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「当たり前のこと」にあらためて気がつく時、体がふっと軽くなることがある。昔のおきまりのルーチンワークだとか、直観的にかきなぐっていたメモの余白だったりを振り返ってみると、感じることのできたこと、分かっていたことを、時間とともに置き去りにしていたのだなどと思う。それを恥ずかしげもなく追いかけていくことのできる若さを、決して無駄ではないと信じたい。そこで得られたいくつかのささいな気づきは、まだしまい込まれたまま証明を待っている。はじまりはエモーションだ。私たちは、デカルトに帰る時にだってそれを忘れることはない。
さて、20年くらい前はたいていの大きい本屋ならば見つけることのできたこの本である。シェーラーとハイデガーをはじめとする古今東西の思想家の人間観が、運動会の全員参加型リレーの如く登場してくる。人間とは何かに対する直球的解答の一覧、それだけでも読み応えがある。もちろん、現代の人間科学から見ればそれは堂々巡りの使い道のない風景のようなものなのかもしれない。しかし私は思う。こんなものへこそ大きなおまけが付いてくるものなのだと。真摯なもののとっかかりを決して涙の谷に流さない人間の形而上学。機会があればぜひ一読を薦めたい本なのである。
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予定調和的に理解できるものと、デューイの翻訳をはじめたのだが、単純な用語の多用や難解な表現に度々出くわし、視野を広げざるを得なくなった。そんな時に読んだこの本である。記号学の祖パースからデューイ、そしてモリスへと繋がる系譜が書かれており、記号学史全体からデューイの思想を抽出する助けになった。今までの理解を超えて新たにのびてくる地平があり、デューイの果たした重要な役割をより明確に位置付けることができた。 パースは記号の必然性・形式性を強調し、カントのカテゴリを発展させ、文の構造にあてはめることによるゆらぎを解釈項として比較対照した。また、記号過程において直観を排し、経験的に進化することで、ドライな力学がたちあらわれてくる。また、そこで起こる解釈項の問題がデューイの研究を促し、道具的・文化的記号選択、反射弧へと受け継がれ、状況による切り換え・選択を繰り返す人間の実生活に当てはめ直される。そして、その習慣論における「傾向」は、モリスの「解釈傾向」へ受け継がれる。モリスは、パースとの類似点が指摘されることもあるが、「解釈傾向」の同機という問題意識からとらえれば、その「価値的意味」の概念は、むしろ本源性への志向として跡づけられるだろう。
記号学の重要なキーワードが多数網羅されている本書は、初心者にとって非常に有用だと思われる。
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28先日、庭園の手入れのように書棚を整理していたら、ふと目に留まった。「ねじまき鳥・・」を書いたばかりの村上春樹と絶えず新しい視覚を提供し続ける河合隼雄の対談集で、いままでよりも大きな社会に投げ出される者の考えるであろう問題意識のとっかかりが至る所に示されている。そういえば、なんだろう。この本を読んでからやたら”デタッチメント”という言葉を用いるようになったっけ。もう少しいい生き物に変われないだろうかなんて心のそこで思いながら。つたないものにもだんだん確信を持たされてゆく、人間的魅力に裏付けられた愉しい会話に、人生のペーソスや作家的視点がにじみ出ており、すっかり読みふけってしまった。気がついたらもう朝ぼらけ、猫がそばで眠っていた。 「自分でもうまく言えないこと、説明できないことを小説というかたちにして提出してみたかったということだと思うのです。それはほんとうに、ある日突然きたんですよ。・・それが結果的に文章としてはアフォリズムというか、デタッチメントというか、それまで日本の小説でぼくが読んでいたものとまったく違ったかたちのものになったということですね。」
「人間の根本状態みたいなものはある程度普遍性をもって語られうるけども、その普遍性をどう生きるかというところで個性が出てくる。ある人は海に潜るよりしかたがないし、ある人は山に行くよりしかたがないし、ある人は小説書くよりしかたがない。」
「モラルをどう考えるかということは、ものすごく(言語化が)むずかしい。」
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