後藤訳、法政大学出版局では184ページ。
(注7) 『精神の現象学』の「序文」、ズーアカンプ版のヘーゲル著作集では、第 3 巻、26-27 ページ。アカデミー版全集では、第 9 巻、20-21 ページ。
(注8) ヘーゲル『(大)論理学』、ズーアカンプ版ヘーゲル著作集では第 6 巻 555-556 ページ。
(注9) Über die Lehre des Spinoza (直訳すれば『スピノザの思想について』)、第3版、127ページ。
(注10) シェリングは、1801年10月3日付フィヒテ宛の手紙で、『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』の著者を「大変すぐれた頭脳(ein sehr vorzüglicher Kopf)」と形容しています。これなどは、ヘーゲルへのサービスかもしれません。(Fichtes und Schellings philosophischer Briefwechsel, 1856, S. 107. 『フィヒテ-シェリング往復書簡』、座小田/後藤訳、法政大学出版局では168ページ。)
(注11) Entäußerung は:Jenaer Systementwürfe III, Gesammelte Werke, Bd. 8, S. 281.
 Entfremdung は:ibid., Bd. 8, S. 164.
 この「体系草稿群 III」以前には、哲学的な「外化」と「疎外」の使用はないようです。「体系草稿群」の I と II(1803-1805)の索引(Felix Meiner Verl A g, Philosophische Bibliothek )、および『ズーアカンプ版ヘーゲル著作集』の別巻「索引」で第1巻と第2巻のところを見ても、記載がありません。
(注12) 『精神の現象学』の「緒論(Einleitung)」、アカデミー版全集、第 9 巻、60 ページ。なお、「緒論」の拙訳がありますので、「知が変化すること」で検索してみて下さい。 
(注13) 『精神の現象学』の「緒論」、アカデミー版全集、第 9 巻、61 ページ。なお、「緒論」の拙訳がありますので、「学問へのこの道」で検索してみて下さい。

目次へ

 弁証法というのは何なの?
   (とくに、ヘーゲルの弁証法については、こちらを。)

(1) 私たちの観点
 通常の論理(いわゆる形式論理学)とは異なる、あるいはそれを否定する弁証法というものが、どうして登場してこなければならなかったのでしょうか。それは、フィヒテが「自我( A )は自らを措定する」といったとき、自同律(同一原理principle of identity)(注1)など、論理学の諸原理が破られたことによります。

 彼は上記の命題「 A は A を措定する」を、「 A = A 」という式で表しました。この式は一見すると自同律そのものですが、左側の A は措定する(行為する)自我であり、右側の A は措定された自我(事実として残った自我)です。もとより同じ自我ですから、“=”で結ばれています(自同律)。しかし、まるっきり同一であれば、措定と非措定の区別はなくなり、デカルト以来の自我となり、フィヒテ登場の意味はなくなってしまいます。この2つの A は、区別でもあるというのが、フィヒテの命題「 A = A 」です。
 しかも、個別的なものが複製されるといったことではありません。 A はすべての実在性をもつ世界全体ですから、話はいろいろと面倒になってきます。 A はつねに自己措定しているので、それら措定されたものを区別するために B, C, . . . とすれば、もとの A は全体であり、B 以下はその部分となります。けれども、B なども世界全体が措定されたものですから、とうぜん全体でもあるわけです。したがって、全体と部分との関係も常識どおりにはなりません。
 さらに、規定性というものは、例えば規定 A は、それ自体として存立しているのではなく、他の規定 b, c, . . . との相互関係において成立しているという了解が、フィヒテをはじめとして3人にはあります(注5)。ところが通常の論理学で想定されているのは、自立的・自己完結的な規定性です。つまり、 A の存在ないし意味するところのものは、b, c, . . . とはかかわりなく A であると想定されています。
 という次第で、新しい論理学ならびに方法論が、必要となる状況に至っていたといえます(注4)。その1つの定式化が、ヘーゲル弁証法だと思います。したがって弁証法とは、フィヒテ的な「 A = A 」の世界の論理学、私たちの観点からいえば、メタ世界の論理学ということになります。

(2) これまでの弁証法観
 弁証法とは何か、ということについては各人各様の説明がありまして、まだ定番といいますか、定説はないようです。
 よくある説明は、弁証法の語義であるギリシア語の「対話」あたりから説き起こし、プラトンの対話編を引き合いにだして、まず弁証法的展開をうんぬんすることになります。でもこれでは、対立する2人がお互いのいいところを取り入れて、より広い見地から考えてみるというだけのお話です。軽い調子で、「この問題はもっと弁証法的に見ないと」などと言われるときも(えっ、もうそんな風に言う人はいない!?)、こうした意味です。こうしたレベルでは、まわりくどい「弁証法」より、真か偽かの二分法 dichotomy, Dichotomie での一撃必殺が、好ましいと私なども思います。

 そこで、哲学的にはとくにヘーゲル弁証法が問題となります。なんといっても、弁証法を主張し、有名にしたのはヘーゲルですから。彼の「論理学=客観世界の運動法則=認識の発展法則」である弁証法的運動は、矛盾によって生じるとされます。ところが、この矛盾は原理的にどうして起きるのか、という肝心な点がヘーゲルの読者にはよく分かりませんでした。彼がおそらく、うそも方便という感じで持ちだした「飛んでいる矢」の例なども、少しは物理学や数学を勉強したものにとっては、へ理屈・詭弁にしか響きません。
 そもそも、論理学でもあれば、客観的世界と主観的認識の法則でもあるようなしろものが存在するのか、と疑がわれていましたし、現実をみても「正(テーゼ)-反(アンチテーゼ)-合(ジンテーゼ)」の弁証法的運動にならない例は、いっぱいあります。タイムスパンのとり方しだいでは、「正-反-両方ともポシャッた」とか「正-正-正」で押しとおしたの類です。

 こうした事情から、ふつうであれば弁証法はあまり注目されることもなく、専門哲学者の関心事で終わってしまうところだったのでしょう。ところが、マルクス主義が「逆立ちしているヘーゲル弁証法を足で立たす」形で批判的継承をしたのみならず、イデオロギー的武器として使ったために、冷戦終結までは注目されることになりました。とはいえ、典型的にはエンゲルスが指摘したような弁証法の3法則――「否定の否定は肯定」「対立物の相互浸透」「量と質の相互転化」――は、科学的にはそうだともいえるし、そうでないともいえる大変あいまいなものです(というか、科学はそもそもこうしたことを、問題にはしません)。また哲学的には、「なぜ3つであって、それ以外にはありえないのか?」「この3つはバラバラに並立したままであるが、より根底的なものはないのか?」といった批判を、こうむることになりました。

 しかし他方では、弁証法の祖形はフィヒテ知識学の「正-反-合」にあるのですから、かりにヘーゲル弁証法は分からなかったとしても、フィヒテなどを研究することによって、弁証法の合理的核心が見出せないかといった探求がなされます。
 またヘーゲルの『論理学』や、弁証法的方法論にもとづいて書かれたとされる、マルクスの『資本論』に触発されて、さまざまな人が、これこそ真の弁証法であるとの説をたてました。ここではそれら諸説にたちいることはできませんが、管見のままに感想を述べれば、それら諸説は弁証法の一面を捉えてはいるものの、全体像を提示してはいないようです。

 よく知られた廣松渉氏のものだけに触れておきますと、氏は事態が進展していく際に、当事者の意識と、それを外部からながめる学知者との意識のくいちがいに、弁証法的発展の原動力を設定しています。このことは、シェリングも彼の方法論として提示していたのですが(注2)、私たちからすれば、なるほど弁証法の重要な1局面の指摘ではあっても、全体像(メタ世界の論理学)にはならないのです。

(3) 誤解による非難
 ときおり耳にする誤解による(というより勘違いによる)弁証法非難に、次のようなものがあります:
 「弁証法は、『自同律』や『矛盾率』などを破棄し、形式論理学を認めないというが、それではいかなる論理も成立するはずがない。すべて論述は形式論理にのっとらねば、狂人のたわごとになってしまう。例えば、『AはBである』と述べた後で、AをCの意味に説明も無く変えて、『AはBではなくCである』とは展開できない」。

 このような批判に対しては:
1) 論理学(これを、私たちは思考や論述の対象にします)と、言語の使用規則(これに則って、私たちは自らの考えを伝えるべく、文章を作成します)を、混同ししている可能性があると、指摘したいと思います。
 なるほど弁証法家は、形式論理学を、それが正しいと信じられているようには認めません。しかし弁証法家といえども、論述するさいには使用する言語の規則(文法やレトリック)に、当然のことながら従います。そうしなければ、自らの意図する言語的意味が生じてはこないし、また他人に伝達することも不可能だからです。したがって、弁証法家の論述する文章が、形式論理学にしたがっているようにみえても、それは使用している言語の規則にしたがっているまでなのです。
 だから前述の非難例に対しては、「『同じ論述のうちでは、一つの言葉が説明も無く別の意味をとってはならない』という言語規則(文法)が、社会的にある以上、弁証法家も当然それに則っています」と、答えるわけです。(注3)

2) 弁証法家が形式論理に反対するのは、ある世界とそのメタ世界との関係が、かかわる場面においてです(そして哲学上の諸問題は、おもにこのような場面で生じるのですが)。したがって同一世界内では、形式論理は妥当します。

------------------------------
(注1)広辞苑(第5版)によれば:
 「思考原理の一。「 A は A である」の形式で表されるもので、概念は、その思考過程において同一の意味を保持しなければならないということ。」
 私たちとしては、私は思考過程のみならず、客観の側の対象もふくめて同一律を考えています。(戻る)

(注2)シェリング『先験的観念論の体系』1800年(Felix Meiner 社、Philosophische Bibliothek 版、2000年、57-58ページ)。(ただし、廣松氏にとっての「当事者の意識」が、シェリングでは「私たち学知者」として記されています)。
 ところでシェリングのこうした観点は、フィヒテの知識学を反映しています。フィヒテによれば:
「知識学においては、大きく異なった2つの精神活動の列がある:哲学者が観察している、[当事者である] 自我の [活動の] 列と、[学知者である] 哲学者の観察 [活動の] 列である。知識学以外の哲学においては・・・思惟のただ1つの列しか、すなわち哲学者の思考の列しか存在しない。」(『知識学への第2序論』1797年、I. H. フィヒテ版全集第1巻454ページ)(戻る)

(注3) (1) だからといって、次のような言語使用を認めないわけではないのですが、これらは哲学外の問題となってしまいます。
・子供と話すときなど、文法的な規制は希薄で、通じればそれでいい場面が多いですから、1つの語の意味をずらしたり、別の意味で使用する。
・使用言語の文法に半ば従いつつも離反して、固有の意味表現を創出する――これは詩人の仕事ですね。

 (2) 「しかし言語の文法は、形式論理に則ったものではないのか。だから、文法に従うときには、結局のところ形式論理にそうことになるはずだ」との反論が、あるかも知れません。これに対しては:
 たしかに、ネイティブスピーカーにとっては、母国語の文法は、実質的には形式論理に則っていると感じられます。ところがその言語を外国語としている人が、客観的・形式的にみれば、その言語が非論理的だと思われる場合は、多々あります。例えば、二重否定になっているにもかかわらず、たんなる否定の意味になるとかです。日本語のように主語が省略される、いえ省略するという意識すらない――意識されるのは、外国語と比較することによってです――言語は、それこそ論理以前というべきかもしれません。
 したがって、言語の文法が形式論理にのっとっているとは、単純にはいえません。とはいえ、各言語は正常に機能することができ、また、母国語は論理的だと思いえるという事実は、あります――しかし、問題がことここにいたりますと、これは「言語・意味・世界」といった別の大問題となってしまいます。そこでこれ以上は立ち入りませんが、私見では、このような問題の解明でこそ、弁証法は重要な役を果たすはずです。(私見では重要な論点は2点で、世界に意味論的真空は存在しないことと、言語ならびに世界のメタ性です)。

 (3) 「それでは、形式論理学をさらに精密化した記号論理学を根幹にすえて、これに豊富なボキャブラリーを与え、すべての言語をこれに翻訳してしまえばいい。そのときには、文法と形式論理学は一致することになる」との反論に対しては:
 記号論理学は数学であって、はたしてそれが「言語」となりえるのかという問題があります。記号論理学の延長上に理想的な言語が望見できるのであれば、ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』から、日常言語へ転回する必要はなかったわけです。私見では、記号論理学をいくら精密化ないしは豊富化しても、意味論的な空隙が残ってしまい、どの言語も持っている「世界すべてをおおいえる(しかし、すべてを表現しえるのではないのですが)」という特性を、獲得できないと思われます。(戻る)

(注4) しかしフィヒテ自身は、自同律や矛盾率を真理だと見なしていました(それらは「知識学」によって、基礎付けられねばならないにしても)。「『アイネシデモス』への書評」(1794年)において、シュルツェに対する皮肉として、彼は次のように述べています:
「自同律と矛盾律がすべての哲学の基礎として、あるべきように立てられるときには、望むらくはもう誰も次のように主張しないことを:私たちは将来、矛盾することを可能なものとして考えられるような文化の段階に、達することも可能であろう、と」。(I. H. Fichte 版フィヒテ全集、第1巻、13-14ページ) (戻る)
(注5) 概念の関係性ということを強調したのは、マイモンであり、彼の大きな功績だと思いますす:
 「純粋概念とは(すなわち、いかなる直観も、たとえアプリオリな直観にせよ、含んでいない概念)、関係概念(Verhältnis-Begriffe)以外のものではありえない。なぜなら概念とは、多様性においての統一にほかならないからである。そして、多様なものを統一として考えることができるのは、ただ多様なものを構成している諸要素が、相互的ないしは少なくとも一方的に、同時に考えられるときである。(『超越論的哲学についての試論』(1790年)、オリジナル版では 36-37 ページ。オンラインテキスト上では、Reine Begriffe,meiner で検索してください)
目次へ

 ドイツ観念論の問題点は?

 「部分の展開・発展は、どのように全体に反映されるのか」ということが、私たちとしては問題にしたい点です。ドイツ観念論では、部分や個別的なものは、全体によって存在を与えられ、規定されます。これは、すぐには悪しき全体主義であるとはいえません。たとえば現代の構造主義言語学の構図(各言葉はそれが占めるところの、言語全体の中での位置に応じて、言語全体から意味を付与される)にも通じるものであり、一応了解することができます。
 しかし、部分がまったく全体によって規定されるのであれば、いくら部分が変化したところで、また新しい経験をしたと思われたところで、それらは全体にとってはすでに織り込みずみのもの、既知のものでしかありません。それらは、全体のうちにすでに内蔵されていたものが、新たに展開しただけとなります。じっさい、ドイツ観念論はこのような枠組みの中にあり、またそうでしかありえません。というのも、ドイツ観念論者にとって究極の全体性は神ですから(注1)、神が新しいものを獲得するとか、新しい経験をするということはありえないからです。

 しかし現代の哲学では、全体は言語であったり、人類社会(の歴史)であったりと、たとえそれが観念的・理念的なものであっても、此岸的に想定されます。したがって、部分の変化・経験が全体へフィードバックされないと、困ってしまいます。
 哲学的に見た場合、部分から全体へフィードバックする構造を確保できないということが、ドイツ観念論の重大な問題点だと思います。

拍手[0回]

PR
【2012/10/30 04:28 】 | data | 有り難いご意見(0)
ドイツ観念論とは? 3

------------------------------
(注1) 「自我は自ら自身を規定する、と言われる限り、自我には実在性の絶対的な総体が帰属する」(『全知識学の基礎』(1794年)、SW版フィヒテ全集、第1巻、129ページ) (戻る)

(注2) 『知識学への第2序論』(1797年)、SW版フィヒテ全集、第1巻、462ページ。 (戻る)

(注3) そこでこの「意識」は、現代的に解釈すれば、現象主義者のいう現象に近いものとして――つまり、「主観」「客観」「意識」等といったものをカッコに入れての、現れるがままの現象として――、あるいはそれらの現象が現れてくる現象野として、理解できる場合も多いです。
 なおシェリングは、1801年5月24日付けのフィヒテ宛の手紙では、「意識すなわち自我が、現存する絶対的同一性 [シェリングの絶対者] のいわば南天として」(『フィヒテ-シェリング往復書簡』、座小田/後藤訳、法政大学出版局では、142ページ。1856年版では、S. 76)と書いているように、「意識」を「知的直観の自我、すなわち自己意識の自我」(同 125 ページ。S. 58)の意味で用いています。 (戻る)

(注4)『幸いなる生への導き』(1806年)の「第5講」を参照。
 しかし、フィヒテが提示した「1. 感覚的世界~5. 学問的世界」は、客観的な存在としての対象ではなく、主観的見方の多様性にすぎない;したがって、それら5つの世界はメタ世界としての資格はないから、ここに登場させるのは失当である――このような非難があるかもしれません。
 すなわち、上記 1 ~5 の世界は、神的な存在が外化して現存したもの Dasein や、あるいはそれが持続する世界となったものなどではなく、そのような一つの世界を主観的に見るさいに生じる、見方の多様性にすぎません(同書、SW版では第5巻、463ページ)。とはいえ、
A . 1 ~ 5 の世界は、たんに私たちの内面的な心情 Gesinnung を表したものではなく、特定の見方によって生じている諸対象 Objekte です(同、468ページ)。私たちの立場から言えば、森羅万象がそのような対象として存在しているわけですから、各世界をメタ世界として扱いえます。
 そもそも単一の世界しか暗黙裡に想定しない立場からは、メタ世界なるものも、主観的な見方の多様性といったことになってしまいます。つまりそれを逆に言えば、「世界の見方の多様性」ということだけでは、メタ世界を否定することにはなりません。
b. 1 ~ 5 の世界は、「神的な存在の現存 Dasein と統一されて永遠に存在しており、[ただ] 一つの意識 [=神的現存] の必然的規定性」(同465ページ)です。したがって、たんに私たちの心次第でどうこうなるというものではありません。こうした客観性からも、私たちは 1~5 の世界をフィヒテのメタ世界として、扱いえると思うのです。(戻る)

(注5)『幸いなる生への導き』SW版では第5巻、513-514ページ。 (戻る)

(注6) 同、512ページ。(戻る)

(注7) シェリング『先験的観念論の体系』、オリジナル版 (1800年)では、90ページ。(戻る)

(注8) シェリング『自然哲学の体系の最初の構想』(1799年)、シュレーター編全集、第2巻、15ページ。(戻る)

(注9) 同、5ページ。(戻る)

(注10) シェリング『先験的観念論の体系』第3章「序言」。オリジナル版では、80-81ページ。該当箇所だけの引用では分かりづらいので、「序言」の最初から訳出すると:
 「私たちは自己意識から出発するのであるが、この自己意識は一つの絶対的な活動 [ A kt] である。そしてこの一つの活動とともに、自我自体および自我がもつすべての諸規定が措定されているのみならず、これまでの章での記述から十分明らかなように、自我に対して措定されているもの一般も、措定されている。したがって、理論哲学での私たちの最初の仕事は、この絶対的活動の導出であろう。

 けれどもこの活動の全内容を見出すためには、この活動を区分して個々の諸活動へと、いわば細分化しなければならないといえよう。これら個々の活動は、前述の一つの絶対的総合 [=活動] の媒介的な諸成分 [Glieder] となろう。

 全部まとまってある状態のそれら個々の活動から、私たちが継続的に [Sukzessiv] 私たちの眼前にいわば生じさせるのは、個々の活動すべてを包括する一つの絶対的総合によって、同時かつ一時に措定されているものである。

 このような導出をする仕方は、以下のとおりである:
 自己意識の活動は、同時にそして全くもって、観念的でもあれば実在的でもある。この活動によって、
・実在的に措定されているものは、直接観念的にも措定されるのであり、
・また観念的に措定されているものは、直接実在的にも措定されるのである。
 自己意識の活動の内での、観念的に措定されたものと、実在的に措定されたものとのこの徹底的な同一性は、ただ継続的に生じるものとして、哲学においては表象される。これは次のように、進行するのである。
 自我の概念から私たちは出発するのであるが、これは「主観-客観」[この "-"は "=" の意味です] の概念である。この概念には、私たちは絶対的自由によって、達することができる。さて私たち哲学徒に対して、前述の活動によって、あるものが自我のうちに客観として措定されている。そこでまだ、主観としては措定されていない。(自我自体に対しては、一つの同じ活動のうちで、実在的に措定されているものは、観念的にも措定されている)。
そこで私たちの探求は、
・私たちに対して客観として自我のうちに措定されているものが、
・私たちに対して主観としても自我のうちに措定されていることになるまで、
続けられねばならない。
 つまり、私たちが持つ客観 [的対象] の意識が、私たち [自身] の意識と、私たちに対しても 一致するまで、続けられねばならないのである。すなわち私たちに対し、自我自体が、私たちが出発した地点に到達するまでである」。(戻る)

(注12)『精神の現象学』「序文」(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第3巻、23ページ)(戻る)

(注13) ヘーゲルはこの考えを、アカデミックな哲学シーンに最初に登場したときから、持っていたと思われます。1801年、31才のヘーゲルは、イェナ大学で教える資格をえるために、12条からなる『教授資格討論提題 H A bilit A tionsthesen』を、提出します。その提題第1条が、有名な次のようなものでした:
「1. 矛盾は真理の規則であり、無矛盾は虚偽の規則である」。(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第2巻、533ページ)     
 この引用文中の「真理」や「虚偽」に限定がなく、一般的に述べられている以上、この提題は万物に、つまり個別者にも妥当すると見なすのが自然です。すなわち、万物が矛盾を内包しており、それが真実の姿であると、ヘーゲルは言っているようです。
 しかしこれは当時としては、破天荒な考えでしょうし、危険なものさえ感じます。文字通りに受け取れば、世界全体が何かとてつもなく不安定なものとなり、また「神・真理=矛盾」とすらなります。それが提題中の冒頭に位置するところに、彼の自負・気負いをうかがうべきなのでしょう。(戻る)

(注14)ただし、このようなフィヒテからヘーゲルへの進展は、思想史的に見ればということであって、現実に『幸いなる生への導き』がヘーゲルに影響を与えたかどうかとは、一応別問題です。とはいえ私見では、現実の影響の可能性もあると思います。この点については、拙稿「『精神の現象学』成立における、フィヒテ「5世界観」の影響の可能性」を参照下さい。(戻る)

(注15) 『世界の名著 43 フィヒテ シェリング』中央公論社(1980年)では、427-428 ページ。Über das Wesen der menschlichen Freiheit, SW, Bd. VII, S. 358 f.
 なお、このような人間・神への観点に加えて、<オオカミが子羊や人間を襲ってもそれは「悪」ではない>、なぜならば・・・、ということを考えれば、おのずとシェリングの『人間の自由の本質』は、理解されようというものです。(戻る)

(注16) Urfassung der Philosophie der Offenbarung, Felix Meiner Verl A g, 1992, S. 7.(戻る)

(注17) 「全体者の諸契機は、意識の諸形態である」。(『精神の現象学』緒論(Einleitung)、Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第3巻、80ページ)(戻る)

(注18) 『超越論的観念論の体系』、1800年の Original A usgabe, VIII-IX ページ。(戻る)

(注19) 「多数の生命 [個別者] が、[互いに] 対置している。これら多数の一つの部分は(この一つの部分そのものがまた、無限に多くのものより成っている。というのもそれは生あるものだから)、その存在を [それらから成りたっているところの無限に多くのものの] ただ統合としてもつのであり、関係のうちでのみ考察される。
「別の部分は・・・その存在をただ前述の部分からの分離によってもつのであり、対置のうちでのみ考察される。そこで前述の部分もまた、その存在をただこの別の部分からの分離によって、規定されるのである」。「1800年の体系断片」、Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第1巻、419ページ。(戻る)

(注20) なおここでの B, C, …は、『精神の現象学』においての「このもの」「物」…に該当することはもちろん、例えば『論理学』での「有」「無」…などにも該当します。といいますのは、論理の領域においては、すべてはまず「有」であり、ついでそのすべては「無」となり、…と展開していくためです。むろん「無」となっても、先行する「有」が否定態として保存されているため、まったく消失してしまうのではありません。(戻る)

(注21) K. ローゼンクランツ『ヘーゲル伝』、中埜肇訳、みすず書房(1991年)では、183ページ。1844 年の初版では、S. 201.
 なお、ヘーゲルのシェリング批判(ヘーゲル本人の弁では、シェリングの亜流への批判)としては、「すべての牛が黒い夜」(GW, Bd. 9, S. 17)などが書かれている『精神の現象学』「序文」が、ポピュラーです。しかし、これはシェリング哲学への批判としては、意味をなしません。ヘーゲルから『精神の現象学』を送られたシェリングが、その後彼への手紙で、的確に反論しています:
「だからぼくは今までに、序文しか読んでいない。君自身が序文の論争的な部分で述べていることに限っていえば、ぼくがこの論争に係わるためにはあまりにも自分を――正しい自己評価になっている範囲内においてだが――軽んじなければならないだろう。だからこの論争は、君がぼくへの手紙で言ってるように、ともあれ [シェリングの思想の] 乱用や [シェリングの] 模倣者に対して向けられたものなのだろう。もっとも序文そのものにおいては、[シェリング本人と乱用・模倣者との] 区別がつけられてはいないが。・・・
 「そこで打ち明けると、君は概念を直観に対置させているが、その意味が今もってぼくには理解できない。概念ということで君が考えられるのは、君とぼくが理念と名づけたもの、それしかないはずだ。この理念の性質(N A tur)は、理念がある面では概念であり、別の面では直観であるということだ」。
(Meiner 社の哲学文庫版 BRIEFE VON UND A N HEGEL (J. Hoffmeister 編)の 194 ページ。なお、上記の手紙の訳については、「シェリングのヘーゲル宛、最後の手紙(1807年11月2日付)」を、参照下さい)。

 けれどもこの限りでは、シェリングの反論が正しいとはいえ、ヘーゲルの真意を忖度(そんたく)すれば、直観が直接知なのに対し(むろん豊かな内容を持ちえますが)、ヘーゲル的概念は媒介知(自らを媒介する)だと言えます。この意味で直観とヘーゲル的概念は異なる、としなければ、ヘーゲル哲学が成立しないことになります。
(むろん初期のヘーゲルは、シェリング的な観点から、直観と概念の同一性を主張していました。例えば、1801年の『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』では:
「超越論的な知と超越論的な直観は、一つのものであり同一である。[知と直観という] 相異なる表現は、たんに観念的要因の優勢さを、あるいは実在的要因の優勢さを、示しているにすぎない」。
「超越論的な本質が、反省と直観を統一する。超越論的本質は、同時に概念であり、存在である」)。(ズーアカンプ版ヘーゲル著作集、第2巻、42ページ)

 なお、シェリングの同一哲学が「すべての牛が黒い夜」ではないことは――むしろ世上ヘーゲルの思想だとして紹介されるものと、そっくり(!)なことは――、以下の引用文が示すとおりです。少し長くなりますが、1806 年のシェリングの著作『改訂されたフィヒテの説と、自然哲学との真実な関係の説明』の一節です:

「理性に見捨てられた単なる悟性が、自ら自身を超え出ようとし、制限と対立から抜け出ようとするとき、この悟性が達する最高のものは、対立の否定である。すなわち空虚で非創造的な統一である。この統一は、その反対物をたんに神聖ではないもの、神的ではないものとしてしか措定できず、また排斥することしかできない。その反対物を自ら自身のうちに受け入れて、自身と真に融和させる(versöhnen)ことはできないのである。
「したがって、この悟性は統一を措定しながらも、その統一自体と対立との間の矛盾を存続させてしまう。このために悟性は統一自体をも、真に措定はしないのである。ところが理性は、統一であると同様、根源的にまた真に対立でもある。そして理性は、この統一と対立を同じように、また1つのものとしてさえ、把握する事によって、活ける(lebendig)同一性を認識する。対立は存在しなければならないのである。なぜなら、生(Leben)が存在せねばならないからである。というのも対立自体が生であり、統一内での運動だからである。
「とはいえ真の同一性は、対立自体を克服されたものとして、自らのもとに保持している。つまりこの同一性は対立を、対立としてまた同時に統一として、措定するのである。こうして初めて、この同一性は自らの内で活動的な、湧き出、創造する統一なのである」。(Sämtliche Werke, I, Bd. 7, S. 52)(戻る)

(注22) 「絶対的な全体性は・・・」ではじまり、編集者によって『体系のための1ページ』と題された草稿中に、次の2段落があります:
「[異なる諸構成要素(Glieder)の] 統一は、[絶対的全体の直観という] 理念のうちにあり、理念自体への関係においてある。そして [理念と] 実在する対立との統一、すなわち、単純なる理念自体のうちで必要とされていないものは、また対立 [する構成要素] 自体のうちでも、措定されてはいないという統一 [が存在する]。
「そこで、関係づけられたものとその関係とが、区別されえるかもしれない。つまり、
α) 対立する2つの構成要素 [=関係づけられたもの] と、
β) この2つの構成要素間の2つの関係との、すなわち、
αα) 1つの関係は、ただ2つの構成要素の統一へと反射し、
 [ββ)] 他の関係は、ただつの構成要素の対置へと反射するような、
2つの関係との、区別である。しかし、まさにこれらの関係は、それら自体が2つの構成要素なのである」。(GW, Bd. 7, S. 348f.)
 なお、この草稿が1804年頃であることについては、G. W. F. Hegel: Jen A er Systementwürfe II (Felix Meiner Verl A g, Philosophische Bibliothek) でのHorstm A nn 氏の序文 XXIII ページを参照。(戻る)

(注23) 止揚される個別者が、観念的であることについては、例えば、
・「d A s A ufgehobene (d A s Ideele)」(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第3巻、113ページ)
・「『有限なもの [=個別者]は観念的である』という命題が、観念論を形成する」(同書、172ページ)
などの記述があります。(戻る)

(注24) フィヒテにおいては、神と自我の両者が存在において通底はしています。例えば:
「知的存在(die verständigen Wesen)である私たちは、その在るところについて言えば、かの絶対的存在(Sein) [=神] ではありえない。しかしながら、私たち現存(Dasein)の内奥の根底においては、絶対的存在と連関しているのである」。(『幸いなる生への導き』、第4講。SW, Bd. V, S.448)
 けれども、両者が、別のものだという点では、シェリングと同じです。その上、、神は「永遠に自己と同一であって、変化しない」と言われます。(『幸いなる生への導き』の「内容目次 第1講」。SW, Bd. V, S. 575.(戻る)

(注25) 『超越論的観念論の体系』、1800年の Origin A l A usg A be、IX ページ。(戻る)

(注26) 2 人の観念論にそれぞれ「主観的」「客観的」という形容句を与えた嚆矢は、おそらくシェリング自身だと思われます:
 「例えばフィヒテは、観念論をまったく主観的な意味において考え、それに対して私 [シェリング] は、客観的な意味において考えたということもありえよう。」
(『私の哲学体系の叙述』(1801年)序文, オリジナル版(SW版)全集、第 I 部、第4巻、109ページ)
 ただここで注意すべきは、「フィヒテは、観念論をまったく主観的な意味において考え」たという表現をとるにしても、フィヒテの考える意識は現代風に言えば「意識自体の透明性に立脚した、客観的対象についての意識」だということです:
 「例えば、2 点間を通る直線はただ1本であるという、貴方の意識を理解してみて下さい。まず、貴方はこの意識のもとで、まさに自己把握(Sich-Erfassen)と透過性(Durchdringen)を、明証化の活動を持っています。そしてこれが、私が依拠する点(Grundpunkt)なのです」。(1801 年 5 月 31 日/8 月 7 日付のフィヒテのシェリング宛手紙。『フィヒテとシェリングの、哲学的往復書簡集』、1856年版では84ページ)

(注27)『知識学の概念について』(1794年), SW, Bd. I, S.59.

(注28) シェリング自身は、フィヒテ知識学との違いをどのように考えていたのかということですが、端的には次の文言が表していると思います。自然哲学についての諸論文を発表し、主著の一つである『超越論的観念論の体系』をも著した直後に、フィヒテ宛の手紙(1800年11月19日付け))でシェリングが述べたものです:

 「[フィヒテならびにシェリングの] 超越論哲学と [シェリング独自の] 自然哲学の対照(Gegens A tz)が、眼目となります。私は貴方に次の点だけは、確言できます:私がこの対照をもちだす理由は、[超越論的観念論に関すると思われている] 観念的活動と、[自然哲学に関すると思われている] 実在的活動を区別するためではなく、それよりは高次なことのためです。・・・
 「[両者を区別するかどうかといった論点については、私は貴方と同じ立場です。すなわち、] 私も貴方と同じく、2つの活動を一つの同じ自我のなかに措定しています。――したがって、この点には両哲学を対照する理由はありません。
 「理由は以下の点にあるのです:まさに前述の自我、すなわち、観念的=実在的であって、もっぱら対象的であるような、またそれゆえにこそ同時に生産的でもあるような自我が、この生産そのものにおいて、自然に他ならないのです。知的直観である自我、すなわち自己意識である自我 [=超越論的観念論を形成する自我] は、ただこの自然のより高次のポテンツ [=段階] なのです。

(注29)シェリングは、この点を強く意識し、フィヒテに主張してもいました:
 「[フィヒテの 1801年の著作である]『明快な報告』で述べられている観念論は、私 [シェリング] にはかなり心理学的なものに思われます」。(Fichtes und Schellings philosophischer Briefwechsel, 1856, S. 107. 『フィヒテ-シェリング往復書簡』座小田/後藤訳、法政大学出版局では、168-169ページ)
目次へ

 カントを含めない理由は?

 私たちとしては、次のように用語を使い分けたいと思います:
カントの哲学は「批判哲学」;
カントの活躍した時代から、ヘーゲルの時代まで哲学者たちが輩出しますが、それらをまとめて言うときには「ドイツ古典哲学」;
フィヒテ・シェリング・ヘーゲルの哲学は、「ドイツ観念論」。

 フィヒテら3人の哲学は、「① ドイツ観念論とは?」で述べましたようにメタ世界観をとりますから、3項図式に立つカント哲学とはまったく異なります。実際、フィヒテはカント哲学を基礎づけようとして、知識学を著したのであり、カントを発展・詳述しようとしたのではありません。基礎づけるものは、基礎づけられるものとは次元を異にせざるをえません。(注3)
 カントはフィヒテの考え方が分かっていない、いやフィヒテの著作をきちんと読んでさえいないと、シェリングは嘆きました。それに対してフィヒテは、彼はもう老人なのだから、責めてはいけないと諭しています。(注1) 

 ところで簡単な哲学史では、カントの次にはヘーゲルが紹介され、両者が対比されます。フィヒテとシェリングは飛ばされがちです。そしてヘーゲルの重要概念である「矛盾」なども、カントの著作に淵源するかのように説かれます。これでは、ドイツ文化史としてはいいのかもしれませんが、たとえ簡略化されたものにせよ、哲学史としてはおかしいのです。
 たとえば、日本史を教えるのに、室町時代後期の戦乱(戦国時代)から、(安土・桃山時代は30年前後しかなかったという理由で)信長・秀吉をとばして、徳川家康の江戸時代に進んだとしたらどうでしょうか。外国人相手であればそれでもいいのかもしれませんが、日本人に対しては、たとえ小学生であっても、日本史を教えたことにはならないでしょう。
 第三者としてみるとき、ドイツ観念論の3人には哲学的な強い絆があります。また、それぞれが著作をするときには、互いの著作や、それらを読んだ読者が前提となっています(もっとも、フィヒテはヘーゲルをほとんど意識しなかったようですが)。私たちがそれぞれの哲学者を十分に理解しようとするときには、他の2人の理解が不可欠となるのです。

 カント哲学に対する態度は、フィヒテの場合は上述したようなことであり、さらに、カントの精神は継承するが、彼の著作の字句は引き継がない、この点では世間のカント学者と反対であると、彼は考えていました。
 シェリングとヘーゲルは、カントの歴史的意義は最大限に認めており、彼の哲学はとうぜん心得ていますよ、といったポーズのもと、しかし私は新しい決定的にすぐれた哲学を出すんです、というスタンスです。(注2)

------------------------------
(注1)シェリングからフィヒテ宛の書簡(1799/9/12)、フィヒテからシェリング宛の書簡(1799/9/12?, 1799/9/20) を参照。 
 これらの書簡は、師(カント)と弟子(フィヒテ)間の、愛と悲劇の1つの典型を物語っており、涙なくしては読めないものとなっています。
 老カントは、フィヒテの作品に対してだけ冷淡であったというのではなく、若い人の著作一般に対して、直接読むということはあまりしなかったようです。カント哲学を批判したシュルツェの『アイネシデモス』に対するコメントも、「2次的な」知識に基づいてのようです(MEINER 社版『アイネシデモス』(1996年)、M. Frank の Einleitung, XVIII ページ)。(戻る)

(注2)こうした事情を窺わせるものとしては、シェリングがカントの逝去に際して書いた『イマヌエル・カント』(1804)があります。いろいろな意味で興味深いオマージュとなっています。 (戻る)

(注3)フィヒテ自身の言葉では:
「私の体系は、カントの体系と異なるものではない。つまり私の体系は、事柄についての同じ見解を含んでいるが、しかし論じ方 Verf A hren においては、カントの叙述からはまったく独立している」。(『知識学への第1序論』SW版、第1巻、420ページ。) (戻る)
目次へ

 カントからフィヒテへの進展の経緯は?

 カントに心酔していたフィヒテが、1794年に自らの哲学「知識学」を形成するまでの、思想的な道筋をこれから検討します。しかし、カントの『純粋理性批判』(1781)から『全知識学の基礎』までの、ドイツ思想界の全体的な状況を説明することは、私の手に余りますし、またここでは必要ないでしょう(注1)。
 フィヒテの最初の主著である『全知識学の基礎』(1794年9月)に先だって、同年4月にいわば予告編として出版された『知識学の概念について』には、次のように記されています:
「懐疑論者たち、とくにアイネシデモス [=シュルツェ] や、マイモンのすぐれた著作を読むことによって、筆者は以前から予感していたことを、確信するにいたった。つまり、哲学は最近の鋭敏な人々 [カントとラインホルトを指す(注19)] の尽力をもってしても、なお明証的な学問の段階へとは高まっていないのである。」(注2)
 このフィヒテ(1762-1814)の述懐からは、彼の思想形成の過程で、カント(1724-1804)、ラインホルト(1758-1823)、シュルツェ(1761-1833)、マイモン(1753-1800)が重要な役割を果たしたことがうかがえます。そこで順に見ていきましょう。

(1) カント哲学の非原理性
 フィヒテの人生に方向を与え、青春を救ったともいえるカント哲学でしたが、「なお明証的な学問の段階へとは高まっていない」と、彼が『アイネシデモス』を読む以前から感じていたのは何故なのか、これについてははっきりしません。しかし、カント哲学に対する不満は、なにもフィヒテや少数者だけのものではなく、当時多くの人たちが持っていました。上記のシュルツェに言わせると:
「ドイツ各地の大学では、少なからぬ哲学教師たちが、『純粋理性批判』の主要な諸説が真理かどうか、確信をもてないでいる。それらの教師たちは、『純粋理性批判』を偏見を持たないで注意深く研究しており、・・・その上、<この名著に頑固に敵対している輩は、この著作が前提とした出発点 [=問題意識] も、結論も理解してはいない>と、認めてもいるのだが」(注3)。

 ふつう、「カントの哲学では、理論理性と実践理性が分裂していたのを、フィヒテが統一しようとした」などと、紹介されます。でもこれでは、カントの理論理性はそのものとしては、十分であったかのようです。しかしカント哲学の薫陶を受けはしても、若い世代から見れば、それは理論理性自体としても学問的に問題をはらんでいたのです。したがって事態は、もっと深刻でした。
 その不満な理由は各人いろいろあるにしても、最大公約数をとってみれば、カント哲学は結局のところ原理的な基礎付けを欠いている、ということだと思われます。当時、哲学あるいは学問の理想は、ユークリッド幾何学にみられるように、1つあるいは少数の自明の原理から、すべての部門・事柄を包括する内容を導出して、厳密な体系を構成することでした(注18)。(ラインホルトやフィヒテが目指したものも、こうした哲学でした)。(注4)
 ところがよく知られているように、「カントは――後年のシェリングからの引用になりますが――、認識の本質については一般的な探求をすることなく、すぐに個々の認識源泉の列挙へ・・・向かいました。これらの諸源泉を、カントは学問的に導出したのではなく、たんなる経験から採用したのです。彼の列挙の完全性や正しさを保証するような、そうした原理はありませんでした」。(注17)
 また、カント哲学はいわゆる三項図式「客観(物自体)―意識内容(現象)―主観」から成りたっており、存在論的になんら共通性をもたぬ3項を前提にしています。口悪く言えば、対象の側でのわけの分からぬ物自体、主観の側でのこれも不可知な物自体としての心、そして両者の合作とされる表象からできており、これではいかにこれら3項を関連付けるにせよ、どこか無理がでてくるのもいたし方ないといえます。(注5)

拍手[0回]

【2012/10/30 04:28 】 | data | 有り難いご意見(0)
ドイツ観念論とは? 2

 ドイツ観念論が理解されにくいのは、その発想があまりに奇抜だったせいだと思います。ようやく最近にいたって、理解できる客観的状況ができてきました:
 自我が「自らを措定する」という事態を、私たちは「メタ化」(メタ言語の「メタ」)として理解しようとするのですが、met A l A ngu A ge なる語の初出は、ランダムハウス英語辞典によると1936年です。ヘーゲルの「赤色は、黄色や青色が対立するかぎりにおいて存在する」(注2)という講義録を読んでも、構造主義言語学がブームとなったあとの私たちには、違和感はありませんが、そのブームは20世紀も後半でした。
 そして何よりも、廣松渉氏によるヘーゲル左派・マルクス解釈(1970年頃~90年頃)の登場です。家庭の内情は子供に現れるなどと申しますが、ヘーゲル以降の解明が、逆にドイツ観念論理解に与えたヒント・刺激は、じつに大きいものがありました。

 しかし、ドイツ観念論はヘーゲル左派やマルクスによって克服されてしまった哲学ではないか、との疑念がとうぜん浮かびます。これに対しては、次のように考えたいと思います:
 一般的にいって、新しい哲学は、前代ないし当代の哲学を否定して登場することになります。この点は新しい科学理論の登場の場合と同じです。芸術の場合はこれとは違い、新流派の登場は、客観的にみれば新しいものが付け加わってくることになります。もちろん、新人芸術家の主観的心情としては、それまでのものを否定したと思う場合も多いことでしょう。けれども私たちは、古典主義の音楽も、ロマン主義も12音階音楽も、等しく享受しています。
 つまり、哲学の進展があるかぎり、どのような哲学も否定されます。とはいえ、私たちはニュートンのプリンキピアは読みませんが、プラトンや論語は、さまざまにいたるところで否定されてきたにもかかわらず、あい変らず愛読しています。この点では哲学は、芸術に似ています。
 ドイツ観念論もなるほど否定はされましたが、読みつがれ、新しく解釈しなおされていくというわけです(注3)。 余談ながら、ドイツ観念論を否定する思想のどこに不満があるのかをいえば:
 マルクス主義は、生成する歴史にすべてを還元して、社会の永遠普遍の諸側面・変化しないパターンに、視線がいかない、あるいはそれらを認めようともしない点。廣松哲学は、「共同主観性」や「関係の第1次性」を論証した点で傑出しているにしても、それは私たちの観点からすれば、世界の共時的(synchronic)構造であって、世界のいわば通時的(di A chronic)構造(現実の時間的経過は意味しない)である、メタ化構造の把握に弱い点です。(注4)

------------------------------
(注1)シェリングやヘーゲルの自然哲学での具体的議論は、その典型でしょう。しかし、結果的にはともかく、原理的には以下のような構成になっていました:

 「自然哲学(N A turphilosophie)は・・・自然を自立的なものとして措定する。・・・超越論的哲学が [与えることができるような、自然についての] 観念論的な説明の仕方は・・・自然哲学においては行われない。そのような説明の仕方は、自然学(Physik)や自然学と同じ立場に立つ私たちの学問 [=自然哲学] にとっては、意味のないものである。それは丁度、かつての目的論的な説明の仕方や、普遍的な目的原因を、それらによって歪められた自然科学(N A turwissensch A ft)に導入することと、同じなのである。
 「というのも、その固有の領域から自然の説明の領域へと引っぱってこられた観念論的な説明の仕方は、すべてまったくの空想じみた無意味さに堕してしまうのだから。そしてこうした例は、よく知られている。そこで、私たちの学問 [自然哲学] は、すべての真の自然科学がもつ第 1 の格率を――すなわち、すべてのものを自然力から説明せよ――、最大限に受け入れるのである。」(『自然哲学の体系構想への序論』、オリジナル版シェリング全集、第 III 巻、273 ページ)

 そしてシェリングが行った議論は、当時としては最先端のものであり、ゲーテやシラーの賛辞を得たといわれます(『先験的観念論の体系』蒼樹社、昭和23年、赤松元通氏の解説480ページ)。
 現今の認識論を扱った哲学の著作では、相対性理論や量子力学にふれることも多く、私たちは感心しながら読んでいますが、これらもあと50年もたつと、シェリングやヘーゲルの自然哲学と同じ、いやよりひどい運命をたどらぬとは限りません。(戻る)

(注2)『エンチクロペディー』、42 節の補遺 1。(戻る)

(注3)過去の偉大な思想を、現代において解釈しなおすとは?→参照  (戻る)

(注4) 廣松渉氏の代表的著作である『存在と意味』、および『世界の共同主観的存在構造』を見ても、およそ根源的運動(いわゆる弁証法的運動など)は登場しません。むろんこのことを以って、すぐさま氏の哲学の欠点とするのは、無体というものでしょう。それに、氏の意想を忖度すれば――
 前記の両著作で展開している認識論・存在論は、まだ哲学体系の端緒というべく、その意味で抽象的なものにすぎない。それらが具体的・現実的なものになるのは、そこからさらに上降した歴史的な実践の場においてである。この実践の場においては、共軛的諸個人の活動が、共同主観性を形成している。この共同主観性こそが、おもに生産関係と生産力との 2 大要因の関係によって、生成変化の根源的運動をするのである、云々。

 しかしながら、上記のような氏の意想(?)を承認するとしても、私たちの立場からすれば、抽象的端緒において根源的運動はどのような表現をとるのか、ということが説かれなければならなかったと思います。それは氏の論述に即せば、「反省」においてです(『存在と意味』1982年、138頁から)。ここでの氏の議論は秀逸なものですが、しかし、141 頁にあるように、 反省によって加わるとふつう考えられている "自己意識" は、その場のたんなる「パースペクティブな布置の覚識・・・に他ならない」とされます。つまり氏によっては、"自己意識" 以前と以後との質的相違が――すなわち、私たちの観点からすれば根源的運動の引き起こす相違が――、説かれません。氏の用いた例を援用して説明すると:

 「映画に熱中していてハッと我に返った場面を想定されたい。スクリーンの範囲だけで比較すれば、対象的意識内容には別段変化がないように思える。しかし、今では、それまで見えていなかったスクリーンの両袖、観客席、・・・それにこの ”身体” も意識野内に登場している。対象的意識野に明らかな変化が見られるのである。・・・
 「[ハッと我に返る] 反省において塁加する “自己意識” なるものの実態は、このパースペクティブな布置の覚識([つまり、] ”この(視座的)身体<これは・・・物理的肉体の謂いではない>への帰属の覚識)にほかならない」。

 氏のこうした主張は正しいにしても、しかし私たちとしては、「ハッと我に返る」以前には映画の世界に没入していたのに、以後は日常世界に戻っている、という重要な相違を指摘したいわけです。(この論点については、拙稿『多世界の生成と構造』の第1章を参観下さい)。
 また氏によっては、セルフレファレントな “自己意識” は、必然的に存するという扱いにはなっていません。したがってその必然性の構造なども、問題外のままです。(戻る)

(注5) 他方では例えば岸駒(がんく)のように、高位に昇り、財をなし、長寿をえても、今日では専門家と好事家の注意を引くにとどまる人もいます。私もはじめて彼の若い時の絵に接したときは、そのセンス、技術、そして覇気を目にして、「すごい」と感嘆したものです。しかし、今から思えば、画中の人物が、今ひとつ面白くなかったようです。水墨画の人物像には、画家の志や人生観が現われやすいだけに、今となっては「やはり・・・」と納得するのですが、後知恵というものでしょうか。
目次へ

 3人のそれぞれの特色は?

  まずよく言われる、フィヒテ「主観的観念論」、シェリング「客観的観念論」(注26)、ヘーゲル「絶対的観念論」という特徴づけは、公民・倫理的な知識としてならともかく、哲学的にはあまり意味があるとは思えません。といいますのは、主観的とされるフィヒテにせよ:

1) 彼の自我には「実在性の絶対的な総体が帰属する」(注1)のですから、その自我を主観的と見なすのは早計です。
2) 彼の自我は、デカルト的な私の意識といった主観的なものではなく、「自我と自己内への帰還の行為は、まったく同じ概念である」(注2)と言われるように、メタ化運動をする主体ということに力点があります。したがって、そのような主体を主観的と、まず決めつける必要はありません。
3) なるほどフィヒテは、「意識」という用語を多用することから、彼の哲学は主観的なものだと見なされがちです。しかし、彼が賞賛した先輩のラインホルトの「意識」を、ここで想起すべきだと思います。
 ラインホルトの有名な意識の命題「意識のうちで、表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる」が表しているように、意識はたんに表象(いわゆる意識内容)や主観の働き(意識作用)のみを指すのではなく、客観(物自体)をも包含する、何か大変大きいものを意味しています。むろん、そのようなものがありえるのか、という疑問は残ります。しかし、ラインホルトによって、従来的な主観性に局限されない新しい意識の語法が、生じたとは言えるとおもいます。
 私たちは、この意味での意識の語法をフィヒテは使っており、またシェリングやヘーゲルも継承したと考えます。(注3)
4) フィヒテは、読者に対して彼の哲学(例えば自我の自己措定)を説明するという姿勢のときには、読者自身の内観に訴えるなどしています。そのときは、たしかに彼の哲学は主観的あるいは心理主義的色彩をおびてきます。 (注29)
 けれどもこれは、新しい思想を説明せねばならぬとき、古い用語を使ってなんとかコミュニケーションをはかろうとする、努力の表れといえます。ちょうど子供にクジラを説明するとき、「海に住んでいる、一番大きなお魚さん」というようなものです。

 というわけで、最初のフィヒテを小さく「主観的」とし、それを段々と拡大深化ないし無条件化していったのが、シェリングの「客観的」(注28)およびヘーゲルの「絶対的」だとする見方は、私たちはとりません。むしろ、「①ドイツ観念論とは?」の(2)で述べましたように、3人ともメタ世界論者であってみれば、、彼らの特色はそれぞれにおけるメタ化のありようの違いに、以下求めていきたいと思います。

● フィヒテでは:
全体者である自我( A とします)は、自己「対立(Widerstreit)」の契機を持ちます。そのことにより、自己措定をするのですが、措定してできた B, C, D・・は、すべて A から直接生じるといえます。これらは、それぞれが全体的な世界です。後期の代表作『幸いなる生への導き』では、低次の感覚的世界から最高次の学問的世界まで、5つの世界が生じます(注4)。
 そして、「生を見る見方の可能性は、数において上記の5つのあり方 [1. 感覚的世界~5. 学問的世界] に限られている」(注5)と言われるように、そのうちのどれかは常に生じてきています;しかし、「上記の5つの観点は…すべての時点を満たすことに関して、同様に可能なものとして措定されている」ので、どの世界になるのかは必然的には決まらず、これらのうちのどれも生じる可能性をもっています。(注6)

 ただし、体系をなす知識学の叙述は、「循環(Kreislauf)」をすると主張します。「私たちが出発したところの原理が、最終の結果ともなる」わけです(注27)。

● シェリングでは:
絶対者 A 自体の中に絶対的な「対置(Entgegensetzung)」があり、そのため A は産出の運動(自己措定)をすることができ、B, C, D, ・・・が成立します(注7)。(この点では、フィヒテの「対立」を一歩進めた形になっています)。
 ところが直接的には、C は B から、D は C からと、個別者から個別者へ継続的に―― in Continuität, Evolution, Succession などの語句が使われています(注8)――生じます。すなわち、B, C, D などの各「産物は、ふたたび [後続の] 諸産物へと分解」するのです(注9)。 このことを可能にさせた点に、彼の自然哲学の意義があるといえます。

 さらにシェリングは、こうした産出の論理を、絶対者の自然の側面を扱う自然哲学から、絶対者の知性(das Intelligente)の側面を扱う観念論哲学にも及ぼします。すこし長くなりますが、有名な『超越論的観念論の体系』(1800年)から引用しますと:
 「観念論をその全広袤において叙述するという、著者 [シェリング] の意図を実現するための手段は、以下のとおりである:哲学のすべての部分を一つながりに、・・・そして自己意識の継続定な歴史として・・・述べたことである。
 「この歴史の正確かつ完全な輪郭を描くことにさいして、とくに重要だったのは、この歴史の個々の時期(Epochen)や、これらの時期がもつ個々の契機を正確により分け、なおかつ一つの連続性において(in einer aufeinanderfolge)表すことだった。この連続性のもとで、人は方法 [前述の手段] そのものによって――この方法によって連続性は発見されるのだが――、確信できるのである:「必然的に存する中項 [中間に存する時期や契機] は、何一つとして省略されてはいない」と。・・・
 「特に著者をして前記の連関――この連関はもともと直観の段階的発展(Stufenfolge)なのであり、この段階的発展によって、自我は最高のポテンツにおける意識へと、高まるのであるが――の記述に、精力を費やさしめたものは、だいぶ以前から抱懐していた自然と知性(das Intelligente)との並行論(Parallelismus)であった。この並行論の完全な記述は、超越論哲学だけでは、あるいは自然哲学だけでは不可能であって、ただ両哲学相まって可能なのである」。(注18)

 つまり私たちの観点からすれば、C, D 以下のメタ世界が、それら以前の個別的諸世界から生じるようになったと言えます。とはいえ、C, D 以下が何によって生じるのかといえば、それは絶対者 A のもつ諸ポテンツ(量的差異のある勢位)が現実化することによってです。つまり、絶対者の規定性(ポテンツ)から直接にC, D 以下が生じています。(絶対者の規定性そのものは、私たちの経験的世界には現れません。この点では、カント以来の超越論的観念論の枠内にあるとも、言えます)。
 そしてその進行の結果、出発点 A と終局点は同じになると、シェリングは主張しました。(注10)
  しかしながら、超越論的観念論と自然哲学という2分野そのものは、並置されたままです。上記引用文のすぐ後の箇所に、超越論哲学と自然哲学は「2つの永遠に対置される学問にほかならず、決して一つのものに移行することはできない」(注25)と、書かれてあるとおりです。この点は、スピノザの実体の2つの属性である物心の並行論を、思わせます。シェリングも、当然スピノザを意識していたことでしょう。

 ところで、後期のシェリングにおいても、上記のような論理構成は変わっていません。例えば、 A が自己措定して現実的存在である B が生じるという論理は、『人間の自由の本質』(1809年)においては、世界(超越論的観念論と自然哲学の扱う対象)にのみならず、なんと神にも適用されています。(注24) 根拠としての神、すなわち神のうちの自然( A )が、存在(Existenz)としての神(B)を産出するのです(注15)。
 また、個別者から個別者が継続的に生じるという論理は、『啓示の哲学』(1831年の講義草稿)では、「エデン(B)→神話(C)→啓示宗教(D)」という展開に生かされています(注16)。

● ヘーゲルでは:
 B → C → D → ・・・ A → B と円環状に、また必然的に進行するのは、B, C, D それぞれの個別者が持つ自己矛盾によると主張しました。つまり、直接には各個別者がもつ規定性(の矛盾)によって、C, D 以下が生じるのです(注20)。(個別者が持つ規定性は、当然のことながら私たちの経験的世界に現れます。この点で、カント以来の「超越論的」発想が登場する余地はなく、「超越論的観念論」はヘーゲルによって絶たれたと言えます)。
 したがって、全体(=絶対)者のもつ個別的な諸契機も、シェリングの場合には量的な差異であるポテンツという全体者自身の規定性でしたが、ヘーゲルの場合には、例えば精神の現象学では、「意識の [個別的な] 諸形態」になります(注17)。
 ヘーゲルがシェリングを批判するのも、この点においてです。ローゼンクランツによれば:
ヘーゲルは「シェリングの偉大な功績を暖かく称賛したが、しかしヘーゲルは、まったくの無差別としての絶対者内の対立(Entgegensetzung, 対置を、たんに量的なものとして区別(すべては、一方の要因が他方の要因より優勢だということであって、真の区別ではない)することについては非難した。また、弁証法の欠如を非難した。弁証法は、プラトンにあってはすべての内容に伴っていたのであり、シェリングはこのこと以外では、少なからずプラトンとは似た点があったのだが。・・・シェリングについてのこのような意見が、ヘーゲルの決まり文句となった」(注21)。

  そして、ヘーゲルにあっても全体者である一者のもつ諸契機は個別的な(全体者に対して)諸形態ですが、しかしそれらは1つの循環運動をすることになります。そこにおいては、ヘーゲル哲学を構成している論理学、(形而上学)、自然哲学などの諸分野が、並置されずに、1つの循環過程に置かれているのです。そのような構図はすでに、1801/02 年の講義草稿において取られていますが、前記の分野に加えてさらに精神哲学と宗教・芸術が増設されています。
 そして神も、ヘーゲル哲学においては特定の領域を占めることはなく、この1つの循環の総体が神だとされます。

 ところで個別者の自己矛盾という観点から、フィヒテの『幸いなる生への導き』第5講義に見られるような諸世界観を展開するとき、『精神の現象学』が誕生することになります。(注14)

 しかし、それでは絶対的全体者の A が必要ないかといえばそうではなく、個別者 B, C, D, ・・・は A から存在性を与えられているとする点では、フィヒテやシェリングと同様です。そして、各個別者における自己矛盾とは、私たちから見るとき、それぞれが持つ個別者の契機と、全体者の契機の矛盾にほかなりません。あるいは、個別的契機どうしの矛盾も、全体者のうちにおいて生じているのです。
 結局、フィヒテ以来の自我 A の自己措定というモチーフは、ヘーゲルにおいても保持されており、絶対者が「現実的であるのは、それが自己措定 [B, C, ・・] の運動である限り」においてである、ということになります。(注12)
 ではなぜヘーゲルは、各個別者が自己矛盾を持たざるをえないと発想したのか(注13)、という問題が残ります。文献的には、あるいは事実上はこの問題ははっきりせず、諸説あります。しかし、思想史的には:
フィヒテ以来、真の全体者 A は自己対立(矛盾)に付きまとわれてきましたが、、ヘーゲルに至って、 A が自己措定した B, C, ・・も、( A = B, A = C,・・ですから)当然のことながら矛盾を有すると、考えられるにいたった。
――このように見るのが、妥当だと思われます。

 なお、はやくも1800年には個別者の存在を、関係態に帰しているのが注目されます(注19)。そして、1804年に書かれたとされる草稿では、構成諸要素(Glieder)とそれらの間の諸関係とは、等しいとされています(注22)。
  そしてこの諸関係の総体――といっても寄せ集めではなく、順次に発展していく関係態の総体――が、ヘーゲルの「全体性・統一性・普遍者・絶対者」です。これら関係態は、具体的には構成要素間の移行運動として現れることになります。
 構成要素(個別者)は一応実在するのに対して、関係態は観念的あり方をしているといえるでしょう。そして実在するはずの構成要素も、すぐに移行運動の内で止揚されます(これは、構成要素の存在性が、総体の関係態のうちに、すなわち運動を本質とする関係態のうちに、あるためです)。そして、1つの契機として保存されます。つまり構成要素も、1つの観念的な関係態としてしか存立しません(注23)。
 このようなヘーゲルの観念論をみるとき、ヘーゲル哲学を 「実体主義から関係主義への移行期」としか捉えないのでは、やはり不十分でしょう。この哲学は、実質的には関係主義に立脚しているのです。またそこに、ドイツ観念論内でのヘーゲルの位置づけがあると思います。

拍手[0回]

【2012/10/30 04:27 】 | data | 有り難いご意見(0)
ドイツ観念論とは? 1

出典
http://ntaki.net/di/7q/index.html#1


 ドイツ観念論とは?

 フィヒテが、「自我は、みずからを措定する」と主張したとき(1794年)にはじまった世界観で、
・シェリングや(絶対者とは、自己の外へ出て行くという、永遠の行為に他ならない)、
・ヘーゲルによって(実体は主体である)、
展開しました。(注10)
 3人に共通な考えは:
全実在性をもつもの(自我、絶対者、実体など)が自らを多重化することによって、その実在性は現実化される。そしてその多重化は、またもとの1つのものに戻るというものです――しかし、これでは何のことか意味不明ですので、フィヒテから見ていきましょう。

(2) フィヒテの自我(1) 基本的な発想
 上記のフィヒテの自我は、私たちがふつう考えるような、「私」としての個々人の自我ではなく、「すべての実在性をもつ」(注12)ものです。現代哲学の用語で言えば、「共同主観性」(廣松渉)が案外近いかと思います(注11)。ここでは簡単に考えて、すべての実在性をもつことから、世界全体だと理解しておいていいでしょう。
  そこで、世界(あるいは伝統的用語でいうと、「実体」、「存在」)が、自己措定することこそが世界そのものであると、フィヒテは発想したわけですが、これが、ドイツ観念論の基本モチーフになりました。

(しかし注意したいのは、上記の措定する自我は、経験に直接現れることはないということです (注1)。といっても、想像上のもので、仮定されたものでしかないというのではありません。
 例えば「日本語」をとり上げてみますと、これは英語や独語などと共に確かに存在します。また考察の対象ともなりえます。文法はどのようになっているかとか、単語には何々があるとか。しかし、日本語そのものを私たちの眼前に、一挙に現象させることは不可能です。もちろん、文法規則や単語を細大もらさず記述することはできるでしょう。しかしそれは、日本語文法や日本語単語の現象であっても、日本語の現象ではないのです。したがって、現象する(使われる)のはつねに日本語の一部、あるいは正確にいえば一例であって、日本語そのものは超越論的(transzendental, 先験的とも)なままにとどまります。
 同様に、フィヒテの「措定する自我」を「世界」として理解するといっても、経験的な世界ではありません)。

(2) 私たちの現代的理解
 だがこれはいかなる事態なのでしょうか。表面的にみれば、世界(存在)を静的なものとしてではなく、動的なもの・つねに創造的過程にあるものとして捉えることになります。しかし、たんに世界は不断の変化・生成のうちにあると観ずるだけでは、ドイツ観念論が世界哲学史に残るようなことはないわけです。それに、運動や変化といっても、物理的・心理的変化ではありません。
 (ドイツ観念論の代表作のひとつは、「自然や有限な精神を創造する以前の、永遠の本質における神の叙述」 (注2)であるヘーゲルの『論理学』です。またもともとのフィヒテの自我の活動にしても、時間とは関係がありません (注3)。 したがって、あえて平板に、今様に言えば、意味論的な展開・運動だということになります。なお、後述するように私たちの立場からは、この運動は「メタ化運動」だと言えます)。

 身近な例をとれば、言語学でいうメタ言語の「メタ」(「超える」とか「上位の」という意味のギリシア語から)が、自己措定にあたると思われます――つまり、フィヒテなどが自己措定を発想する仕方は、私たちのメタ言語の見方と似ています。メタ言語というのは、「対象 [例えば、"木" や "愛情" など諸々の事柄] について述べる言語を対象言語(object language)というのに対して、対象言語の表現内容について述べる言語。高次言語」(広辞苑)のことですが、簡単に言えば、言語自身を対象として述べる言語です。
 たとえば、日本語( A )の文法的特長をしらべて、「日本語では、目的語は動詞の前に置かれる」(B)と述べたとします。この B の言語はやはり日本語ですが、しかし、同じ日本語 A を対象として述べています。A と B は階層(次元)を異にする別々な言語とみなせます (注4)。このような自己言及的な言語 B が、 A のメタ言語です。(注5)

 ところで、B はどこから生じたのかといえば、 A の日本語からです。あたかも言語的意味性すべてを有する(――日本語話者にとっては) A が、みずからを措定して B になり、自らに対している(für sich, 対自)かのようです。
 そして、 A , B 両者をみると、B も日本語ですから、 A に含まれるとみなせます。このとき B は A に帰還する構図となります。しかも、B がはじめて述べられたときには、もともとの日本語 A に B は現実的にはなかったのですから、 A は以前より豊かになったともいえます。こうした事態は、ドイツ観念論がいうところの自己措定(外化)と自己内への帰還の構図と(注13)、よく合致します。(注6)

 そこで私たちは、ドイツ観念論を現代哲学の立場から見るときには、世界のメタ化論、あるいはメタ世界論(met A cosmism, Met A kosmismus)と捉えるわけです(注7)。
 ではなぜドイツ観念論を、フィヒテ以来の用語を使って、「自己措定」論と称さないかということですが、シェリング(とりわけヘーゲル)になりますと、自我(絶対者)の自己措定ということが、哲学体系を叙述する上からは必要なくなるからです。各世界は、前の世界から直接生じることになります(この点については、「③ 3人のそれぞれの特色は?」を参照してください)。

(3) 根本的な特徴
 さて、世界 A がメタ化し、世界 B が生じます。あるいは、自我(実体、存在) A が自己措定して、B が生じます。この A は「すべての実在性」を持ちますから、精神的な能知の契機も含んでいます。したがって、 A は認識する主観として、B を認識の対象とすることになりますが、B は自己自身ですから、ここに生じている意識は自己意識だといえます――と、一応はこのように、ドイツ観念論を理解することができますが、このままでは誤解のおそれがあります。
 近代的な認識主観(デカルトのコギト、カントの物自体としての心など)とはことなり、上記の A はそれ自体としては現実的に存立していません。また、B もそれ自体としては、対象的な世界たりえないのです。現代的に表現すれば、 A と B の関係態のうちにおいてのみ、認識主観は存するし、自己意識としての対象世界も成立しているのです。「世界(自我)が自己措定することこそが、世界そのものである」と最初に述べたのは、このような意味においてです。
 このことを説明するために、また言語の例を持ち出せば、私が「今日は暖かい」(上記の B)と書いたときに、それがインクのシミとしてではなく、意味を持った言葉として理解されるのは、日本語を解する人に対してだけです。つまり、日本語(上記の A )を有する話者主体がいなければ、「今日は暖かい」は言語たりえません。逆に、書かれたり、話されたりした B, C, D,・・・なくしては、日本語 A は存在しないことになります。
 したがって日本語が真に成立するのは、 A と B (C, D,・・・)との両方が存在することによってです。しかも両方が無関係だったのでは、それぞれ片方しかないのと同じですから、両方は相互に照合していなければならないわけです。(注14)

 ただし、 A と B との関係は、いわば同じ平面上で並列的に、一つのものが半分ずつに分裂したとか、一方がコピーされて他方ができたようなものではありません。2つは、対応関係をともなってはいるが次元が違うという、メタ関係にあります。このことをフィヒテは、後期の代表作『幸いなる生への導き』(1806年)では、内容上の劈頭で次のように述べています:
 「愛は、それ自体としては死せる存在を、いわば2重の(zweim A lig)存在へと分かつ:この死せる存在を、自らの前に立てながら。そして愛はこのことによって、死せる存在を自我に、すなわち自己にするのである。この自我は自らを直観し、そして自らについて知る。・・・愛は再び、分かたれた自我をもっとも緊密に統一し、結合する・・・」。(注8)
 一般向けの宗教講和ですから、「愛」などの用語がでてきますが、注目すべきは、「2重の(zweim A lig)」の用語が使われ、たんに並列的なものをイメージする「2つ(zwei)」の用語ですましてはいないことです。また「自我」は、分かたれた2つの存在のどちらかを指すのではなく、2つとも含んでいます。そして自己知というのは、分かたれている事から生じています。

 こうして、「メタ化した項との間に、つまり2項間の関係態に、存在性を見る」(注9)ことが、ドイツ観念論の根本特徴だと言えると思います。

------------------------------
(注1) 弱冠20才のシェリングは、さすがにこのことをよく理解していました。『全知識学の基礎』(1794年)の出版された翌年に、彼が著した「哲学の原理としての自我について」では、「絶対的 [措定する] 自我」は対象にはなりえない」と、言われています。(シュレーター 版シェリング著作集、第1巻 91ページ)。(戻る)

(注2) 『大論理学』、ズーアカンプ版第5巻44ページ。(戻る)

(注3) 『全知識学の基礎』、SW版フィヒテ全集、第1巻、134ページ。
 このように、原理的な場面で、行為や出来事の前後関係を、現実的時間の概念とは関係なく設定することは、よくあることです。フィヒテの先行者ラインホルトも、「意識のうちで、客観と主観に関係づけられるものは、時間においてではなく、その本性にしたがって(seiner N A tur n A ch)、関係づけられる行為より以前に、存在しなくてはならない」などと言っています。(拙サイトの『アイネシデモス』紹介ページを参照) 
 ちなみに S. マイモンによれば、「感覚と想像力 [構想力] は、時間のうちで働く」が、「高次の精神力(悟性と理性)は、時間のうちでは働かない」。(『哲学辞典』"Ich" の項目、1791年のオリジナル版、63-65ページ)
 むろんカントにおいては、「空間と時間は、ただ感官 Sinn においてのみ存在し、感官以外では現実性をもたない」(『純粋理性批判』 B 版、148ページ)。(戻る)

(注4) 両者を混交すれば、「あるクレタ島人いわく、『クレタ島人はウソつきである』」といった自己言及文のパラドックスが、生じることになります。(戻る)

(注5)メタ言語は、それが対象にしている言語とは別の言語や記号体系でもかまいません。例えば英語の文法規則を日本語で述べたときには、その日本語はメタ言語です。しかしこの拙論では、両者が同じ言語の場合を想定して説明します。(戻る)

(注6) 本当は事態が逆なのです:なぜメタ言語が成立するかといえば、意識がメタ化するからであり、その意識を共同主観性のようなものだと考えれば、つまりは世界がメタ化しているからです。
 ただし言語においては、自己言及的メタ言語は例外的であり、ふつうの言語は、例えば「道を人が通る」「三角形の内角の和は180度である」のように、言語外の対象を言及する対象言語です。ところがドイツ観念論においては、自我(世界)外に存在するものはないのですから、その自己措定はつねにメタ世界になります。(戻る)

(注7) このメタ世界論を現代的に発展させた、多世界論(pluricosmism)を標榜したものとしては、拙稿「多世界の生成と構造・・新しい世界観を求めて」があります。(戻る)

(注8) Die A nweisung zum seligen Leben, SW版では第5巻,402ページ。
 後期の宗教講和といっても、フィヒテによれば、それは彼の「哲学的見解」の「成果」なのであり、その哲学的見解は「13年来いかなる点でも変わっていない」、つまり『全知識学の基礎』を発表した前年の1793年以来変わらない、とのことです。(同、399ページ)(戻る)

(注9)「2項間の関係態に、存在性を見る」と、あいまいに表現しましたが、この事態をどのように理解し説明していくかが、ドイツ観念論研究の要諦とも言えます。ちなみに、シェリングは次のように述べます:
 「主観と客観への実在性 [=自我] の分割は、主観と客観の両項の間に浮動する第3項、すなわち自我の活動によらずしては、まったく不可能である。そしてこの第3項はといえば、2つの対置する両項自体が自我の活動でなければ、不可能なのである」。(『先験的観念論の体系』、オリジナル版 (1800年)では、、91 ページ)
 ついでながらこのシェリングの発言は、(廣松氏風に言えば)項に先立つ自我の活動 [メタ化運動] の一次性を表しています。(戻る)

(注10) これらの有名な語句の引用は、
・フィヒテ: 『全知識学の基礎』(1794年)(Meiner 社、哲学文庫版 1997 年、16 ページ)
・シェリング: 『自然哲学論考』序文への付記(1803年)。(M A nfred Schröter によるシェリング著作集、第1巻、713ページ)
・ヘーゲル: 『精神の現象学』「序文(Vorrede)」(1807年)(Suhrkamp 社、ヘーゲル著作集、第 3 巻、23 ページ)。ただし原文は、「私の考えでは、すべては次のことにかかっている:真なるものをたんに実体としてではなく、主体としても把握すること。」このテーゼの真の意味については、拙『哲学用語の解説』の「実体は主体である」を参照ください。(戻る)

(注11) フィヒテの自我のシェリング版である絶対者について、シェリングは次のように述べています:「主観的なものでもなければ客観的なものでもなく、ある論者の思惟でもなければ、誰かの思惟でもない、それはまさに絶対的思惟である」。(『自然哲学論考』序文への1803年付記。(M A nfred Schröter によるシェリング著作集、第1巻、711ページ)
 コギトとしての個人のものではない思惟、しかもたんに「主-客」図式の主観の側にのみかかわるのではない思惟ということですから、こうした自我・絶対者を共同主観性として、まずはみなせると思います。
  むろん、見なさなくてもいいのですが、少なくとも次のことまでは主張したいと思います:ドイツ観念論の「絶対者」は荒唐無稽なものではなく、「共同主観性」の例から類推できるように、現代の理性によっても理解可能であると。

 ちなみに、ドイツ観念論では、観念的なものや概念、知といったものを第一義としますが、むろんこれらは、いわゆるプラトン的なイデア界にあるのではありません。個物に即して存在します。そしてこれらは、廣松渉氏のいう認識対象の<所識の契機>、すなわち、共同主観性を成立させるゆえんのイデアールな契機と、似かよっています。といいますか、廣松氏がこれらを絵解きしたような案配となっています。

 つまり――以下の説明はすこし難しくなり、哲学中級者のためのものです。要は、個別と普遍の関係のあり方です。一応分かっていただければ、アマ 2 段くらいでしょう――、廣松哲学の中枢をなす四肢構造論によれば:

 例えば、愛犬のポチが散歩している姿を、私が認知するという事態は、視覚象(すなわち、散歩している犬という 1 つのレアール [独: real, 英: real, 日:実在的] な像。ある場面のポチの感覚的な像。射影像。)を、ポチという対象像(ポチだとして把握された像)として、認知するということです。
 問題はこの対象像ですが、それは過去のポチの射影像の記憶とか、いくつかの射影像を平均してできた心像ではありません。そのような心像を形成することなく、私は散歩するポチを見て、直覚的にポチと認知(把握)します。すなわち、ポチの対象像を得ます。
 たとえ過去に私が何らかのレアールな心像を、ポチを見ることによって形成したことがあったにしても、ポチの対象像があらかじめ存立していないことには、「散歩しているポチの射影像(視覚像)は、前記の形成されたポチの心像と同じものである」と、つまり射影像は<ポチ>の 1 相貌だと、認知しようがないのです。つまり、「<ポチ>の」と分かるためには、対象像が必要なわけです。
 さて、対象像のポチは、さまざまなポチの射影像において存在していますから(あるいは、各ポチの射影像はポチの対象像を懐胎していますから)、普遍的です。また、射影像は前向き・横向きなどさまざまに変化しても、ポチそのもの、すなわちポチの対象像は不易的で、また遍在的(超場所的)でもあります。このような普遍的・不易的・遍在的な性質をまとめて言えば、イデアール(独: ideal, 英: ideal, 日:理念的/観念的/典型的)となるでしょう。
 以上をまとめますと――イデアールな対象像は、「原基的な場面では、[過去のポチの射影像の] 比較・校合とか、分析・綜合といった比量的な手続きで形成的に認知されるのではなく、それに先だって端的に覚識されるのであるから、対象的個体というイデアールな「所識」の認知はアポステリオリではなくして謂わば ”アプリオリ” である」。(『存在と意味』、岩波書店、1982 年、85 - 86 ページ)

 一方、ドイツ観念論のシェリングは次のように述べます:
 「概念 [前記の廣松氏の例では、ポチの対象像に相当] の起源については、ふつう次のように説明されている:『いくつかの個別的な直観により、特殊な規定を捨象して、一般的なものだけを残すことによって、私たちに概念 [例えば、木] が生じてくる』と。
 「しかしこの説明が表面的であることは、すぐに明らかとなる。というのは、この説明にしたがえば、『いくつかの個別的な直観 [例えば、桜の視覚象、梅の視覚象、柿の視覚象]』を相互に比較しなければならない。けれども、すでに概念によって導かれているのでなければ、どうしてそのようなことができよう。なぜなら、私たちに与えられている諸対象 [桜、梅、柿の視覚象] がまだ概念になっていないときに、こうした諸対象が同じ種類のもの [木] であると、どこから知るのであろうか。
 「したがって、いくつかの個別的対象から共通なものを取りだすという、上記の経験的な方法 [いわゆる科学的帰納法] は、共通なものを取りだすためのきまりを、すなわち概念を、したがって上記の経験的な抽象能力より高次のものを、それ自身すでに前提にしているのである」。(『超越論的観念論の体系』、オリジナル版、S. 288f.) すなわちシェリングも、概念はアポステリオリではなく、アプリオリだと主張しているのですが、フィヒテにおいても同様な発想が、『全知識学の基礎』に(SW版、Sämtliche Werke, I, S. 104f.)あります。(この点については、拙稿「科学的帰納法へのドイツ観念論からの批判」を参照)。

 こうして、イデアールな概念の存在や重要性を認めるところまでは、ドイツ観念論も廣松哲学も同じです。とはいえ後者はマルクスの後をうけているだけに、どのようにしてイデアールな概念・形象は形成されるのか、ということを解き明かします。すなわち、それらイデアールな形象は個人にとってはアプリオリに表れるとしても、実は共同主観的な形象であり、社会的協働を通じて生み出されたものだというわけです。(戻る)

(注12) 「自我は自ら自身を規定する、と言われる限り、自我には実在性の絶対的な総体が帰属する。自我は自らをただ実在性としてのみ、規定できる。というのも、自我は端的に実在性として措定されているからであり、自我のうちには何らの否定性も措定されていないからである。」(『全知識学の基礎』(1794年)SW版フィヒテ全集、第1巻、129ページ)。 
 ところで、このような「全実在性をもつもの」を、フィヒテが確信をもって主張することができ、またシェリングやヘーゲルがそれにすぐコミットできた理由の一つとしては、彼らの念頭にスピノザの「実体」があったことが挙げられます。18 世紀後半の「汎神論論争」以来、スピノザは「死んだ犬」ではなくなっており、気鋭の哲学徒たちは多かれ少なかれ彼の「実体(神即自然)」に、心引かれていました。
 「ただし・・・」という留保を付けつつも、ドイツ観念論の 3 人も同様でした。フィヒテが 1794 年に『全知識学の基礎』を著し、翌年シェリングが『哲学の原理としての自我について』を公にした頃、フィヒテは述べています:
「私は彼 [シェリング] の出現を喜んでいます。特に彼がスピノザに目をつけたのは私には好ましいことです。私の体系も、スピノザの体系から最も適切に解明されうるのです」。(フィヒテからラインホルトへの、1795年 7 月 2 日付の手紙。この手紙には、「シェリングの著書は、私がそこから読み取りえた限りにおいては、全く私の著書の注釈です」という有名な一節があります。なお、テキストを入手していませんので、これらの引用は、R・ラウト著『フィヒテからシェリングへ』(隈元忠敬訳、以文社、p. 17)よりの孫引きです)。(戻る)

(注13) 「対自」とか「自己内帰還」といえば、ヘーゲルの用いた術語として有名ですが、もともとはフィヒテの用語です。例えば、
「対自」は:『知識学への第2序論』(1797年)、SW版フィヒテ全集、第1巻、458ページ、等 。
「自己内帰還」は:『全知識学の基礎』(1794年)、同上、第 1 巻、134 ページ; 『知識学への第2序論』、同上、第 1 巻、458 ページ、等。(戻る)

(注14)このことをフィヒテから言えば:
 「規定されえる(有限な理性の普遍的な(universell))意識なくしては、規定されている(個人的な)意識を持つことはまったくできませんし、逆もまたそうです。この法則は、有限性にとってはまさに原理なのであり、この変換点(Wechselpunkt)が有限性の立脚点なのです」。(1801 年 5 月 31 日付のフィヒテのシェリング宛手紙。『フィヒテとシェリングの、哲学的往復書簡集』、1856 年版では 87 ページ)
目次へ

 ドイツ観念論は、現代でも通用する合理性を持つのか?

 たしかにドイツ観念論の巨樹には、枯れ枝となってしまった部分、もともと枝ぶりの悪かった部分もだいぶあります(注1)。しかし、直接の関係者が亡くなって100年以上たつのに、また、政治・経済的圧力をもつ教団・政治組織などはないにもかかわらず、世界史上に残っているようなものは、やはりそれ自体大きな価値をもつと、まずは推測できます。
(高校の日本史で登場する江戸時代の画家たちでさえ(注5)――などと言ってはいけないのですが――、その代表作を観ると、私などは感心してしまいます。泰西名画があれば玉堂はいらない、とはならないわけです。ましてやドイツ観念論の場合は、世界哲学史上に大きな位置を占めていますから、単純な否定は、ちょっとムリでしょう。)

拍手[1回]

【2012/10/30 04:27 】 | data | 有り難いご意見(0)
美術用語 6

様式
Style(英), Stil(独)

大衆文化におけるアイデンティティの提示として日常化した「行動様式」または規範や価値判断を含んだ古来の「文体」と混用されつつ、作品や作者の集合に類型的な特徴を指す。ビュフォンの文言「文(style)は人なり」(1753)は、被造物の真なる表現という古典主義的規範詩学を引き継ぎながら、以降芸術家固有の個人様式の希求または強調(小説家の「文体」が典型)に転用された。一方旅行、印刷術、美術館などの発展によって、作品の比較と多様性の認識が容易な条件が整備された16-18世紀、この語は芸術一般に移植され、民族、時代、流派の特徴つまり集団様式を指すようになった。古典主義の下では建築の「オーダー」の考え方も様式に近づいたとはいえ、集団様式という考えは精神的背景と造形との連関を前提した芸術史学(例えばA・リーグル)の根幹である。個人様式とともに作品の特定・分類、真贋鑑定や価値評価の原理となり、また19世紀後半からウィーン学派を中心とする方法論的探求を促した。特にH・ヴェルフリンは作者や作品内容から純粋な視覚形式を独立させ、芸術に内在する様式の時代展開の契機を定位した。様式は客観的な分析を導く没価値的な分類概念にとどまらず、元は蔑称だった様式名があるように、好悪などの主観を含んで直感的に感知される。またこの概念は作品完成後の分類に使われたばかりか、19世紀末建築のリヴァイヴァリズムのように、カタログ的に整備された諸様式から(ときに折衷的に)選択・適用されるという時制の捻れをも示したが、これは諸様式を規範として等価にみなした結果と言える。つづく表現主義などの反動と併せると、E・スーリオの指摘どおり※1様式が独創と規範の相反する両面を含むことがわかる。

 要素主義(エレメンタリズム)
Elementalism(英), Elementarisme(蘭)

第一次世界大戦後にオランダで興った芸術運動で、デ・ステイルの基本理念となっていたピエト・モンドリアンによる新造形主義を超える理論として、グループのリーダー、テオ・ファン・ドゥースブルフが1924年に提唱した美術理論。雑誌『デ・ステイル』において主張された。垂直線と水平線、三原色(赤・黄・青)と無彩色(白・黒・灰)の組み合わせからすべてが構成された純粋な抽象造形を目指す新造形主義は、単純で平板な造形となりがちで、表現の自由さや多様性を奪う傾向が否めなかった。特に絵画よりも建築や家具、インテリアといった空間デザインにおいて理念を実践しようとしていたデ・ステイルにとって、新造形主義を徹底して立方体と直方体、非曲面で空間を構成することは困難を極めた。こうした状況を打破するためにドゥースブルフが主張した要素主義は、新造形主義が重視する垂直線と水平線による垂直交差の構図に対角線を導入しようとするもので、20年代半ば以降、31年にドゥースブルフが亡くなりグループが解体するまで、デ・ステイルの指導理論となった。このことにより、ドゥースブルフとモンドリアンは対立し、モンドリアンはデ・ステイルを25年に脱退した。

ユーゲントシュティール
Jugendstil(独)

アール・ヌーヴォーのドイツでの呼称。1896年にミュンヘンで創刊された雑誌『ユーゲント(青春)』に因む命名。ドイツでは、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響下に工房や連合が設立され、そこを中核として、新しい時代に相応しい普遍的な造形が探求された。フランスのアール・ヌーヴォーと比べると、ドイツでは装飾性よりも合目的性や構造が重視される傾向にあった。ユーゲントシュティールには、数か所の中心地がある。ミュンヘンでは98年に、H・オブリスト、R・リーマーシュミット、P・ベーレンスらが、手工業芸術連合工房を設立、ドレスデンではユーゲントシュティールの理論的指導者ヴァン・ド・ヴェルドの展覧会も開かれる。もうひとつの中心地、ダルムシュタットでは、99年に大公の援助で「芸術家村」が開設、ウィーン分離派の建築家J・M・オルブリヒやベーレンスが招かれた。ヴァイマールでは、ヴァン・ド・ヴェルドが芸術顧問として招待され、1906-14年にかけて工芸学校の校長を務めた。

 『ラオコオン 絵画と文学の限界について』ゴットホルト・エフライム・レッシング
Laokoon oder Über die Grenzen der Malerei und Poesie(独), Gotthold Ephraim Lessing


1766年に刊行された批評家・劇作家のゴットホルト・エフライム・レッシングの著作。ヘレニズムの最末期、紀元前40-50年頃に制作されたと推定される《ラオコオン群像》を美学的に論じたものであり、視覚芸術と文学のそれぞれのジャンルの「限界」を検討したジャンル比較論の古典的著作である。レッシングは同じ題材から出発したヴェルギリウスの叙事詩とラオコオン群像を比較し、文学と彫刻とが、互いにいかに異なった創案を行なったのかを仔細に検討している。その際、レッシングは文学作品の特質を継起的に展開されるものとし、逆に彫刻家の創意をそこから異なる複数の瞬間が同時的に導き出されるような「含蓄ある瞬間」の選択に見た。レッシングは彫刻も絵画と同様にひとつの視点に限定されているために、この「含蓄ある瞬間」が観者の想像力に自由な活動の余地を与えるとする。ゆえにレッシングにとって造形芸術の特質とは、その「絵画性」に求められるものだった。レッシングの議論は、彫刻や絵画のメディウムの差異の峻別と個々のメディウムへの還元にモダニズム芸術の理論的・歴史的根拠を見出すクレメント・グリーンバーグや、文字と視覚芸術の区別から文人画を批判したアーネスト・フェノロサなど、近現代の美学的言説にさまざまな波及効果を及ぼしている。

 ラファエル前派
Pre-Raphaelite Brotherhood

1848年のイギリスにおいて3人の画家、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイ(英語読みではミレース)を中心に、ウィリアム・マイケル・ロセッティ、フレデリック・スティーヴンズ、ジェームズ・コリンソン、トマス・ウールナーを加え結成されたグループ。「ラファエル前派兄弟(同盟)団(Pre-Raphaelite Brotherhood)」という名前は、彼らがラファエロ(1483-1520)以前の初期ルネサンスやフランドル芸術を規範としたことに由来し、「兄弟団」と名乗ることでグループの結社的な性格を表わした。初期ルネサンスやフランドル絵画に見られる豊かな色彩と精密な自然描写に理想を見出す一方で、アカデミーの規範となっているラファエロ以降の16、17世紀のルネサンスおよびそれ以降の芸術を、構図、色彩などすべてにおいて表現方法が規制された抑圧的で不十分なものと考えた。このような考え方は19世紀初頭のナザレ派に先例をもつとされているが、彼らの思想は、ジョン・ラスキンの『近代絵画論』第1巻(1843-69、全5巻)における「芸術は自然に忠実であるべきだ」という主張に刺激されたものである。1849年3月に、この団体の頭文字「PRB」とともに初めて展覧された作品は、ロセッティの《聖処女マリアの少女時代》ある。翌年、この頭文字の意味が公にされ、ラファエル前派はルネサンス以降続くアカデミーの伝統を拒否したため厳しい非難を浴びるが、『近代絵画論』における自らの主張を体現しようとしたこの若い画家たちをラスキンは擁護した。次第に彼らは社会に受け入れられるようになったが、グループ自体は長続きしなかった。絵画、装飾芸術、工業デザインなどそれぞれの道を歩むようになる彼らだが、その後世に与えた影響は計り知れず、特に絵画においては象徴主義の最初の一派として評価されている。

リアリズム
Realism

〈現実〉の現象を直感し、理想化を避けてそれを表出することに価値を置く表現のこと。イリュージョニズムを発生させるためのさまざまな装置を駆使して外観を再現―表象する西洋絵画の、いわゆる「自然主義」とは別のものである。だが、現代的な風俗や、伝統的な主題性を欠いた対象を描いたクールベやミレーの「写実主義」は、自然主義とリアリズムとの複雑な交錯を示すものであり、自然主義とリアリズムの接近は、20世紀初頭のシュルレアリスムにも見られる。とはいえ、ほとんどすべての近現代美術は、いかにして現実(あるいは現実を構成する諸原理)を明示しうるのかという問題を、多様な関心から追究してきたといえる。シュルレアリスムのほかにも、新即物主義、社会主義リアリズム、ヌーヴォー・レアリスム、ドキュメンタリー芸術、具体などの名称に示されているように、そうした運動に共有される〈現実〉は多様な様式の発露を見るものであり、そもそも対象とされる〈現実〉が、内感に基づくものなのか、それとも客体を志向するものなのか、あるいはその両者の超克を目指すものなのか、といったさまざまな問題設定によって大きな振り幅を持たざるをえない。ゆえに、現象や自然に内在する潜勢力の可視化を目指したクレーや、芸術家の「主題」を重視した抽象表現主義の絵画形式もまた、いかに抽象的に見えようとも、それぞれのリアリズムを基盤とするのである。

リアリズム論争
Realism Debate

1946年から足かけ4年、美術批評家の土方定一と林文雄、植村鷹千代、画家の永井潔や石井柏亭らのあいだで交わされた、リアリズムの定義とそれに対応した美術の在り方に関する誌上論争。口火を切ったのは林で、黒田清輝がR・コラン系の「写実」を移植した頃に「新しい自由な対象の絵画的な構成、マアレリッシュ(絵画的)・レアリズム」が確立したとする戦前の土方の論に『黄蜂』誌上で異議を唱えた。林の主張とは、主題・描写に真実より美への偏愛が見られる黒田の絵画ではなく、新しい階級の「典型的な真実」を「見たままに描く」高橋由一のそれこそを近代美術におけるリアリズムの出発点にすべきというものであった。それに対して土方は「思想史的な意味附与と絵画的な意味附与との混同」であると林を批判し、その後も絵画の「政治的価値と芸術的価値」を満たすリアリズムの在り方が争われた。端的に言えば、林は主題に、土方は技法にそれを求めたのである。また、土方は同時代のリアリズム美術に対して「模写的リアリズムの限界」であると批判したが、当事者のひとりである永井が、模写説の否定は主観主義的傾向をリアリズムの名のもとに許容する危険性があると反論した。土方の回答はクールベの模写説を単なる理論として受容しているだけで絵画内部に結実させていないところに限界があると断じた。さらにはその三人の論争に対して植村が主体内部の「模写」表現であるアヴァンギャルド芸術までをリアリズムに含めるべきという主張で論争に加わった。その後、画壇の重鎮である石井による永井の模写説擁護、それに対する古沢岩美や植村の、そして土方の持論を貫き通す反論で、和解を見ることなくこの論争は終結していく。後の論者らは、歴史的・地理的背景を考慮しながら戦後日本におけるリアリズムを造形面から追求した土方の立場に最も理解を示している。

『リアルなものの回帰』ハル・フォスター
The Return of the Real: Art and Theory at the End of the Century, Hal Foster

批評家であり、『オクトーバー』誌の編集委員を務めるハル・フォスターの著書。1996年にMITプレスから出版された。序文でフォスターが述べるように、60年代〜90年代の美術を分析した本書は、「通時的(歴史的)な軸と共時的(社会的)な軸を、作品と理論の双方において取り持つこと」を目的として書かれた。オクトーバー派の分析方法の主流をなすポスト構造主義や精神分析理論の応用は本書でも踏襲されており、この一文からは、構造主義的な共時性と歴史的な垂直軸の併存のもと、現代美術を広範な理論的・歴史的・社会的布置のもとに捉えなおそうとするフォスターの野心が伺える。本書でフォスターは、ミニマリズムとポップ・アートを後期資本主義経済との並行性とともに論じ、またM・ケリーやK・スミスなどの作品にトラウマ的な主体が登場してきたことを着目し、そこに「おぞましい身体=リアルなもの」の回帰を見る。とはいえ、本書に一貫しているのは、作品を社会反映論的な生産物として論じる姿勢ではなく、むしろポスト・モダンの実践が既存の制度的枠組みに抵抗する理論的戦略であるとする視点である。この著作によってフォスターは、90年代以降のアブジェクト・アートや文化人類学的な傾向を持った美術にいち早く理論的な枠組みを与えた。

リージョナリズム
Regionalism

地域主義、地方主義のこと。美術の文脈では、特に1930年代のアメリカン・シーン・ペインティングの一傾向としてのリージョナリズムを指す。世界恐慌を受けて孤立主義・不干渉主義を強めていたアメリカの外交政策と呼応するように、アメリカの美術シーンも、ヨーロッパ・モダニズムや国際主義への反動的傾向を強め、写実主義への回帰が見られるようになった。リージョナリズムとは、国粋主義や排外主義へと傾く当時の思潮のなかで、アメリカ社会の精神的なアイデンティティを、地方の労働や生活、西部開拓の風景や風習を描くことに求めた一群の絵画のことである。これらの絵画では、中西部の田舎町における共同体の連帯や、そこで働く筋肉質な労働者の姿などが主題となった。そのため、都市社会における貧困や差別などの問題を描いた他のアメリカン・シーンの画家たちとは大きく異なる。ベン・シャーンら、絵画を手段として市民社会の諸問題を告発し、社会の変革を求める社会派リアリズムの画家たちが、形式的にはやや保守的だが政治的にはリベラルな立場をとったのに対し、リージョナリズムの画家たちは、工業化された近代的な都市生活への反動として移民開拓の時代を彷彿させる情景を描いたからである。そのため傾向としては、ノスタルジックな愛国主義的・保守主義的側面をもつ。

 リヴィジョニズム
Revisonism

時代によって異なる価値観や社会を再解釈することで、あるいは新しく発見された史料によって、出来事や作品を評価し直そうとすること。「歴史修正主義」「改訂主義」などともいう。歴史学において、20世紀初頭に起こった動きのひとつで、歴史解釈の定説に異論・批判などを行なう。好意的に使われることもあるが、否定的なニュアンスをもつことも多い。同じように、美術史学においてもリヴィジョニズムは起こっており、例えば印象派の隆盛によって、これまで美術史のなかで取り上げられることのなかった同時代のアカデミー派やフランス以外の国の画家の活動・作品について、近年になって再評価する動きなどがその一例である。また、ヨーロッパやアメリカを中心にして考えられていた美術史において、アフリカやオセアニア地域の美術に目を向けることも、リヴィジョニズムの一種といえよう。つまり、美術史のメインストリームとして語られてきた作品や美術運動だけに焦点を当てるのではなく、同時代に起こった、異なる動きや周辺的と考えられてきた地域の作品・作家の活動にもスポットを当てることで、より多様で、異なった切り口での美術史や新たな動きを考察することができるだろう。ただしこうした動きが過度に加速すると、かえって偏った美術史を作り出してしまうことも危惧される。

「リヴィング・スカルプチュア」ギルバート&ジョージ
“Living Sculpture”, Gilbert and George

リヴィング・スカルプチュアとはイギリスの現代アートユニット、ギルバート&ジョージの作品の中核をなすコンセプトである。1969年1月23日、ロンドンのセント・マーティンズ・アート・スクール彫刻科の学生だったギルバート・プロッシュとジョージ・パサモアは、あらゆるものが彫刻であり二人のすることすべてがアートであるという発想のもと《Our New Sculpture》という作品を学内で「実演」した。これは、メタリックなメイクを施しビジネス・スーツを着た二人が手にステッキやタバコをもって同じポーズを取り続けるというものだった。同年、テーブルの上で無表情に踊りながら何時間も歌を歌うパフォーマンス《The Singing Sculpture》をギャラリーや音楽フェスティヴァルで発表、ギルバート&ジョージの存在を広く知らしめる作品となった。このアートとアーティストが一体となったパフォーマンスは《The Singing Sculpture》、《Underneath The Arches》、《The Red Sculpture》などとタイトルを変えながら世界中で何度も再演され、「リヴィング・スカルプチュア(・シリーズ)」と呼ばれている。またこのシリーズの発表以降、彼らは自らを「リヴィング・スカルプチュア」と称している。形としての彫刻ではなく、話すことも感情を表わすこともできる彫刻になりたかったと語る二人は、手紙を出せばそれがPost Sculptureとなり、歌を歌えばSinging Sculptureになり、ついには生きることがLiving Sculptureになった。つねにスーツ姿で二人揃って作品を発表しているギルバート&ジョージにとっては、アートも日常も表裏一体であり、存在そのものがアートであることを体当たりで表現し続けているのである。リヴィング・スカルプチュアという理念は、初期のパフォーマンスから写真やヴィデオ作品へと方法・媒体をシフトしている現在でもなお、二人の根底を流れている。

レリーフ
Relief(英), Rilievo(伊)

平面を彫り込むか平面上に形態を盛り上げて起伏を与え、図像や装飾模様を表わす造形表現、およびその作品。浮彫りとも言う。イタリア語で「突出部」「浮彫り」などを意味する「リリエーヴォ(rilievo)」に由来し、その語源はラテン語の動詞relevare(「浮き彫りにする」の意)。丸彫り彫刻に背景を添えたような三次元性の強いものからほとんど凹凸のない浅い彫りのものまでさまざまな段階があり、突出部の度合いに応じて「高肉彫り」「中肉彫り」「低肉彫り」(もしくは薄肉彫り、浅肉彫り)の三つに区別される。イタリア・ルネサンス期の彫刻家ドナテッロは「リリエーヴォ・スキアッチャート(rilievo schiacciato)」と呼ばれるごく浅い浮彫りの創始者であり、微妙な大気の表現を可能にした。また、図像が地の部分から手前に浮き上がるレリーフを「陽刻」と言い、反対に図像が地より低く彫りくぼめられたものを「陰刻」、あるいは「インタリオ」「沈め彫り」と呼ぶ。19世紀ドイツの彫刻家ヒルデブラントは、浮彫りの表象する空間が現実の奥行き量に左右されず全体との関係において決定するゆえに独自の存在理由を持つとし、絵画、建築にも通底する造形芸術の原理を見出した。20世紀になると絵画と彫刻の中間的様態としてレリーフの表現性が拡張、1913年にコラージュの発展形としてピカソが始めた木や金属によるレリーフ、戦後では80年代にフランク・ステラが開始したレリーフ・ペインティングなどが有名である。

 『レフ』
Леф(露), Lef(英)

1922年、詩人ウラジーミル・マヤコフスキーと批評家のオシップ・ブリークを中心に結成されたソヴィエトの文学団体「芸術左翼戦線」、および彼らが23年から29年にかけて発刊した同名の雑誌。23年から25年には雑誌『レフ』、27年から28年にかけては『新レフ』が発刊され、休刊後の29年には論文集『ファクトの文学』が出版された。『レフ』と『新レフ』はさまざまなジャンルのロシア・アヴァンギャルドたちの活動の場となった。作家のイサーク・バーベリ、詩人のボリス・パステルナークらが作品を寄稿した。表紙はアレクサンドル・ロトチェンコによってデザインされ、ワルワーラ・ステパーノワやリュボーフ・ポポーワら構成主義者の実践や、構成主義の拠点となったヴフテマス(高等芸術技術工房)の活動などが紹介された。批評家のブリーク、ボリス・アルヴァートフ、ニコライ・チュジャーク、アレクセイ・ガンらによって芸術を工業的な生産へと移行させようとする生産主義の理論や、社会や現実との関わりを重視する文学理論や芸術論が展開された。また、映画と写真が重視され、映画監督のジガ・ヴェルトフ、セルゲイ・エイゼンシュテインらが映画論を展開した。後期の『新レフ』では作家、批評家のセルゲイ・トレチャコフが中心となり、「ファクトの文学」を掲げてノンフィクション文学の生産が主張された。

ロシア未来派
Русский футуризм(露), Russian Futurism(英)

1910年代に興隆したロシア・アヴァンギャルドの潮流。多くの詩人、作家、画家たちが新しい芸術を志向するという意味で名乗った名称。12年、ヴェリミール・フレーブニコフ、アレクセイ・クルチョーヌィフ、ウラジーミル・マヤコフスキー、ダヴィド・ブルリューク、ヴァシーリー・カメンスキー、ベネディクト・リフシッツらによるペテルブルクの詩人グループ「ギレヤ」が「未来人」を意味するロシア語「ブジェトリャーニン(будетлянин/budetljanin)」を名乗ったのが始まり。ギレヤはマニフェスト『社会の趣味への平手打ち』を発刊し、古い文学や詩を「現代の汽船から放り出す」ことを宣言した。イーゴリ・セヴェリャーニンを中心とする「自我未来派」、ボリス・パステルナークらが参加した「遠心分離機」、キエフやオデッサの詩人たちなど、未来派を名乗るグループがロシア各地で興隆した。絵画においては、カジミール・マレーヴィチ、アレクサンドラ・エクステル、ナターリヤ・ゴンチャローワ、オーリガ・ローザノワ、リュボーフ・ポポーワ、ダヴィド・ブルリューク、ナジェージュダ・ウダリツォーワらがキュビスムとイタリア未来派を総合したクボ=フトゥリズム(立体未来派)として活動した。ギレヤは絵画のクボ=フトゥリズムと密接な関係にあり、クルチョーヌィフの脚本とマレーヴィチの舞台美術による未来派オペラ《太陽の征服》(1913)を上演した。未来派の詩人たちは、「言葉そのもの」を掲げて文字の形象や音といった物質性に注目し、クルチョーヌィフは意味を超えた言葉「ザーウミ」によるナンセンス詩を制作した。ロシア革命後、マヤコフスキーは教育人員委員であるボリシェヴィキのルナチャルスキーの支持を受け、23年未来派のメンバーとともに雑誌『レフ』を発刊した。

「ロバの尻尾」
“Ослиный хвост”(露), “Donkey's Tail”(英)

1912年の3月から4月にかけてミハイル・ラリオーノフによって主催されたネオ・プリミティヴィズム絵画の展覧会。10年代のロシアでは、単純で明快な色彩や描写などの特徴を持つ民衆文化の影響を受けて、ネオ・プリミティヴィズムと呼ばれる絵画の流派が興隆した。「ロバの尻尾」展はロシア・アヴァンギャルド初期における大規模な展覧会のひとつであり、ナターリヤ・ゴンチャローワ、カジミール・マレーヴィチ、ウラジーミル・タトリン、マルク・シャガールら合計19名の画家が計307点の絵画を出展した。この展覧会において中心的役割を担ったラリオーノフとゴンチャローワは、セザンニスム(セザンヌ主義)やキュビスムといったフランスの絵画の追随をやめ、イコンやルボーク(ロシアの民衆画)などロシアの民衆芸術の素朴な様式を評価し、新しい絵画の手本をロシア国内の伝統的なフォークロアに見出そうとする態度を示した。なお、ロシア・アヴァンギャルドの画家たちに大きな影響を与えた、グルジアの画家ニコ・ピロスマニによる看板絵もこのときに展示された。

ロマン主義
Romanticism

18世紀末から19世紀前半の西欧で勃興した芸術思想、あるいはその系譜に連ねられる作家や作品を総体的に名指す言葉。ロマン主義と呼ばれる傾向や運動は、絵画のみならず哲学・文学・音楽・批評などさまざまな分野に見られる曖昧な名称であるが、その多くには個性の称揚や規範への抵抗といった一定の共通要素も見られる。もともとロマン主義とは、啓蒙期のヨーロッパにおける知性や合理性への信仰に対して、感情や非合理性を称揚する態度を指して用いられるようになった言葉である。この用法そのものは、18世紀末から19世紀初頭にかけてのフリードリヒ・シュレーゲルの著作に由来している。シュレーゲルは、形式的な古典主義文学とは異なる想像力豊かな文学を、かつての俗ラテン語(民衆語)であるロマンス語に仮託して「ロマン主義」と呼んだ。シュレーゲル兄弟やフリードリヒ・シェリングに代表されるこのドイツ・ロマン主義はその後フランスにも伝播し、ロマン主義という言葉は、芸術家の内面や精神性を強く表出する芸術作品に対して拡張的に用いられることになる。絵画におけるロマン主義も、保守的な新古典主義に対抗する一連の絵画を指しているという点で、やはり上記のような特徴が当てはまる。ただし、同じロマン主義に括られてはいても、その傾向はフランスのウジェーヌ・ドラクロワやテオドール・ジェリコー、イギリスのウィリアム・ブレイクやウィリアム・ターナー、ドイツのカスパー・ダーヴィト・フリードリヒやフィリップ・オットー・ルンゲなど、各地域のあいだでかなりの異なりを見せることも確かである。仮に便宜的な区分を用いるならば、同じロマン主義のなかでも「ラテン系」「アングロサクソン・ゲルマン系」という大まかなカテゴリーを設けることが可能だろう。なぜなら、フリードリヒに代表される後者の北方ロマン主義絵画の特徴としてしばしば挙げられるのは、崇高な自然の描写を通じた神性や超越性への志向だからである。

 

拍手[0回]

【2012/10/10 11:10 】 | data | 有り難いご意見(0)
| ホーム | 次ページ>>