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去る5月16日、児玉清氏が亡くなった。私にとって氏は理解したい人間のひとり、やはり尊敬に値する人物であったと思う。
先日、氏の居ないアタック25を見た。何かが違った。その何かを表現することは難しいのだが(たとえば脳の場所で「ここだ」と言える種類の感覚なのかそれは分からない)、きっとあの人は、自身がひとつの鉱脈だったのではないか。そんな風に誰かを見ることは、人生において実に稀な出来事なのであると今になって思う。 さて、だんだん私も年を重ね、死を時折とても身近に感じる。何かであるということと、真実であるということの素晴らしさ。自分のページを誰かに開かれることは悲劇であってはいけない。介在を望まれる人間たれ、そして成長を待たれる人間たれ。 PR |
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The preoccupation of experience with things which are coming (are now coming, not just to come) is obvious to any one whose interest in experience is empirical. Since we live forward; since we live in a world where changes are going on whose issue means our weal or woe; since every act of ours modifies these changes and hence is fraught with promise, or charged with hostile energies―what should experience be but a future implicated in a present! Adjustment is no timeless state; it is a continuing process. To say that a change takes time may be to say something about the event which is external and uninstructive. But adjustment of organism to environment takes time in the pregnant sense; every step in the process is conditioned by reference to further changes which it effects. What is going on in the environment is the concern of the organism; not what is already "there" in accomplished and finished form. In so far as the issue of what is going on may be affected by intervention of the organism, the moving event is a challenge which stretches the agent-patient to meet what is coming. Experiencing exhibits things in their unterminated aspect moving toward determinate conclusions. The finished and done with is of import as affecting the future, not on its own account: in short, because it is not, really, done with.
来たるべき(ただ来るというだけでなく、まさにいまやって来ている)ものに対する経験の先行性は、経験に対して経験主義的に関心を抱く人間にとっては誰にでも明らかなことである。われわれは将来に向かって生き、その生の核心に対する意味も悲喜こもごも変わりゆく世界におり、なおわれわれのすべての行動はこれらの変化に修正を加え、それゆえに定言し難く、あるいは敵対的エネルギーに充ちているとしたら、一体全体経験は、未来が現在と関わりあうことなしにどうなってしまうことだろう。適応は、時間に関係ない状態のことをいうのではなく、連続的なプロセスなのである。変化に時間がかかるということは、外部にあってかつ非教訓的である出来事について何かの意味を持つかもしれない。しかし、環境への有機体的適応は、深い意味において 時間がかかるものである。すなわち、経験プロセスにおけるすべての段階は、それのもたらすさらなる変化を想定することによって条件づけられているのである。環境という場で今何が起こっているかは、有機体の関心事である。それはすでに完成した終了形で終わっている 「そこで」というものではない。何が起こっているかという問題の核心が有機体による介在に影響を受けるかもしれないという限りにおいて、行動という出来事は動作主ー被動者が来たるべきものを迎えるために成長していくというひとつの挑戦である。決定論的終着に向かう終わりなき様相の中で、経験プロセスは事(こと)を開示する。終わってしまったこと、そして成されたことは、未来に影響することとして重要でありながら、決してそれ自身が根拠にはなりえない、つまりは本当の意味で成されてはいない。
(メモ)
経験的説明を加えるためのモデルであるが、未来への知的冒険を感じさせる章。教育者としての評価が日本で異様に高いデューイであるが、経験プロセスが受苦を伴う挑戦だと言われて価値的にはまったりするんだろうか。しかし、パースの訳文を読んでみても、デューイの方が数段分かりにくいことが想像できる。簡単に=で繋げないからおもしろく、現代的たりうるんだろう。 |
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The water is wide, I cannot cross over
And neither have I the wings to fly
Give me a boat that can carry two
And both shall row my love and I
Oh, love is gentle, and love is kind
The sweetest flower when first it's new
But love grows old and waxes cold
And fades away like the mornin' dew
There is a ship and she sails the sea
She's loaded deep, as deep can be
But not as deep as the love I'm in
I know not if I sink or swim
The water is wide, I cannot get o'er
Neither have I the wings to fly
Give me a boat that can carry two
And both shall row my love and I
水は目前に広がり
私には渡れない
そして飛び越える翼も持ちあわせてない
二人を運ぶボートをちょうだい
恋人と私で、漕いでいくから
愛は寛大にしてやさしいもの
はじめは最も甘い花の香りがするの
でも愛は年をとり、おきまりの冷たさに変わりはてて
最後には消えてしまう
それはまるで朝の露のすがた
船がある そして彼女は海へこぎ出す
あらんかぎりの深い場所をめざして
でも、私の内にある愛の深さには
きっとかなわないわ
不確かな賽の目にかけているの
行方など分からないけれど 水は目前に広がり、私には渡れない
そして飛び越える翼も持ちあわせてない
二人を運ぶボートをちょうだい
恋人と私で、漕いでいくから
日本語訳 K
原曲はスコットランド民謡。
waxは古語で「次第に~なる」という意味があると英和辞典にあった。さすれば「次第に冷たくなる」という意味になるのだが、ケンブリッジ英英辞典には"to speak or write in the stated way"という意味があると出ているので、少し含みを持って表現的に訳してみた。
味わいのある歌である。"There is a ship"なる別バージョンもあるので、くらべて聞くと一粒で二度おいしかったりもする。
「水たまりに映る佳人の影」という感じもするこの歌。夏の雪の幻に繋がるのも分かる。
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The obstacles which confront us are stimuli to variation, to novel response, and hence are occasions of progress. If a favor done us by the environment conceals a threat, so its disfavor is a potential means of hitherto unexperienced modes of success. To treat misery as anything but misery, as for example a blessing in disguise or a necessary factor in good, is disingenuous apologetics. But to say that the progress of the race has been stimulated by ills undergone, and that men have been moved by what they suffer to search out new and better courses of action is to speak veraciously. 私たちの直面する障害は、多彩さや新しい反応への刺激であり、そしてそれゆえ進歩の機会である。もしも環境によってわれわれに好ましい働きかけがあってもそこに脅威が隠されていたとしたら・・・、逆に言えばそう、好ましくないものはこれまでになかった成功的様態を実現可能にする手段でもあるということだ。苦難を苦難でないかのごとく扱うこと、例えば隠れている神の恵みだとか、善良さにおける必然的要因の様にしてしまうことは、正直を騙った弁証学である。しかし、競争における進歩は受苦によって喚起されてきただとか、人間はより新しくよりよい行動様式を探し出すための苦難に突き動かされてきたというならば、それは言い得た表現である。
(メモ) 足場の違いを、真と偽にまで敷衍させて語る。一般論を叙述している段階でその差異に気がついていれば難なく訳せるところではある。火に油を注ぐのではなく、一陣の風のようなさわやかさを訳に加えて・・・要するに、適応がヒューマニズムにつながる一点を意識しながら訳せれば云々。いや、あるいは誤訳かも。
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Experience, in other words, is a matter of simultaneous doings and sufferings. Our undergoings are experiments in varying the course of events; our active tryings are trials and tests of ourselves. This duplicity of experience shows itself in our happiness and misery, our successes and failures. Triumphs are dangerous when dwelt upon or lived off from; successes use themselves up. Any achieved equilibrium of adjustment with the environment is precarious because we cannot evenly keep pace with changes in the environment. These are so opposed in direction that we must choose. We must take the risk of casting in our lot with one movement or the other. Nothing can eliminate all risk, all adventure; the one thing doomed to failure is to try to keep even with the whole environment at once―that is to say, to maintain the happy moment when all things go our way. 経験は、言い換えれば、刺激的な行為と苦難の出来事である。われわれの経験は、出来事の道筋を変えてゆくことにおいて、実験である、即ちわれわれの試みる行動は、われわれ自身への試練であり、テストなのである。この経験におけるいみじい二面性は、われわれの幸福とみじめさのうちに、成功と失敗のうちに、それ自身をあらわす。勝利というものは、深く立ち入ったりこだわったりするためには危険であり、成功はそれ自身を使い尽くすものだ。環境への適応によって達成された平衡状態はすべからく不安定なものである。なぜなら、環境の変化にさえ我々は歩調を合わせることができないからである。それらは、我々が選択せねばならない方向とかくも逆のものである。われわれは、いたるところでそこで起こっていることと運命を共にするという危険を冒さねばならない。すべての危険、冒険を回避するすべはない。失敗に運命づけられているあることは、即ち全体の環境にとっては安定ー言うなれば、すべてがうまくいっている時を永続させようと促す試みになるからである。 (メモ) 複雑な表現は、足場の使い分けを意識して訳す。意味の切れ目には、それにマッチングした視角を捕捉する必要があるだろう。生物世界の論述が、やけに人間的に見えてしまう。語と語の関係をリアルにとらえることは難しい。
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