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【2025/04/29 22:59 】 |
Analysis


Analysis
 
http://plato.stanford.edu/entries/analysis/
 
Analysis has always been at the heart of philosophical method, but it has been understood and practised in many different ways. Perhaps, in its broadest sense, it might be defined as a process of isolating or working back to what is more fundamental by means of which something, initially taken as given, can be explained or reconstructed. The explanation or reconstruction is often then exhibited in a corresponding process of synthesis. This allows great variation in specific method, however. The aim may be to get back to basics, but there may be all sorts of ways of doing this, each of which might be called ‘analysis’. The dominance of ‘analytic’ philosophy in the English-speaking world, and increasingly now in the rest of the world, might suggest that a consensus has formed concerning the role and importance of analysis. This assumes, though, that there is agreement on what ‘analysis’ means, and this is far from clear.


分析はいつでも哲学の中心的方法論だった。しかしその理解、実践のあり方は様々である。おそらく最も広い意味では、事象が説明、再構築される際、最初に与えられたものによって、より原理的なものへ分離または回帰するプロセスのことを指している。その説明と再構築は統合化のプロセスに対応して提示されることもある。しかしながらそれはある特定の方法論においてさえも実に多様に顕れる。その目的は基本的なものに回帰していくかもしれないが「分析」と呼ばれうるものは悉くありとあらゆる有りようを呈するのである。英国における「分析的」哲学の隆盛は、話し言葉の世界、そしていまやそれ以外の世界においてはなおのこと、分析の役割と重要性が広く認められるようになってきたことを示しているかもしれない。ただ、それで「分析」の意義が認められたとしても、それが明確に規定されたわけではない。


On the other hand, Wittgenstein's later critique of analysis in the early (logical atomist) period of analytic philosophy, and Quine's attack on the analytic-synthetic distinction, for example, have led some to claim that we are now in a ‘post-analytic’ age. Such criticisms, however, are only directed at particular conceptions of analysis. If we look at the history of philosophy, and even if we just look at the history of analytic philosophy, we find a rich and extensive repertoire of conceptions of analysis which philosophers have continually drawn upon and reconfigured in different ways. Analytic philosophy is alive and well precisely because of the range of conceptions of analysis that it involves. It may have fragmented into various interlocking subtraditions, but those subtraditions are held together by both their shared history and their methodological interconnections. It is the aim of this article to indicate something of the range of conceptions of analysis in the history of philosophy and their interconnections, and to provide a bibliographical resource for those wishing to explore analytic methodologies and the philosophical issues that they raise.


一方で、分析哲学の初期(論理的原子論)における、ヴィトゲンシュタイン後期の分析批判やクワインの分析ー統合の区分における試みは、もはやある者には「ポスト分析哲学」時代の到来を宣言させた。しかし、それらの論文は分析という概念の突出した部分からから導き出されたに過ぎない。哲学の歴史、いや分析哲学だけの歴史だけを振り返っても、哲学者達が絶えず深め続け違ったやり方で再構成してきた分析という概念の、豊富で幅広いレパートリが認められる。分析哲学はまだ生きており、それは明らかに、分析という概念自身の範囲の広さによるのである。それは様々に入り組んだ部分的伝統に分割されたが、それら部分的伝統なるものはやがて、彼らの共有した歴史また方法論上での結合いずれによっても互いに結びつくに至った。この記事内における目的は哲学の歴史、それらの結合において分析概念の範囲の一端を示すことであり、分析的方法論と哲学的問題を採り上げて知的に冒険する願望をかき立てられた読者のために書誌学的源泉を提示すことである。


(メモ)
subtraditionという言葉は辞書には載っていない。「半伝統」と訳したが耳慣れない言葉になってしまう。だが、論理学の全称命題・特称命題がそれぞれsuperaltern・subalternateと表現されるのに対応させて理解すれば、「部分的伝統」位がよいのではないかと思われた。




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【2013/11/16 04:53 】 | 翻訳 | 有り難いご意見(0)
The Concept of the Aesthetic


The Concept of the Aesthetic

http://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-concept/

Introduced into the philosophical lexicon during the Eighteenth Century, the term "aesthetic" has come to be used to designate, among other things, a kind of object, a kind of judgment, a kind of attitude, a kind of experience, and a kind of value. For the most part, aesthetic theories have divided over questions particular to one or another of these designations: whether artworks are necessarily aesthetic objects; how to square the allegedly perceptual basis of aesthetic judgments with the fact that we give reasons in support of them; how best to capture the elusive contrast between an aesthetic attitude and a practical one; whether to define aesthetic experience according to its phenomenological or representational content; how best to understand the relation between aesthetic value and aesthetic experience. But questions of more general nature have lately arisen, and these have tended to have a skeptical cast: whether any use of "aesthetic" may be explicated without appeal to some other; whether agreement respecting any use is sufficient to ground meaningful theoretical agreement or disagreement; whether the term ultimately answers to any legitimate philosophical purpose that justifies its inclusion in the lexicon. The skepticism expressed by such general questions did not begin to take hold until the later part of the Twentieth Century, and this fact prompts the question whether (a) the concept of the aesthetic is inherently problematic and it is only recently that we have managed to see that it is, or (b) the concept is fine and it is only recently that we have become muddled enough to imagine otherwise. Adjudicating between these possibilities requires a vantage from which to take in both early and late theorizing on aesthetic matters.


美学的概念

18世紀中に哲学用語集に採り入れられるにあたり「美学的」という言葉は特定の話題、すなわちある種の対象、判断、態度、経験、そして価値について指すようになった。それらを示していく中で美学論は多くの分野で特有の問題に分断されていった。例えば、芸術作品は必然的に美学的対象となるのかどうか、いかにして美学的判断における所与の知覚的基礎とそれを通じて我々自身が下す美的判断との折り合いをつけるのか、美学的な態度と実践生活的態度の対比における捉えどころのなさを捉える最善の方法はなにか、美学的経験を現象学的意味で定義するか具象的内容で定義するか、美学的価値と美学的経験の関係を理解する最善の方法はなにかといったことである。しかしより「普遍的な」本質についての問題についての議論が最近沸き起こってきて、それらは懐疑的であるという特色を持つ傾向がある。すなわち「美学的」という場合、美学的に訴えかけるもの以外の説明を省略した説明は成り立つのか、その言葉の使用は意味のある議論に充分に立脚しているのか、その用語は最終的に哲学用語集に含み得る位の哲学的合目的性をもたらすのかといったことである。そのような普遍的問題を扱う懐疑主義は二十世紀の後半になるまで根付くことはなかった。そしてそれゆえに次の点は早急な解決を要する問題になった。すなわち(a)美学用語が本質的問題になることに対して前向きな回答がなされるようになったのは最近になってからなのか?(b)その用語はすでに回答済みであり、最近になって他の方法で想像できる余地が生まれてきて混乱しているだけなのか?ということである。この両者の可能性に判断を下すためには、美学的問題を扱う新旧いずれの理論がより有力であるのかが問題となる。  

                        
(メモ)
appeal to some otherの訳がとても難しかった。いわゆる学校英語的訳では「他への訴えかけ」となるのだが、それが何の何に対するといったものが伏せられていて、どうもそれでいい感じにならない。少し意味の裾野を考えて「美学的に訴えかけるもの以外」とすることによって隠れている物差しを浮き立たせた。後に続く議論の前提となる解釈になりえているだろうか。とにかく、こういった文章を沢山読んで慣れることが大事なのだろう。



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【2013/11/14 09:09 】 | 翻訳 | 有り難いご意見(0)
Sense of agency 
Sense of agency From Wikipedia, the free encyclopedia

The "sense of agency" (SA) refers to the subjective awareness that one is initiating, executing, and controlling one's own volitional actions in the world.[1] It is the pre-reflective awareness or implicit sense that it is I who is presently executing bodily movement(s) or thinking thoughts. In normal, non-pathological experience, the SA is tightly integrated with one's "sense of ownership" (SO), which is the pre-reflective awareness or implicit sense that one is the owner of an action, movement or thought. If someone else were to move your arm (while you remained passive) you would certainly have sensed that it were your arm that moved and thus a sense of ownership (SO) for that movement. However, you would not have felt that you were the author of the movement; you would not have a sense of agency (SA).[2]

行為主体性の感覚
「行為主体性の感覚」(以下SAという)とは、意志的行動を開始、決定、コントロールする際の自覚のことを言う。それは、動作をまさに今実行したり思考を行う私というもの前反省的知覚または潜在的感覚のことである。一般的に、病的な経験を除けば(SA)は「当事者意識」(以下OAという)と固く結びついており、行動、動作、思考について当事者であるという前反省的知覚または潜在的感覚である。例えば、誰かがあなたの腕を動かすとするとすると(あなたが一方的に受身の側でも)あなたはその動いた腕は自分の腕で、それゆえその瞬間に当事者意識を感じるのである。しかし、その動作を作り出した者だとは感じていない。すなわちそこで「行為主体性の感覚」(SA)までは持っていないのである。

(メモ)
agentの訳については、専門分野によりかなりの幅広い意味が生まれる。
weblio辞書では、 (ある結果をもたらす)力,作用,働き; 【哲学】 作因.
human agency 人力.とある。
また、哲学・言語学の分野では
Agent, Patient 動作主と被動作主(被動作者)
といった使い方がされている。
コンピューター用語の分野では、日常的なタスクを自動的に行うプログラムのことを言う。
ここでは、哲学的に動作主としての主体性として「主体性の感覚」とした上で、
不特定の行為者性としてのagencyに配慮し、「行為主体性の感覚」と訳した。

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【2013/11/06 03:47 】 | 翻訳 | 有り難いご意見(0)
Abduction  スタンフォード哲学辞典より 

Abduction
Abduction or, as it is also often called, Inference to the Best Explanation is a type of inference that assigns special status to explanatory considerations. Most philosophers agree that this type of inference is frequently employed, in some form or other, both in everyday and in scientific reasoning. However, the exact form as well as the normative status of abduction are still matters of controversy. This entry contrasts abduction with other types of inference; points at prominent uses of it, both in and outside philosophy; considers various more or less precise statements of it; discusses its normative status; and highlights possible connections between abduction and Bayesian confirmation theory.

「アブダクション」は、或いは「最良の説明への推論」と呼ばれることもあり、解釈に及ぶ際、特に重要な指標となる推論のタイプのことをいう。哲学者の大部分が、このタイプの推論はどんな形式にせよ、日常生活、科学的理性双方の場においてよく用いられると認めている。しかし規範的な位置づけと同様に、この推論の緻密な形式についてはいまだに意見が分かれている。この項目ではアブダクションを他のタイプの推論と対比して扱い、哲学の範囲内と範囲外いずれにおいても目立った使われ方をするポイントを指摘し、精緻な推論の各々が抱え持つ多様性について考察し、規範的な位置づけについて論じ、推論とベイズ確率論の間で成り立つ関連性にもスポットを当てる。




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【2013/04/19 22:22 】 | 翻訳 | 有り難いご意見(0)
ドイツ観念論とは? 4

(2) ラインホルトの雄図
 カントより1、2世代若いラインホルトは、「厳密な学としての哲学の可能性」を求め、「意識」による統一を試みました。これが彼の「根元哲学(Elementar Philosophie)」です。その原理として、有名な意識の命題――意識のうちで表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる――を立てました。 そして彼は、すべての原理となるような究極の「一者(das Eine)」も検討しました。けれども後述するように、シュルツェの批判にさらされることになります。

 ラインホルトの企図は失敗したと言えましょうが、私たちが注目すべきは、彼が「客観-表象(意識内容)-主観」の3項を包括する「意識」の概念を、提出したことです。ふつう「意識」といいますと、表象や主観の作用に関する機能にすぎませんが、ラインホルトの「意識」は、客観や主観の<存在>をも含んでいます。むろん、そのような「意識」とやらを設定することは可能なのか、という疑問は残ります。また彼の「意識」の中身の3項が存在的に分断されているために、それらを包括する「意識」はほとんど用をなしていません。しかしとにもかくにも、そのような包括的なものを提起したところに、彼の歴史的意義があるといえます。
 この「意識」に替えるに「自我」をもってして、想を新たに改訂版を出したのがフィヒテでした。フィヒテのラインホルト宛の手紙(1794年3月1日付)には:
「私の書きました『アイネシデモス』の書評では、・・・私がいかにあなたの研究を尊重しているかということ、また、いかに私があなたのおかげをこうむっているかということ、ならびに、あなたが立派に進まれた道を、私はさらに進まねばならぬと信じていることを、記しておきました」とあります。

 フィヒテの知識学では「自我」が原理となります。「自我は自らのうちに、可分的な自我に対し可分的な非我を対立措定する」(注6)とフィヒテは述べます。この命題は、なるほど前記の意識の命題「意識のうちで表象は、主観によって主観と客観から区別され、そして主観と客観の両者へ関係づけられる」と似てはいます。しかし、自我と非我の2項は、それを包括する自我が分割されたものであって、前記3項のような存在的な断絶はありません。
 (ところでこのように<カント-ラインホルト-フィヒテ>を通して見ることは、同時代の若干20才のシェリングがすでに行っています)。(注7)

(3) シュルツェからの一撃
 今日ではシュルツェと言えば、ショーペンハウアーの先生であったこと(つまり、この生徒がそのノートに「シュルツェのおバカさん」と書いてしまった愛らしいエピソードですね)、そして『アイネシデモス すなわち、ラインホルト教授によってイェナで展開された、根元哲学の基礎について』を著したことが思い出されるくらいです。しかし、『純粋理性批判』が現れてから11年後に刊行されたこの書物は、当時の思想界にインパクトを与え、とりわけフィヒテを熱狂させました。
  「アイネシデモスはぼくを、かなりの間混乱させたし、ラインホルトを突き倒し、カントを疑わしいものとした。そして、ぼくの全哲学体系を根底から引っくり返してしまった。露天では住めやしないというものだ。いやはや! 再び、立て直さなければならなかった」と、フィヒテは『全知識学の基礎』を著す前年の1973年に、友人宛の手紙に書いています。(注8)

 シュルツェが奉じる懐疑論というのは:
「哲学においては、物自体やその諸特性が存在するか否かについては、また人間の認識力の限界についても、争いの余地なく確かで普遍的に妥当する原理によって、何かが確定されたということはない」というものです。したがって、特に何か懐疑論的理説なり、新しい思想なりを提出するものではありません。(注9)
  だからといって、「シュルツェはラインホルトやカントを批判はしても、自らの代案を出しはしなかった」などと彼を非難するのは、的外れです。『アイネシデモス』の副題は、「ならびに、批判哲学 [=カント哲学] の越権に対する懐疑論の擁護」となっています。天下のカント哲学を向こうにまわして、懐疑論を擁護できたのであれば、一大壮挙と言えます。またシュルツェの批判は、余勢を駆って近代哲学全般におよんでいますが、それが成功して、「哲学においては…何かが確定されたことはない」という彼の主張どおりになれば、これは哲学史における偉業といえましょう。(注16)

 そこで彼は、ラインホルトとカントの哲学を内在的に批判していきますが、その論点は多岐にわたっています。しかし、特に次の2点が重要で、影響も大きかったと思われます。

 ● 哲学の原理と、論理学の諸規則との上下関係
 まずラインホルトから見ていきますと、彼の「意識の原理」は、自らによってしか規定を受けない最高原理であるはずです。しかしシュルツェによれば、「意識の命題は、命題としてまた判断として、全判断の最高原理である矛盾律に――すなわち、考えられるものは矛盾する諸特性を含んではいけないという矛盾律に――、従属している。そして意識の命題は、その形式面やそれが持つ主語と述語の結合に関しては、矛盾律によって規定されるのである。」(注10)
 この点についてラインホルト自身は、「むろん意識の命題は、矛盾律の下に位置する。しかし矛盾律は、意識の命題を規定するような原理として、上位に存在するのではない。矛盾律は、意識の命題がそれに矛盾してはいけないものとして、存在するのである」(注11)と、説明しています。
 「下に位置」しても「規定はされない」というこの言い方が、またシュルツェの批判を招くのですが、いずれにしても、統一的な哲学原理と論理学の規則との関係如何? という大問題が、シュルツェによって提出されたことになります。

 フィヒテはこの問題を、「知識学」関係の最初の著書である『知識学の概念について』(1794年)で取りあげ、次のように述べます:
「知識学は論理学を基礎づけるのであり、その逆ではない。いかなる論理学の命題といえども、知識学に先だって存在することはできないのである」。(注12)
(なるほど、同年にその後出版した『全知識学の基礎』では、まず従来の論理学の規則(A=Aなど)に則り、知識学の展開をしています。しかしこれは、読者の理解や叙述の便利さなどを考えた、方便と見なせるでしょう)。
 ただし、ドイツ観念論にふさわしい新しい論理学の登場は、20年近く後、ヘーゲルの『論理学』(1812年)を待たねばなりませんでした。

 ● 因果律の適用可能性
 カント哲学に対しては、因果性 K A us A lität(原因と結果)のカテゴリーを不当に適用していると、私たちの思いもかけぬ批判を、シュルツェは展開します。カテゴリーは、カント自身が強調するように、ただ経験的な対象・直観にのみ適用されえます。したがって、因果性を想定しえるのも、経験的な対象に対してだけです。
 ところがカント哲学の要ともいうべき、ア・プリオリで必然的な総合判断は、カントによれば、物自体としての心から(心によって)生じます。これはシュルツェから見れば、心が原因となって、必然的な総合判断という結果が生じていることになります。この心はそもそも経験の対象とはなりえませんから、カントの前記の主張にしたがえば、因果性のカテゴリーが不当に適用されたことになり、自己矛盾しているわけです。(注13)
 もちろんこのシュルツェの批判には、さまざまな反論がありえますが、それらに対しシュルツェも辛らつに再批判しています。例えば「必然性は、ヒュームの指摘するように対象の側に見出されるはずはないので、主観の側の心から生じると考える以外にはない」という反論には、「そうとしか考えられないということから、そうであるということは帰結しない。つまり、思惟から存在は導出できない。もしできるのであれば、カントが批判した独断論といったものも、立派に成立してしまうことになる」等々(注14)。

 さらにカントによれば、認識の素材である感覚表象は、対象の物自体が認識主観を触発して生じさせますが、このとき対象の物自体(+主観)は原因となっており、表象は結果です。そこで因果律の適用を経験的なものに限るとすれば、表象が物自体(+主観)から生じたと立言することは不可能となります。
 このことを、因果律そのものを認めなかったヒュームにまで遡って一般化すれば:
「ヒュームの、因果関係の概念や法則を使用することへの攻撃は、まことに深刻なものであった。…ロックやライプニッツの時代以来、全哲学は表象の源泉についての研究によって基礎づけられてきたが、このヒュームの攻撃によって、哲学を体系化するための素材が、私たちからはまったく奪われたことになる。
「したがって…認識の発生の仕方や、…表象の外部に存在するはずの何かあるものについて…言明したり決定したりなど、できはしないのである。」(注15)

 かりにカントにしたがって、因果律は経験的対象にだけは適用できるとしたところで、経験内で充足できるのは、個別的科学です。哲学はそもそも、経験が成立するし方や経験の意味を問うものですから、どうしても経験外のものを引合いに出さざるをえず、またそこに哲学の活動の場があります。ということは、哲学においては因果律は使えないということです。つまり、「 A (経験外に存在し、原因となるもの)→ 因果律→ B (経験的対象、表象)」という構図は無理です。
 これではフィヒテならずとも、「混乱させられる」というものでしょう。けれども、八方塞な状況とはいえ、じつは1つの脱出路を用意していた人がいたのでした。それが天才と評される――というか、欧州三界をさまよい、貧困と戦いながら自己の思想を紡ぎだすという、哲学者の古典的イメージにぴったりな――マイモンでした。

(4) マイモンの志向
 ラインホルト宛の手紙(1795年3/4月)においての、フィヒテの次のマイモン評はよく知られています:
「マイモンの才能への私の尊敬は、限りがないものです。私はかたく信じており、また証明する用意もあるのですが、全カント哲学さえも――この哲学が一般に、また貴方によっても、理解されている意味においては――、彼によって根底から覆されたのです。このことすべてを、彼はなしたのですが、だれもそれに気づかず、しかも世間の人は彼を見下すしまつです。これから百年というもの、私たちは [マイモンへのこうした仕打ちによって] ひどい嘲笑を受けることでしょう」。
 このような手紙を受け取った方としては、災難としか言いようがないわけですが、出した方のマイモンへの感謝は、よく伝わってきます。

 1793年の末に「自我」の概念に想到するまでに、フィヒテがマイモンの著作の何を読んだかは、はっきりしないようです。しかし年代と内容面で、おそらく『超越論的哲学についての試論』(1790年)だと思われます。同書には、「受動 leiden」などの語が見え、フィヒテも『全知識学の基礎』(1794年)でこの語を使っていることから、影響を受けたことが窺えます。しかしこの『試論』は、マイモン独自の思想展開であり、残念ながら私にはまだ把握できていません。そこで同書の内容の概略につきましては、この第5節の(注1)に挙げました廣松渉・瀬戸一夫両氏の論文を参観願えたらと思います。
 私も早急に把握に努めますが、今は平凡社の『哲学事典』(1979年)の記述、「マイモンは…カントの物自体説の批判を通じて、意識の能動的一元論の立場を志向した」をもって、お茶を濁したいと思います。

(5) 結 論 
 こうしてフィヒテは、「A → B」ならぬ「A → A」(自我はみずから措定する)の哲学に、たどり着くことになります。
 そしてカント哲学を発展させる、ないしは批判するといったカントへの拘泥は、ラインホルト・マイモン・シュルツェ達をもって終ったと、フィヒテ・シェリング・ヘーゲルの目には映っていたようです。このことは、後者の3人にはカント哲学を主題とした論考が無いという事情からも、うかがえます。
 フィヒテは、カント哲学が述べていることは結果としては正しいと考え、その内容を改変しようとはしていません。ただ、カント哲学が前提としていることを基礎づけようと、すなわち、原理がもたらす体系的統一性のうちへ置こうとしました。そのことによって一つの新しい世界観が開かれ、ここにドイツ観念論は創始されたのでした。

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(注1) カント~フィヒテ時代の多士済々なドイツ思想界を、紹介したものとしては、『講座 ドイツ観念論』第3巻所収の、廣松渉「総説 カントを承けてフィヒテへ」、瀬戸一夫「カントとフィヒテとの間」などがあります。(戻る)

(注2)『知識学の概念について』「序文」、SW 版、29ページ。(戻る)

(注3)『アイネシデモス』、オリジナル本(1792年)では、38 ページ。(戻る)

(注4) ラインホルトは『哲学者たちのこれまでの誤解を訂正するための論集』(1790年)の第5論文で、「厳密な学としての哲学の可能性」を問題にしており、そうした哲学を建設するために、すべての原理となるような究極の「一者(das Eine)」を求めています。「この第一者は、哲学にとって必須であり、多くの古代哲学者によってぼんやりと予感され、カントの『純粋理性批判』によって暗示され、この論文 [第5論文] によってもっとも明瞭かつ正確に検討されている」。そして、「ゆるぎなく、疑問のよちなく確固とした、全哲学体系」を建設しようとしました。
(ラインホルトからの引用は、『アイネシデモス』からの孫引きです。前記テキストを入手しだい、確認します)。
  またフィヒテも、「ただ、唯一の原則から展開することによってのみ、哲学は [明証的で普遍的に妥当する――筆者挿入] 学問になるのです。こうした原則は存在するのですが、まだ原則としては立てられていない」と考えました(1793年末のJ. F. Fl A tt 宛て書簡)。そして1793年12月の H. Steph A ni 宛ての手紙では、「たぶん二、三年後には、ぼくたちは幾何学のような明証性をもった [フィヒテ自身の] 哲学を、持てると思う」と書いています。
 なによりも「知識学 Wissensch A ftslehre」という用語自体、文字どおりに訳せば「学問論」です。1794年の『知識学の概念について』は、正確には『学問論すなわちいわゆる哲学の、概念について』です。(したがって「知識学」は悪訳であり、少なくともラインホルト以来の時代潮流を分かりにくくさせていると言えます)。
 この「哲学=学問」は、シェリングやヘーゲルにも引きつがれます(「学問は精神の現実性であり、精神が自己の本領において建設されるところの領域である」『精神の現象学』序文、Suhrkamp 版29ページ)。これが破られるのは、教養ある自由な精神、ニーチェ(1844-1900)を待ってなのでしょう。(戻る)

(注5) とはいえ、カント哲学はアカデミックな精密さを備えるとともに、近代的常識にもよく合致しています。しかも哲学の各要素を、バランスよく配置しています。したがって、彼の批判哲学に不満はあっても、その不満な個所をいじくると、とたんに全体が崩れ、大怪我をしてしまうことになりかねません。カント哲学がなお今日に至るまで、大枠としては残っているゆえんです。(戻る)

(注6) 『全知識学の基礎』, SW, Bd. I, S. 110. (戻る)
(注7) シェリングによれば:

 「カントは哲学および哲学者間の争いを調停しようとして、争点を<いかにして先天的総合判断は可能か?>という問いで表現した。「この問いは、最高度に抽象的に考えるときには、次のことを意味する:『いかにして絶対的自我は自己の外へ出て行き、非-我を自己に端的に対置するのか?』」[これはシェリングが知識学の立場から、カントの問いを解釈しています]。
 「このカントの問いは、最高度に抽象的に考えられないときには、その答えともども誤解せられたに違いなかった。したがって次にやるべきことは、この問いをより高い抽象度において考えることであり、そして問いに対する答えを、確かな仕方で用意することであった。このことを表象能力の理論の著者 [ラインホルト] は、意識の原理の提示によってしとげたのである。この原理において、抽象化は最終的段階にまで進んだのであるが、すべての抽象よりさらに高いもの [=知識学の立場] へ達するには、その前に、この最終的段階に人は立たねばならなかったのである」。(『哲学の原理としての自我について』(1795年)、第5章の注 A nmerkung)(戻る)

(注8) 1793年12月の H. Steph A ni 宛ての手紙。(戻る)

(注9)『アイネシデモス』、オリジナル本(1792年)では、24ページ。
 引用文中の「確定された A usgem A cht worden sei ということはない」という過去の事実判断を、「決められるなどということがない」と、一般的原則のように訳している論文もあります。しかし、それではシュルツェの懐疑論とは違ってきます。シュルツェの立場からすれば、「一般的に」決められるかどうかは、分からないということでしょう。
 つまりシュルツェは、いわば最低限の防御線を築こうとしているのであり、したがって『アイネシデモス』の副題は謙虚にも、「批判哲学の越権に対する懐疑論の擁護」となっている次第です。
 なお、この「越権 A nm A ßung」は、カントへの皮肉です。カントは『純粋理性批判』において、「権利問題」を提起し、「越権」を戒めました(B版、116ページ)。しかし、カント自身が「越権」行為をしているではないかと、シュルツェは言いたいのです。(戻る)

(注10) 同書、オリジナル本で 60 ページ。(戻る)

(注11) 同書、オリジナル本で 62, 63 ページ。(戻る)

(注12)『知識学の概念について』SW版では、第1巻、68 ページ。(戻る)

(注13)『アイネシデモス』、オリジナル本で 155 ページ。
 なお、『純粋理性批判』に対する批判は、同書の「ヒュームの懐疑論は、理性批判によって本当に論破されたのか?」の章全体(オリジナル本の130ページ以下)で展開されています。(戻る)

(注14) 同書、オリジナル本で 174-175 ページを参照。(戻る)

(注15) 同書、同本、179-180 ページ。(戻る)

(注16) その上シュルツェは、先験的総合判断の導出に関して、彼の立場からできる範囲での提案もしています。同書、同本、156-157ページ。 (戻る)
(注17) 『近世哲学史』(1833/1834年)、SW 版、第I部、第10巻、79ページ。
 このような考えを、シェリングは『純粋理性批判』を読んだ当時からもっていたようです。19歳の彼は書くのでした:
「『純粋理性批判』において、私には最初からまったく疑わしく無理だと思えたのは、一つの原理を――すなわち、すべての個別的な形式の基礎にあるような原・形式そのもののみならず、この原・形式とこれとは独立の個別的諸形式との必然的連関をも、基礎づけるところの原理を――立てることなくして、全哲学の形式を基礎づけようとする [カントの] 試みである。」(『哲学一般の形式の可能性について』1794年、SW 版全集、本巻第 1 巻、87ページ)(戻る)

(注18) マイモンも、1790年に出版した『超越論的哲学についての試論』で、次のように述べています:
「アプリオリな諸原理に基づくような、本来の学問は、ただ2つしかない。すなわち、数学と哲学である。その他の人間の認識対象においては、この2つが含まれている程度に応じて、学問的といえるのである」。(オリジナル版、2 ページ)(戻る)

(注19) フィヒテは私信では、「最近の鋭敏な人々」の実名を出しています:
「『アイネシデモス』は、ここ10年のうちでも注目すべき書物だと思いますが、この本は私がすでにはっきりと予感していたことを、確信させてくれました:カントやラインホルトの著作の後でさえ、哲学はまだ学問だとは言えないのです」。(1793年末のJ. F. Fl A tt 宛の手紙)(戻る)
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 ドイツ観念論は、疎外論では? また、「主-客」弁証法では?

 ドイツ観念論をいわゆる疎外論(注1)と見なすのは、大きな誤解です。また、いうところの「主-客」弁証法の構図に、なっているのでもありません。このような誤解は、ドイツ観念論の矮小化につながり、
・マルクスの物象化論の登場によって疎外論は克服されたので、ドイツ観念論は用済みであるとか、
・ドイツ観念論は、近代的「主-客」図式の枠内にあるとかいった、
結論になりがちです。

(1) 疎外論ではなく、メタ化運動

 疎外論とは、何らかの精神的な主体が、物質的な対象・客体へと変ずることをいいます。では、
 (i) よく引き合いに出されるヘーゲルの「実体は主体である」を、検討してみましょう。この「実体」ということで念頭に置かれているのは、スピノザの実体ですが、それは「自らのうちに、知の直接性 [即自的な知] ならびに存在の直接性、すなわち知に対する [=知の対象の] 直接性を含んでいる」[強調は原文] (注2)。
 つまりもともと「実体」は、知の契機(能知的な主観、精神的な主体)と対象的契機(物質的な客体性も)の両者を含んでいるのです。しかし、この実体は直接的(即自的)なままに留まっているとヘーゲルの目には映っており、そこで主体的運動をすることによって新しい段階へと進展していかねばならないと、彼は主張します。
 スピノザ哲学は汎神論だと言われるように「神=実体=世界」ですから、結局この進展によって、最初の世界が次々と新しい世界へと生成していくことになります。したがってヘーゲル哲学は、「精神的主体」が客体化するような疎外論ではなく、世界のメタ化なのです。

 (ii) 次に、「自我は自己を措定する」というフィヒテのテーゼ――これによって、ドイツ観念論は創始されたのですが――を見てみます。
 この措定する自我は、経験的に知ることのできような現実に定在する自我ではありません。いわゆる超越論的自我です。つまり、「実在性の絶対的な全体が帰属する」ところの自我です(注3)。したがってこの自我を、対象的な物質に対置されて、それによって制限されているような精神的主体だと考えるわけにはいきません。すなわち「意識と事物(S A che)は、自我のうちで、[すなわち] 観念-実在的なもの(dem idealrealen)のうちで、[また] 実在-観念的なもの(realidealen)のうちで、じかに統一されているのです」(注4)。
 簡単に言い切ってしまえば、フィヒテの自我も、ある種の世界全体なのです。

 (iii) 疎外論においては、疎外されるべき本質的な当体が、真実の実在として前提にされます。そしてこの当体は、たとえ疎外がなくとも、存在する実体です。しかしドイツ観念論においてはそのような当体は、精神的な主体に限らず一般に、想定されていません。
 そもそもフィヒテの自我からして、「自我は自らを措定する。そしてこの自らによるこの措定そのものによって、自我は存在する」(注5)と言われるように、自我が存在するのは、自己措定の運動をまってなのです(フィヒテの「事行」)。
 フィヒテは、後年の絶対的なもの(d A s A bsolute)についても:
 「絶対者は、ただ絶対的な外化を――すなわち、多様性との関係では、まったくもってただ一つの(単純で、永遠に自らに等しい)外化を――持ちえるだけです。そしてこの外化が、まさに絶対的な知です。絶対者自体は、存在でもなければ知でもありません。またこの両者の同一性や、両者の無差別でもありません。それはまさに――絶対者なのであり、それ以上は言わずもがなというものです。」(注6)
 つまり、ドイツ観念論の創始者フィヒテにあっても、自我・絶対者は、超越論的な意味はおいて実質的には、無でした。それなら、「絶対者(神)は・・・」などと言わなければいいではないか(絶対者を主語に据える必要はない)、実在的な発展過程の総体をもって絶対者とすればよいではないか、と主張したのがヘーゲルでした(注7)。

 (iv) したがってドイツ観念論は、ちなみに、一者である神ないし絶対的なものから万物が流出するという、流出論(エマナティオ, Emanation. 新プラトン学派のプロティノスなどが有名)でもありません。ヘーゲルの説明によれば:
 「絶対的なものをもってすべての始原とすべきである、と言えるようにも思われよう。・・・しかし [始原は] まずはたんに即自的なのだから、始原はまだ絶対的なものではないのである。・・・即自的なものは、抽象的で一面的な契機にすぎない。したがって [始原からの] 進行は、流出(Überfluss)の類(たぐい)ではない。始原がすでに実際に絶対的なものであるのならば、この進行は流出であろうが。むしろこの進行は、普遍的なものが自らを規定して、対自的に普遍的なもの――これは個別的なもの、主体でもあるのだが――になることなのである。ただ進行が完結することによってのみ、この普遍的なものは絶対的なものである。」(注8)

 (v) なお、ドイツ観念論の著作において、「疎外(Entfremdung)」や同義語の「外化(Äußerung, Entäußerung)」の用語はむろん使われています。例えば:
   A ) すでに引用した部分と重なりますが、「私 [フィヒテ] にはもとより明瞭だと思われるのですが、絶対的なものは、絶対的な・・・外化を持ちえるだけなのです。そしてこの外化は、まさしく絶対知です」(注6)。
  フィヒテがこのように述べた背景には、ヤコービの『スピノザ書簡』(1785年)で紹介されている、スピノザの思想があったのでしょう:
 「存在 [=実体] のさまざまな外化(Äußerung)のうちのいくつかは、存在の本質から直接流出する。それらは延長ならびに思考の、絶対的で実在的な連続態(Kontinuum)である」(注9)。

 ところで、シェリングやヘーゲルは、これらの Äußerung の用法を知っていたと思われます。なるほど、フィヒテのÄußerung はシェリング宛の手紙中に書かれています。しかし、シェリングはフィヒテからの手紙については、イェナ大学での同僚(というより、部下?)であったヘーゲルにも見せ、意見交換などもしていたのではないでしょうか。
 シェリングとヘーゲルは、ともにテュービンゲン大学で学生生活をおくり、ヘルダーリンなども加わった一種の精神共同体を形成していました。卒業後に 2 人はいったん別れるのですが、シェリングの引きでヘーゲルは、1801 年にイェナ大学の私講師になります。同年の10 月には、ヘーゲルは『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』を公刊し、シェリングへの援護射撃を行っています。翌 1802 年、 2 人は共同して哲学雑誌を創刊します。このような 2 人の関係からすれば、シェリングはフィヒテから受け取った手紙の内容を――おそらく出した手紙の内容も(注10)――、ヘーゲルには知らせていたと考えるのが、自然でしょう。

  b) ヘーゲルが「外化」「疎外」の語を多用するのは、『精神の現象学』(1807年)ですが、その前にも「イェナ期の体系草稿群 III」(1805-1806年)での使用が見られます(注11)。
 
 しかしながら、このように「外化」「疎外」の使用がドイツ観念論に見られるとは言っても、彼らの思想を「疎外論」と規定すべきでないことは、上記 (i) - (iii) で説明したとおりです。

(2) 「主-客」弁証法ではなく、両者の統一態の発展

 ヘーゲル弁証法は、「主-客」図式という近代的世界観の枠内での「主-客」弁証法だと、貶められることがあります。つまり、ヘーゲルは、存在論的に分断された主観と客観を、最初から前提にしており、それに基づいて両者の交渉を論じているというわけです。その例として持ちだされるのが、『精神の現象学』です。
 しかし、『精神の現象学』は、自然的な意識が学問的(哲学的)知へと上昇していく認識の発展を、叙述したものです。したがって一種の認識論なのですから、そこには知る側(主観)と知られる側(客観)が、相対して登場するのは当然です。けれどもこれらは、自立的で分断されたものではなく、もともとは統一態なのです:
 「知が変化することにおいて、意識に対する対象自体もまた、実のところ変わるのである。というのも、現存する知は、本質的に対象についての知であったからである。知とともに、対象もまた別のものになるのだが、それは、対象はその知に本質的に所属していた( A ngehörte)からである」(注12)。
 つまり、実在するのは、「主-客」の統一態です。そして、この統一態の対象ないし知の側(契機)にそれぞれ自己矛盾が生じるのは、それらの統一態が自己矛盾をおこすからです。このことによって、統一態の全体が次の段階へと発展(メタ化)していくというのが、『精神の現象学』の構造だと思います。
 
 ところで、ヘーゲル哲学を語る場合には、よく『精神の現象学』が取り上げられます。しかしこの作品は、本来は彼の「学問へと至る道」であって――ある意味ではこれ自体が学問であるにしても――、いわば前座なのです(注13)。真打は『論理学』なのですから、私たちはこれによって自らのヘーゲル観が妥当するかどうかを、検証すべきでしょう。
 そうすると、『論理学』もむろん弁証法的に書かれていますが、それを考察して、ヘーゲル哲学は「主-客」弁証法であるとの結論などは、出てこようはずがありません。むろん正しく解すれば、『精神の現象学』を読むことによってもヘーゲル哲学の正鵠を得ることはできるのでしょう。が、これはなかなかの難事です。

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(注1) 「疎外」については、廣松渉氏の以下の著作に多く教わりました:
 ・『疎外概念小史』(廣松渉著作集 第7巻所収、岩波書店、1997年。同氏『ヘーゲルそしてマルクス』にも所収、青土社、1991年)
 ・『マルクス主義の理路』の「第三章 疎外論の論理をめぐる問題構成」(勁草書房、1974年)
 ・『「疎外革命論」の超克に向けて』(廣松渉著作集 第14巻所収)の第一、二、七節。
(注2) ヘーゲル『精神の現象学』の「序文」、アカデミー版全集、第 9 巻、14 ページ。
(注3) 木村素衛訳、岩波文庫版『全知識学の基礎』では、下巻、168 ページ。SW, I, S. 129.
(注4) 1800 年 11 月 15 日付の、フィヒテからシェリングへの手紙。『フィヒテとシェリングの往復書簡集』、1856 年のオリジナル版、54 ページ。
(注5) フィヒテ『全知識学の基礎』(1794年)、岩波文庫版では、上巻110ページ。フェリックス・マイナー社の「哲学文庫」版(1970年)では、16ページ。
(注6) シェリング宛1802年1月15日付の手紙。Fichtes und Schellings philosophischer Briefwechsel, 1856, S. 124. 『フィヒテ-シェリング往復書簡』、座小田/後藤訳、法政大学出版局では184ページ。
(注7) 『精神の現象学』の「序文」、ズーアカンプ版のヘーゲル著作集では、第 3 巻、26-27 ページ。アカデミー版全集では、第 9 巻、20-21 ページ。
(注8) ヘーゲル『(大)論理学』、ズーアカンプ版ヘーゲル著作集では第 6 巻 555-556 ページ。
(注9) Über die Lehre des Spinoza (直訳すれば『スピノザの思想について』)、第3版、127ページ。
(注10) シェリングは、1801年10月3日付フィヒテ宛の手紙で、『フィヒテとシェリングの哲学体系の相違』の著者を「大変すぐれた頭脳(ein sehr vorzüglicher Kopf)」と形容しています。これなどは、ヘーゲルへのサービスかもしれません。(Fichtes und Schellings philosophischer Briefwechsel, 1856, S. 107. 『フィヒテ-シェリング往復書簡』、座小田/後藤訳、法政大学出版局では168ページ。)
(注11) Entäußerung は:Jenaer Systementwürfe III, Gesammelte Werke, Bd. 8, S. 281.
 Entfremdung は:ibid., Bd. 8, S. 164.
 この「体系草稿群 III」以前には、哲学的な「外化」と「疎外」の使用はないようです。「体系草稿群」の I と II(1803-1805)の索引(Felix Meiner Verl A g, Philosophische Bibliothek )、および『ズーアカンプ版ヘーゲル著作集』の別巻「索引」で第1巻と第2巻のところを見ても、記載がありません。
(注12) 『精神の現象学』の「緒論(Einleitung)」、アカデミー版全集、第 9 巻、60 ページ。なお、「緒論」の拙訳がありますので、「知が変化すること」で検索してみて下さい。 
(注13) 『精神の現象学』の「緒論」、アカデミー版全集、第 9 巻、61 ページ。なお、「緒論」の拙訳がありますので、「学問へのこの道」で検索してみて下さい。

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 弁証法というのは何なの?
   (とくに、ヘーゲルの弁証法については、こちらを。)

(1) 私たちの観点
 通常の論理(いわゆる形式論理学)とは異なる、あるいはそれを否定する弁証法というものが、どうして登場してこなければならなかったのでしょうか。それは、フィヒテが「自我( A )は自らを措定する」といったとき、自同律(同一原理principle of identity)(注1)など、論理学の諸原理が破られたことによります。

 彼は上記の命題「 A は A を措定する」を、「 A = A 」という式で表しました。この式は一見すると自同律そのものですが、左側の A は措定する(行為する)自我であり、右側の A は措定された自我(事実として残った自我)です。もとより同じ自我ですから、“=”で結ばれています(自同律)。しかし、まるっきり同一であれば、措定と非措定の区別はなくなり、デカルト以来の自我となり、フィヒテ登場の意味はなくなってしまいます。この2つの A は、区別でもあるというのが、フィヒテの命題「 A = A 」です。
 しかも、個別的なものが複製されるといったことではありません。 A はすべての実在性をもつ世界全体ですから、話はいろいろと面倒になってきます。 A はつねに自己措定しているので、それら措定されたものを区別するために B, C, . . . とすれば、もとの A は全体であり、B 以下はその部分となります。けれども、B なども世界全体が措定されたものですから、とうぜん全体でもあるわけです。したがって、全体と部分との関係も常識どおりにはなりません。
 さらに、規定性というものは、例えば規定 A は、それ自体として存立しているのではなく、他の規定 b, c, . . . との相互関係において成立しているという了解が、フィヒテをはじめとして3人にはあります(注5)。ところが通常の論理学で想定されているのは、自立的・自己完結的な規定性です。つまり、 A の存在ないし意味するところのものは、b, c, . . . とはかかわりなく A であると想定されています。
 という次第で、新しい論理学ならびに方法論が、必要となる状況に至っていたといえます(注4)。その1つの定式化が、ヘーゲル弁証法だと思います。したがって弁証法とは、フィヒテ的な「 A = A 」の世界の論理学、私たちの観点からいえば、メタ世界の論理学ということになります。

(2) これまでの弁証法観
 弁証法とは何か、ということについては各人各様の説明がありまして、まだ定番といいますか、定説はないようです。
 よくある説明は、弁証法の語義であるギリシア語の「対話」あたりから説き起こし、プラトンの対話編を引き合いにだして、まず弁証法的展開をうんぬんすることになります。でもこれでは、対立する2人がお互いのいいところを取り入れて、より広い見地から考えてみるというだけのお話です。軽い調子で、「この問題はもっと弁証法的に見ないと」などと言われるときも(えっ、もうそんな風に言う人はいない!?)、こうした意味です。こうしたレベルでは、まわりくどい「弁証法」より、真か偽かの二分法 dichotomy, Dichotomie での一撃必殺が、好ましいと私なども思います。

 そこで、哲学的にはとくにヘーゲル弁証法が問題となります。なんといっても、弁証法を主張し、有名にしたのはヘーゲルですから。彼の「論理学=客観世界の運動法則=認識の発展法則」である弁証法的運動は、矛盾によって生じるとされます。ところが、この矛盾は原理的にどうして起きるのか、という肝心な点がヘーゲルの読者にはよく分かりませんでした。彼がおそらく、うそも方便という感じで持ちだした「飛んでいる矢」の例なども、少しは物理学や数学を勉強したものにとっては、へ理屈・詭弁にしか響きません。
 そもそも、論理学でもあれば、客観的世界と主観的認識の法則でもあるようなしろものが存在するのか、と疑がわれていましたし、現実をみても「正(テーゼ)-反(アンチテーゼ)-合(ジンテーゼ)」の弁証法的運動にならない例は、いっぱいあります。タイムスパンのとり方しだいでは、「正-反-両方ともポシャッた」とか「正-正-正」で押しとおしたの類です。

 こうした事情から、ふつうであれば弁証法はあまり注目されることもなく、専門哲学者の関心事で終わってしまうところだったのでしょう。ところが、マルクス主義が「逆立ちしているヘーゲル弁証法を足で立たす」形で批判的継承をしたのみならず、イデオロギー的武器として使ったために、冷戦終結までは注目されることになりました。とはいえ、典型的にはエンゲルスが指摘したような弁証法の3法則――「否定の否定は肯定」「対立物の相互浸透」「量と質の相互転化」――は、科学的にはそうだともいえるし、そうでないともいえる大変あいまいなものです(というか、科学はそもそもこうしたことを、問題にはしません)。また哲学的には、「なぜ3つであって、それ以外にはありえないのか?」「この3つはバラバラに並立したままであるが、より根底的なものはないのか?」といった批判を、こうむることになりました。

 しかし他方では、弁証法の祖形はフィヒテ知識学の「正-反-合」にあるのですから、かりにヘーゲル弁証法は分からなかったとしても、フィヒテなどを研究することによって、弁証法の合理的核心が見出せないかといった探求がなされます。
 またヘーゲルの『論理学』や、弁証法的方法論にもとづいて書かれたとされる、マルクスの『資本論』に触発されて、さまざまな人が、これこそ真の弁証法であるとの説をたてました。ここではそれら諸説にたちいることはできませんが、管見のままに感想を述べれば、それら諸説は弁証法の一面を捉えてはいるものの、全体像を提示してはいないようです。

 よく知られた廣松渉氏のものだけに触れておきますと、氏は事態が進展していく際に、当事者の意識と、それを外部からながめる学知者との意識のくいちがいに、弁証法的発展の原動力を設定しています。このことは、シェリングも彼の方法論として提示していたのですが(注2)、私たちからすれば、なるほど弁証法の重要な1局面の指摘ではあっても、全体像(メタ世界の論理学)にはならないのです。

(3) 誤解による非難
 ときおり耳にする誤解による(というより勘違いによる)弁証法非難に、次のようなものがあります:
 「弁証法は、『自同律』や『矛盾率』などを破棄し、形式論理学を認めないというが、それではいかなる論理も成立するはずがない。すべて論述は形式論理にのっとらねば、狂人のたわごとになってしまう。例えば、『AはBである』と述べた後で、AをCの意味に説明も無く変えて、『AはBではなくCである』とは展開できない」。

 このような批判に対しては:
1) 論理学(これを、私たちは思考や論述の対象にします)と、言語の使用規則(これに則って、私たちは自らの考えを伝えるべく、文章を作成します)を、混同ししている可能性があると、指摘したいと思います。
 なるほど弁証法家は、形式論理学を、それが正しいと信じられているようには認めません。しかし弁証法家といえども、論述するさいには使用する言語の規則(文法やレトリック)に、当然のことながら従います。そうしなければ、自らの意図する言語的意味が生じてはこないし、また他人に伝達することも不可能だからです。したがって、弁証法家の論述する文章が、形式論理学にしたがっているようにみえても、それは使用している言語の規則にしたがっているまでなのです。
 だから前述の非難例に対しては、「『同じ論述のうちでは、一つの言葉が説明も無く別の意味をとってはならない』という言語規則(文法)が、社会的にある以上、弁証法家も当然それに則っています」と、答えるわけです。(注3)

2) 弁証法家が形式論理に反対するのは、ある世界とそのメタ世界との関係が、かかわる場面においてです(そして哲学上の諸問題は、おもにこのような場面で生じるのですが)。したがって同一世界内では、形式論理は妥当します。

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(注1)広辞苑(第5版)によれば:
 「思考原理の一。「 A は A である」の形式で表されるもので、概念は、その思考過程において同一の意味を保持しなければならないということ。」
 私たちとしては、私は思考過程のみならず、客観の側の対象もふくめて同一律を考えています。(戻る)

(注2)シェリング『先験的観念論の体系』1800年(Felix Meiner 社、Philosophische Bibliothek 版、2000年、57-58ページ)。(ただし、廣松氏にとっての「当事者の意識」が、シェリングでは「私たち学知者」として記されています)。
 ところでシェリングのこうした観点は、フィヒテの知識学を反映しています。フィヒテによれば:
「知識学においては、大きく異なった2つの精神活動の列がある:哲学者が観察している、[当事者である] 自我の [活動の] 列と、[学知者である] 哲学者の観察 [活動の] 列である。知識学以外の哲学においては・・・思惟のただ1つの列しか、すなわち哲学者の思考の列しか存在しない。」(『知識学への第2序論』1797年、I. H. フィヒテ版全集第1巻454ページ)(戻る)

(注3) (1) だからといって、次のような言語使用を認めないわけではないのですが、これらは哲学外の問題となってしまいます。
・子供と話すときなど、文法的な規制は希薄で、通じればそれでいい場面が多いですから、1つの語の意味をずらしたり、別の意味で使用する。
・使用言語の文法に半ば従いつつも離反して、固有の意味表現を創出する――これは詩人の仕事ですね。

 (2) 「しかし言語の文法は、形式論理に則ったものではないのか。だから、文法に従うときには、結局のところ形式論理にそうことになるはずだ」との反論が、あるかも知れません。これに対しては:
 たしかに、ネイティブスピーカーにとっては、母国語の文法は、実質的には形式論理に則っていると感じられます。ところがその言語を外国語としている人が、客観的・形式的にみれば、その言語が非論理的だと思われる場合は、多々あります。例えば、二重否定になっているにもかかわらず、たんなる否定の意味になるとかです。日本語のように主語が省略される、いえ省略するという意識すらない――意識されるのは、外国語と比較することによってです――言語は、それこそ論理以前というべきかもしれません。
 したがって、言語の文法が形式論理にのっとっているとは、単純にはいえません。とはいえ、各言語は正常に機能することができ、また、母国語は論理的だと思いえるという事実は、あります――しかし、問題がことここにいたりますと、これは「言語・意味・世界」といった別の大問題となってしまいます。そこでこれ以上は立ち入りませんが、私見では、このような問題の解明でこそ、弁証法は重要な役を果たすはずです。(私見では重要な論点は2点で、世界に意味論的真空は存在しないことと、言語ならびに世界のメタ性です)。

 (3) 「それでは、形式論理学をさらに精密化した記号論理学を根幹にすえて、これに豊富なボキャブラリーを与え、すべての言語をこれに翻訳してしまえばいい。そのときには、文法と形式論理学は一致することになる」との反論に対しては:
 記号論理学は数学であって、はたしてそれが「言語」となりえるのかという問題があります。記号論理学の延長上に理想的な言語が望見できるのであれば、ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』から、日常言語へ転回する必要はなかったわけです。私見では、記号論理学をいくら精密化ないしは豊富化しても、意味論的な空隙が残ってしまい、どの言語も持っている「世界すべてをおおいえる(しかし、すべてを表現しえるのではないのですが)」という特性を、獲得できないと思われます。(戻る)

(注4) しかしフィヒテ自身は、自同律や矛盾率を真理だと見なしていました(それらは「知識学」によって、基礎付けられねばならないにしても)。「『アイネシデモス』への書評」(1794年)において、シュルツェに対する皮肉として、彼は次のように述べています:
「自同律と矛盾律がすべての哲学の基礎として、あるべきように立てられるときには、望むらくはもう誰も次のように主張しないことを:私たちは将来、矛盾することを可能なものとして考えられるような文化の段階に、達することも可能であろう、と」。(I. H. Fichte 版フィヒテ全集、第1巻、13-14ページ) (戻る)
(注5) 概念の関係性ということを強調したのは、マイモンであり、彼の大きな功績だと思いますす:
 「純粋概念とは(すなわち、いかなる直観も、たとえアプリオリな直観にせよ、含んでいない概念)、関係概念(Verhältnis-Begriffe)以外のものではありえない。なぜなら概念とは、多様性においての統一にほかならないからである。そして、多様なものを統一として考えることができるのは、ただ多様なものを構成している諸要素が、相互的ないしは少なくとも一方的に、同時に考えられるときである。(『超越論的哲学についての試論』(1790年)、オリジナル版では 36-37 ページ。オンラインテキスト上では、Reine Begriffe,meiner で検索してください)
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 ドイツ観念論の問題点は?

 「部分の展開・発展は、どのように全体に反映されるのか」ということが、私たちとしては問題にしたい点です。ドイツ観念論では、部分や個別的なものは、全体によって存在を与えられ、規定されます。これは、すぐには悪しき全体主義であるとはいえません。たとえば現代の構造主義言語学の構図(各言葉はそれが占めるところの、言語全体の中での位置に応じて、言語全体から意味を付与される)にも通じるものであり、一応了解することができます。
 しかし、部分がまったく全体によって規定されるのであれば、いくら部分が変化したところで、また新しい経験をしたと思われたところで、それらは全体にとってはすでに織り込みずみのもの、既知のものでしかありません。それらは、全体のうちにすでに内蔵されていたものが、新たに展開しただけとなります。じっさい、ドイツ観念論はこのような枠組みの中にあり、またそうでしかありえません。というのも、ドイツ観念論者にとって究極の全体性は神ですから(注1)、神が新しいものを獲得するとか、新しい経験をするということはありえないからです。

 しかし現代の哲学では、全体は言語であったり、人類社会(の歴史)であったりと、たとえそれが観念的・理念的なものであっても、此岸的に想定されます。したがって、部分の変化・経験が全体へフィードバックされないと、困ってしまいます。
 哲学的に見た場合、部分から全体へフィードバックする構造を確保できないということが、ドイツ観念論の重大な問題点だと思います。

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【2012/10/30 04:28 】 | data | 有り難いご意見(0)
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